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【シャニマス】アイムベリーベリーソーリー【感想・まとめ】

アイドルマスターシャイニーカラーズの2021年夏のイベントコミュ『アイムベリーベリーソーリー』のまとめと感想です。無限にネタバレをします。公式を読む気がある人は読んでから、そうでない人はシャニマスに興味を持っていただければご幸甚の至りです。

前提

主体と客体について

 以前、SHHisのイベントコミュ『ノー・カラット』の際にも述べたことと重複することであるが、シャニマスは主体と客体の対立が作品全体の根幹的主題である。
 主体とは自己の意志によって行為する存在であり、客体とは主体の行為の対象となる存在である。この主体と客体の対比は自意識や言動のあらゆるところに表象化する。
 その端的な例を挙げると、「人の目を気にして」という慣用的な表現がある。この表現は、他の主体による「見る」という行為によって、自らの主体が「見られる」客体にされ、その客体化によって自己として主体が、つまり自分の意思に基づく行為が制限される、という主体と客体の対立関係の一部始終を指している。
 『ノー・カラット』では、緋田美琴やダンサーたちに「見られる」客体的な存在として焦りを感じる七草にちかを、「見る」主体的な存在として七草にちかを思い遣れない緋田美琴をそれぞれ象徴的に描いた。

アイドルにおける主体と客体

 アイドルの意味は「偶像」であり、かつてのアイドルとは偶像という言葉が示す通り、世間一般に求められる女の子像そのものであることが意識されたものであった。しかし、次第にアイドルが増えると、必然的に競争が発生し、その結果として実力や個性が強く押し出されるようになった。
 そして現在、誰かに注目される仕事であるという点においては偶像性を確かに維持しているものの、競争を制するための個性もまた重要になった。
 つまり今日において評価されるアイドルとは、世間に求められる女の子の偶像――世間が求める客体――であることだけではなく、主体としての積み重ねがあってようやく獲得できる実力や個性といったものを併せ持つ存在でもあるのだ。

登場人物

七草にちか

 デュオユニット『SHHis』のメンバー。前回イベントコミュ『ノー・カラット』では自らの著しい客体性への偏重に、ある程度の決着を付けたように見えたが、依然として実力の不足からくる実務上の要求や、根本的な原因である「全てがあったとき」から失われてしまったことによる客体的な要求、つまり承認欲求の飢えが拭いきれない。誰かの目線に依存した振る舞いをすることが多く、主体として一人で立つことが未だできない。
 一方で、例えばTwitter企画での後先顧みない自己開示や、突っ込みどころの多い言動、誕生日での買い物リストの公開などといった、構われる能力の高さが描かれており、また『ノー・カラット』においては、リフター上でのアカペラという演出を思いついたり、「喋らせると面白い」と評価を受けたりするなど、見られる職業であるアイドルに求められる誰かの目線に映る自分を意識する客体的な能力が高いこともまた示唆されている。

緋田美琴

 『SHHis』のもう一人のメンバー。一回ごとのステージに命を懸けて日々を生きる、素晴らしい実力を持つパフォーマーの鑑。一方でパフォーマンスの範疇から外れる生活に関することについては壊滅的な能力の欠如を見せる。
 現状では極めて主体的に描かれている。ダンスや音楽では、主体性を前提とする練習や勉強を通して、理論や努力に裏打ちされた確かな実力を持つ。一方で、相手の視線を意識する客体的態度が重要になる演出などについては理解が及ばず、周囲への気遣いもあまりできない。七草にちかに見られるような客体的な態度、つまりアイドルとしての資質に欠けているが、これまでの諸コミュにて七草にちかに対するドリンクの供与などを通して、わずかにではあるが、この客体的態度の萌芽が示唆されている。

櫻木真乃

 まのーっ!
 彼女は極めて主体的であり、いわゆる天然という類型に属するキャラクターである。周囲の視線を意識せず、しかし柔和さを両立している。そのため客体化を伴うような失礼に対しては鈍いが、誰かとの明らかな衝突に関しては律儀に悩む。学校での友達が少ないのは、彼女の客体的態度の乏しさが、「空気が読めない」などの現象に直結することが意識されるからだ。一方で客体としての資質を問わない動物に愛されるという描写を通して、存在として好まれやすいことを表現している。
 一方でインターネット界隈では色々なキャラクター付けがされている。例えば休日になるたびに山に登り、理解不能な事実に見えるたびに密林の奥地へ赴くというのはまだしも、時にインターネットの掲示板で陰湿な皮肉を書き残す打算的な女というキャラクター付けまでもがある。これは彼女の極端な主体性と基本的態度の柔和さの両立がもたらす非実在的な印象の結果である。
 考えてみてほしい。客体的な、見られる意識を多少なりとも持つ普通の人間が「ほわっ……!」、「むんっ!」などというだろうか。公園で一人歌い、鳩に餌をやるだろうか。そしてそれが可愛い女の子であるはずがあるだろうか、いやない。
 主体と客体を題材としているために、社会的実在性が高まっているシャニマスのアイドルたちの中で、主体の象徴でありなおかつ柔和な可愛さを持つキャラクターである彼女は比較的現実感が薄い。それゆえに私たちが感じる違和感が、打算的な――つまり客体的な意識を強く保持した現実感のある邪悪な虚像を創造しうるのだ。
 ちなみにユニット「チルアウト・ノクチルカ」のメンバーである浅倉透との「とおまの」というカップリングは二次創作界隈で根強い人気があるが、このカップリングにおける必然性は、見られる意識が薄いながらも、ある程度社会に適応できる和やかな主体を持つという共通性に担保されている。

