過去は、変えられるんだよ
※今日話すことは、性暴力の表現を含みます(具体的な描写は避けています)。苦手な方やトラウマ体験のある方などは、お控えください。
あるワークショップに会社のみんなと参加しました。
「自分の好きなことを15分間、しゃべってみてください」という回があって、いつもの自分だったら、スラスラと少しオチも入れながら喋れるんですが、その時は何も思いつかなかったのです。なんでもいいのです。最近あったこと、出会って人、過去の体験、好きな食べ物、なんでも。しかし、何も口から出ませんでした。
そのことがショックで、それでも何かしゃべんなくちゃいけないと思って、その状態自体のイメージを話しました。私の体の奥底にふたが固く閉じているツボがいくつもあり、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」のように深くに置かれている。ふたが閉じられているだけでなくて、紐でぐるぐる巻きにされているから、開けようがない。でも、中にただならぬものが入っているのがわかります。そこを開けることができれば、私はしゃべれる…。
今日はそのふたの一つを開けた話をしたいな、と思います。
心臓のない人形のような気持ち
ワークショップの数日後、たまたま飲み会の席にカウンセラーの方がいました。私は、自分がいきなり何もしゃべれなくなってしまった不思議な体験を話すと、「良かったらセッション受けてみますか?」と誘ってくれました。半信半疑で、うなづきました。こんな抽象的な話、ちゃんと伝わっているのかな?まぁ、人生経験だと思ってやってみるか!くらいの気持ちで彼のセッションを受けることに。
すると、毎年ふとした瞬間に思い出す過去のイメージが、彼のシンプルな質問のあとに、思い出されました。そして、それを素直に話しました。
小学校5年生の時、通学路の途中で痴漢にあいました。「痴漢」というと、満員電車の中で体を触られるイメージがあると思います。その時は、他の人がほとんど誰もいない歩道橋の上でした。学ランを着た男の子が私にいきなり近づいてきて、その行為を始めました。
友達と二人で歩いていたので、あまりにも突然なことに何が起きているのかわかりませんでした。友だちも同じくらいびっくりして、声もあげられません。心臓のない人形のような気持ちになって、ただただその場が終わることを待っていました。待っていた、というより、とにかく自分を強制シャットダウンさせていました。いつの間にかその男性は走っていなくなり、目の前に唖然とした友だちが立っていました。
「先生に、言おう」
友だちが私の手を引っ張ります。私は力も抜けているし、頭も真っ白だし、ただただ彼女のことを追うばかり。気づいた時には、担任の先生の目の前にいました。残念なことに、私の先生は男性でした。
私は、「言わなくちゃいけない」という空気に飲まれて、自分が受けた痴漢の内容を話しました。そこに悲しいとか、悔しいとか、怖いとか、そんな気持ちはありません。脳も心臓もない人形が録音された言葉を話しているだけです。
その後、ホームルームの後に先生は再び私の席まで来て、「もう少し詳しく教えてくれる?どこを触られたの?」と聞いてきました。今の自分だったら、その行為自体がセカンドレイプになることを知っています。その当時は「話さなくちゃいけない」とプロミングされた子どもでした。なるべく周りの友だちに聞かれないように小さい声でしゃべります。先生は普通の声でしゃべるので、結局小さい声の意味はありませんでした。
その後、警察に呼ばれて、再度事情を話すことに。母と一緒に行きましたが、私のカラダはとてもとても重い鉛のようでした。重力に逆らうのが精一杯でした。女性の警官が優しく質問をしてくれますが、私がもたれかかっている壁の落書きが全て怨念のように見えて、さらに暗い気持ちになっていたのをよく覚えています。
私を傷つけた男性は、後日捕まります。高校生の男の子でした。
11歳の自分と31歳の自分
一気に蘇る記憶…。気づいたら、私の目からは大量の涙が溢れました。呼吸するのも苦しくなるくらい、泣きました。その時に初めて私は気づいたのです。
「私は誰にも話したくなかったんだ」
ということを。先生にも、警官にも、母にも。当時の小さな私は何が起きたのかわかりませんでした。相当傷ついていたのです。事情を説明できる精神状態ではなかったはずです。でも、その感情さえ、よくわかりませんでした。感情を置いてけぼりしたまま、私はベルトコンベアーで「先生に話す」というポイントへ強制的に運ばれていったのです。
あの時、置き去りしにしてしまった感情を31歳の私はやっと気づくことができました。同時に、過去にタイムスリップしたような感覚になりました。
先生の前で、なんとかしゃべろうとする小学校5年生の私。その後ろで31歳の私がいる。後ろから抱きしめて、「無理して話さなくていいんだよ。ちゃんと悲しんでいいんだよ。ここから逃げていいんだよ」と投げかけます。
あの時、私が欲していたのは31歳の自分でした。自分が押し殺そうとしていた感情をちゃんと拾い上げてくれる自分。そのイメージが私を救ってくれました。自分の中にあるつぼのふたがちゃんと開いて、そして中身がちゃんと成仏された瞬間でもありました。
人生は、ふたを開けること
数日後、別の友人と話しました。彼女は私の人生に必要な言葉をポツポツと教えてくれる人でした。
「ありさ、過去はね、変えられるんだよ」。
彼女は私の話を聞いたあとに、優しく言いました。
「普通はさ、過去は変えられないと思うでしょ?でもね、今の自分が過去ときちんと向き合って、書き換えることができる。自分が望む過去にしたらいいんだよ」
文字通り聞くと、恐ろしいことかもしれません。ただ、私は孤独で何も言えなかった小学校の自分の過去が、31歳の自分が寄り添っている過去に書き換えられることで、救われました。
人生には、ふたがしっかり閉じられた壺がたくさんあります。私にもまだまだあると思います。どこかで気持ちを押し殺してしまった瞬間ってあると思うんです。
これからの人生、それに気づいてあげることが、もっと前に進むためには必要になる。それは怖いことじゃなくて、もっと楽になるということ。もっと幸せに近づくということ。と、信じています。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?