死にたいという想いについて

私は昔からよく「死にたい」と思う子どもだったし、今でもそう。なんで生まれてきたんだろうとよく考えるし、死にたいと思うことも月に何度かある。
抑うつと診断されたことはあるけど、動けなくなったことはないから、ごく軽い症状だったんだと思う。「死にたい」は影のように、ずっと一緒に生きてきた存在だ。

高校生の頃、死にたいと思うことがあると言ったら「怖」と言われた。ちょっとトラウマっていうか、たまに思い出す。「え、他の人ってそういう感じなんだ」ってびっくりしたから、印象に残ってるって感じ。
母親に「死にたい」と堪らなくなって伝えてみたら、「そっか」ってやっぱり未知のものを見る目で見られて、やっぱり全員にとって死にたい気持ちは身近じゃないんだな、と思ったりした。

「死にたい」という思いに対して向けられる世間からの嘲笑(『若きウェルテルの悩み』でいうところの、「ばかなことを。あと一日待てば、状況は変わったかもしれないのに」)、反発(「あなただけが辛いんじゃないよ」「生きてることに感謝しなよ」)を気にして、死にたい気持ちに蓋をして生きてきた。
職場ではいつも笑顔を心がけてるし、「いつも笑いかけてくれるから和む」「落ち着いてる」って言われるから、「死にたい」と仕事って両立できるんだなあって思う(もちろん、起き上がれないとか辛い症状がある時は病院に行くべき。私はたまたま今元気だから仕事に行ってるだけ)。

そうやっていわば仮面的なものをつけて死にたいと思う自分を隠そう隠そうとしてきたんだけど、最近思うことがある。

「『死にたい』って、別に変なこと言ってなくね?」。

生まれてきたこの星って、数えきれない悲しい歴史があるし、今の世界だって決して完璧じゃない。そういう場所に五感というセンサー、他の動物にはない情報処理能力、複雑な感情をもって生まれてきて、周りを見回し、生き延びるうちに「辛い。空に帰りたい」って感じた……って、え、なんか変なこと言ってますか?って思う。
筋が通った主張だと感じる。考えてみたら、何も変じゃない。
大丈夫だよ、もっと自分の直感を信じて、重んじてみようよ、って、「怖」と言われてしょんぼりしてる高校生の自分に言ってあげたい。

死にたいって思う自分のこと、もう隠さなくていいと思う。
繊細さや真面目さを持ってる証拠だと感じるし、死にたい気持ちごと生きていきたい。
人を癒したり、創作活動をする上では、ちょっと死にたくなっちゃうくらいの感性がちょうどいい気がするし。私は自分の在り方を気に入っている。死にたいという気持ちごと。

身近な人を亡くした経験から胸が痛んで、悲しみや怒りが湧く場合もあるから、死にたい気持ちを相手を選ばず打ち明けてしまうのは良くないと思う。「生きてることに感謝しなよ」のうちのいくらかは、こういう切実な反応なのかもしれない。

でも「死にたい」に対して妙に強気な人っていて、それに萎縮しちゃったりするんだけど、差し迫った理由もなく反射的に「死にたいなんて思ったことがない、思う方が悪い」「何言ってんの?w」って発信できてしまうっていうのは、ちょっと人生に対する真面目さが足りてないんじゃないの、と思う。
生まれてきたからには、息切れするくらい生きてみろよ。
もう無理、ってなるくらい生きてないから、そんな余裕なんだろ、みたいな。

人間って、さまざまな感情を味わうために地球に生まれてきたって聞いたことがある。何度も転生を繰り返して、地上での経験を通じて感情体験をして、少しずつ少しずつ、魂を成長させていくんだって。
それがほんとなら、せっかく生まれてきたんだし、死にたい気持ちってオプションも味わおうと思う。追加料金ないし。必死で生きてこその人間じゃん。

それに、「なんかおかしい」って感じないと、それを変えようと努力できないじゃないですか。
世の中について「つらい」「おかしい」「なじめない」って感じないと出来ないことって、たくさんあると思う。
何も変える必要のない完璧な世界ならいいけど、もしそうならSDGsいらない。
なじめない人間のつらさって、世の中を変えていくためにあるんじゃないかなって、最近思うのです。

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