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デジタルピアノ/アコースティックピアノの二項対立から逃れたい(2)

本記事のテーマその1はこちらでございます。

さて続きです。
デジタルピアノをグランドピアノやアップライトピアノと比較して「劣った偽物」と捉えないためのヒントが、本荘悠亜さんと横山博さんのコンサート
「2台のデジタルピアノによる演奏会『白と黒で』vol.1」を聴いて、
得られたように思えました。
ここではまだ、コンサートのレビュー的な話よりも、私自身の気づき、その結論めいたところからメモしておきます。

本日の気づきとはズバリ、

デジタルピアノは、ピリオド楽器である。

という視点。つまり、デジタルピアノは時代楽器としてその様式なり演奏習慣に沿った形で扱ったり捉えることによって、もっとも輝きを実感できる楽器だということ。

ピリオド楽器とか時代楽器というと「古楽」が連想されがちですが、ピリオド=時代をニュートラルに“今この時代”と捉えれば、デジタルピアノは現代の社会や人々の暮らしに即した、現在日進月歩で変化の途上にある楽器だと捉えることができます。

私たちは、たとえばバッハやハイドンが愛したクラヴィコードというあの繊細な楽器を前にして、モダンピアノを扱う時のような強靭なタッチでガンガンに鳴らそうとは誰も思いません。
モーツァルトが愛したヴァルターのフォルテピアノを前にして、モダンのフルコンなみのボリュームを2000席のホールの隅々まで響かせようとは、誰も思いません。

クラヴィコードなら指先で作るレガートを大切に味わいながら、深夜でもかそけき響きに酔いしれながら音楽を楽しむことができますし、ポータブルに馬車に乗せて移動だってできたものでした。

ヴァルターのフォルテピアノなら、跳ね上げ式のハンマーが滑舌のよいイキイキとした鳴り響きを生み出すことができ、音域ごとに異なった音色や、語るように楽しい音楽を表現することができました。

さて。現代のデジタルピアノというピリオド楽器はというと、いわゆる「モダンピアノ」と呼ばれるグランドピアノやアップライトピアノとまったく違うのは、クラヴィコードやフォルテピアノと同様です。

電子ピアノとは、たとえば、限られた空間の中で、時間帯も問わず、軽いタッチでも演奏が可能で、親密さと気楽さによる慰めや幸福を与えてくれる、優れた楽器です。

クラヴィコードやヴァルターの時代の作品を演奏表現したい人が、大ホールのフルコンを鳴らすことにこだわる必要が全くないように、電子ピアノで音楽する幸せを大切にしたい人が、大ホールのフルコンを鳴らせないからといって「ダメ」「劣っている」とされるのは全くズレた指摘ということになります。

でも逆を言えば、当然のことながら、
モダンピアノでコンサート活動を展開したいピアニストが、クラヴィコードやヴァルターなどの時代楽器でひたすら練習を積むことはあり得ないように、モダンピアノでコンサート活動を展開したいのならば、電子ピアノを使用し続けることがいかに間違っているかも明確です。

先の(1)の投稿の冒頭で触れたような「問題」は、この点が(弾く側も、評価する側も)整理できていないがゆえに起こる不幸な指摘なのかもしれません。

デジタルピアノとアコースティックピアノは「別物だ」と平たく言ってしまえばそれまでですが、どうもその構造のクリアな説明がつかなかったのですが、上記のようなところまでは、少なくとも自分の中ではストンと腑に落ちました。

さて、ではなぜ
デジタルピアノは、ピリオド楽器である。
と思ったのか。
本荘さんと横山さんの演奏を聴きながら考えたこと、感じられたことを、
長くなりそうなので、また次の投稿に続けます。

続きはこちら。


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