「子どもって可愛い❤」への疑念

子どもが嫌いだと思っていた。
でも、今思えば、「ちやほやするのが正解」と言わんばかりの大人のテンションがウザかっただけの時も多かったように思う。
結局は子どもを取り巻く大人の態度が嫌いだったんだんだろう。

まず昔から感じていたこととして、「子どもは純粋」、「無邪気」、その一方で「残酷」、というテンプレートは乱暴で適当な言い分だということ。
子どもだった頃の世界を覚えていたら、そんなこと言えるだろうか?

何が正解か不正解か分からない世界。
不正解だとして、その度合いも分からないから、怒られたり叩かれたりしてみないと手がかりも得られない。
その判断をくだす親に生命を握られている。自力では生きられないから、機嫌を損ねてはいけない。
世界は混沌として憂鬱だったし、いつも不安でもの哀しかった。そんなことじゃ大人になって困りますよ、とか親とか教師はよく言ったものだけど、大人の方がよほど楽。少なくとも人権があると感じる。あって当然のそれを、子どもの頃は無視されがちだった。というか、「散々迷惑かけられてるし生活費も払ってんだからこれくらいの態度は許される」とか「子どもだしどうせ何も分かってない」、「大人になったら忘れてる」という思い込みからくるのであろう大人達の強気な態度が恐怖だった。先入観による決めつけは、学術的にいうと必ずしも差別ではないが偏見では確実にある。それが嫌だった。

「子どもは純粋」を違和感なく口にしてしまえる人は、そういうことを感じずに育つ幸運に恵まれた人だと思う。いい意味で鈍感とも言えるのかもしれない。子どもは、と大きな主語で定義づけができてしまえたり、世の中の言い分をシンプルに受け入れられたりできるのは、確かに純粋でもあるんだろう。

そういうモヤモヤを、子ども達の姿は思い出させたし連想させた。だから嫌いだったのかもしれない。元はといえば、自分の傷ついた過去が疼いていたということで、いわゆるインナーチャイルドが泣き出すって感じ。平穏が乱されて困る。だから嫌という構造。
そこへ、「可愛い~❤」と騒ぎ出す大人達が加わるから余計にうるさい。

そしてこの「可愛い~❤」にも色々な感情が混じってみえるのは私だけだろうか。
かわいいと感じられるのは健全な愛情を持っているという証左だ、という圧。子どもを持つという社会的に幸福と言われる事象を他人が享受していることを喜べる人間です、というアピール。
そういう、大人に対するメッセージを子どもにぶつけて表現するというのは、子どもにしてみればフェアじゃない。やたら近付いてきて大声をあげる赤の他人って、普通に怖い。今はコロナの影響で少なくなったはずだけど、少し前までは手を握ったり、場合によっては頬をつついたりする様子も見られた。泣くのは順当な反応だと思う。それを受けても泣かせた方は「どうちたんでちゅか~」とか言ってるから見ていて辛いし、周りも「子どもは泣くのが仕事だから」とか訳分かんないこと言ってるし。

人柄ではなく、「子どもである」という社会的属性を頼りに判断を下し、その所感を大声で口にするという振る舞いを、大人に対してやるだろうか。やっていいことだろうか。
私はやっていいと思わないし、どんなに肯定的な思いの表現だったとしても、やれば礼を失する態度にはなると思う。
例えば、街でものすごい美人が歩いていたとして、「可愛い~❤」と大声を出し近付いていくだろうか。頬をつつくだろうか。大人にはやらないけど子どもにはやるという人がいたら、それは相手を選んで態度を変えているということで(しかも判断基準はごく表面的な要素)、それは私にしてみれば立派な人権侵害に映る。

「子ども」だからここまではやっていい、ということはない。同じ人間としての敬意を払い、接したいと思っている。

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