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デジタルピアノ/アコースティックピアノの二項対立から逃れたい(1)

コンクールやそれに類するイベントの審査やアドヴァイザーなどを務めると、審査員・アドヴァイザー間でよく聴かれるのが
「電子ピアノで練習してる子っていうのはすぐわかる」
「たぶんあの弾き方は電子ピアノで練習してるんでしょうね」
などの言葉です。

タッチがいまひとつ貧弱で、
ステージ上のグランドピアノから十分な鳴り響きが作れず、
音が遠くまで伸びないとか、
音色の変化や表情に乏しいような場合に、
そのように捉えられがちだと思います。

教育現場における「切実な声」としても
電子ピアノ(=デジタルピアノ)が「問題」として言及されることが少なくありません。

つまり電子ピアノは、本物のピアノにはかなわない、
偽物の、劣るものなのだ、といった見方です。

とはいえ、子どもの習い事として、大人の趣味として、
ピアノを始めようとする人の大半が、
いきなりアップライトなりグランドのピアノを家に入れるのではなく、
より安価で、場所も取らず、気楽に導入できる電子ピアノを買うのは
現実的な選択です。

そして、電子ピアノは劣る、良くない、という言説は、
あくまでも、いわゆるアコースティックピアノと比較をしたり、
その代替物として使用しようとしたり、といったコンテクストでの話です。「デジタルピアノ/アコースティックピアノ」という
二項対立で考え続けている限りは、
どうしてもデジタルは「負」へと落とし込まれてしまいます。

多くの人が演奏表現したいと願い、
そのスタートを切るための入り口に対し、
最初から「ペケ」が付くように捉えられ続けてしまうのは、
どうにも納得がいかないというか、
なんだかみんなが幸せじゃない。
「あなたのその音楽のやり方はザンネンです」
って言ったり/言われたりするのは、それこそ残念じゃありませんか。

本当にアコースティックが素晴らしくて、デジタルが劣るのか。
そもそものアコースティックとデジタルの対立構造から
逃れることはできないものか。
デジタル楽器を選ぶことを、
「置き場所がない」「お金がない」「長く続くかわからない」
といった消去法的な理由ではなく、なにか積極的な選択として
捉えるための風穴はどこにあるのだろう…?
どこかに「デジピ/アコピ」を脱構築する方法がないものかと、
ずっと考えてきました。

その、鍵になりそうな、風穴を開けられそうなヒントが、
なんと今日、私なりに見つかったような気がしています。

中目黒GTプラザホールで開かれたコンサート
「2台のデジタルピアノによる演奏会『白と黒で』vol.1
(デジタルピアノ:本荘悠亜、横山博)

を聴いている間に頭の中がいろいろ忙しくなって、
気づきがありました。

長くなりそうなので、次の投稿に続きます。

(2)はこちら


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