幽谷霧子

 ユニット「アンティーカ」のメンバーである。大人しく、包帯を巻いていて、賢くて、優しい。霧子……。
 主体と客体を作品の根幹的テーマとして考えたときに最も解釈の難しいキャラクターが彼女だ。
 彼女はモノに「〇〇さん」という人格を認めていることから、その存在から見られる自分を意識する客体的な人間であるようにも思われるが、一方で自ら光を発することから創作物において常に主体のモチーフである「お日様」でもある。
 ユニット「アンティーカ」は後述する月岡恋鐘が圧倒的に主体的な存在であり、他のメンバーが客体的な態度に著しく偏っていることから、彼女も客体的であると捉えるとバランスが良いが、しかし勉強ができることやゴシックが好きなことなど(着せられるものという被服の根本的な概念を否定し、浮いてでも着たいものを着るというロリータファッションは唯一主体的なファッション活動であり、不快で高価な服飾であるゴシックを、あえて着るというゴスロリは主体性の高いファッションである)、様々に主体を示唆するような要素も備えている。
 誰かのために何かをするという客体的な職業である医者になりたいという進路希望からも、個人的には櫻木真乃と同様に世界から無理なく承認される主体でありながら、他者を慮る客体でありたいと願う存在であると考えている。
 また解釈が難しいことから、彼女についての二次創作は、あり得ない方向に走ることで解釈違いの許容度を上げるものが多い。下手に「霧子はこう!」と適当な二次創作をすると、お日様教の原理主義者に粛清される可能性がある。また「自分の可愛さを自覚している」のではないかという言説もあるが、これは見られる自分を意識している客体的な人間なのではないかという考察の一端である。そして「分かっているのなら興奮する」という言説は、サルトルの提唱する猥褻の定義に則った体系的な興奮であるため、発言それ自体の品性はさておき正確な自己分析がなされていると言えよう。
 ただし今回のコミュにおいて重要なのは、彼女が完璧に他者の心を把握できる魔法を使えるわけではなく、つまり彼女の客体的な能力は決して創作物にありがちな万能性を持たないという点だ。然るに他者の心が推し量れないからこそ、人間でないモノにも、人間にある主体と客体の対立が存在する可能性を見出し、そこに物語性を感じることで「〇〇さん」と、存在としての敬意を表して呼んでいるのかもしれない。
 彼女が最も難しい。霧子……。

田中摩美々

 幽谷霧子と同様にユニット「アンティーカ」のメンバーである。彼女はイタズラっ子であり、その外見は奇抜で人の目を引く。事あるごとにプロデューサーやアンティーカのメンバーなど気心の知れた周囲にイタズラを仕掛け、あまつさえ叱られることをさえある程度喜ぶ。
 彼女は一貫して客体的に描かれている。見られる意識を強く持つがゆえにファッションに興味を持つし、構われるというのは人の目を集めることを期待するからこそイタズラを仕掛けているのだ。
 珍しく引けたので彼女のイラスト激強pSSR【アバウト-ナイト-ライト】のコミュのネタバレをすると、彼女はコミュを通して、芸人のラジオにゲストとして招かれてアイドル「らしくない」ことを指摘されたり、ドラマで愛の告白をする自分の様子を見て「らしくなさ」による不快感を感じる。これはいずれも彼女が見られる客体的な存在として自分の意識する「らしい」客体から離れることに対する忌避感であった。自分の様子がアイドルらしくないと見られることや、平素は決して意図しない愛の告白をするみたいに見られることが彼女には問題であったのだ。
 そしてコミュは、並行していた自分がどのように雨の世界を見るのか、自分がどうやって食べるものを決めるのか、という主体的視座に立つことで解決される。「about night light」――夜空に自ら光を放つ主体の象徴である星のように、自らもまた主体として輝く存在にと願ってコミュは締めくくられた。

園田智代子

 園田プロ。ユニット「放課後クライマックスガールズ」のメンバー、チョコ・アイドルである。
 彼女もかなり客体的な存在である。彼女の基本的な態度は周囲への気遣いに満ちている。その気遣いの形態は、ユニット「ストレイライト」の和泉愛依のそれが目の前の一人一人に対するものであるのとは対照的に、むしろもっと対象の大きな、世間やコミュニティに対するものである。「クラスに一人はいる」というのはその容姿に対してというよりも、むしろこの、素晴らしく周囲を気遣える、いわゆる「本当の陽キャ」の態度のことを指していると思われる。
 どんな学校でもある程度同じようなものになる学校のコミュニティにおいて、彼女はそこで求められる一般的な理想像を実現できている。したがって優秀であることに間違いないものの、ある程度普遍的な存在であるところの彼女は個性に欠けていた。
 そんな彼女がアイドルとして個性を持つために、アイドルとしての「キャラクター」という特徴を有する見られ方を身に着けるよう志向することには強い必然性がある。そして決定した「チョコアイドル」というキャラクターは、食欲という極めて主体的な要素を含むものであることにも注目したい。
 食欲を感じ、それを解消する、という極めて主体的な行動は、彼女の客体的な基本的態度の対照となるものである。pSRであろうがpSSRであろうがとにかく食事を欠かさない彼女の様子はしばしば面白いものとして私たちには感じられるが、一方でそこには極めて重要な、主体の確認作業としての意味合いがある。
 儀式を見守る敬虔な目で彼女の食事を見守ろう。いややっぱ無理だわ食べまくってて草。

月岡恋鐘

 ユニット「アンティーカ」のメンバーのリーダーである。長崎から馳せ参じた自称アイドルの天才。彼女はとても主体的に描かれており、びっくりするくらい見られ方について悩まない
  周囲に褒められることでアイドルになるという夢に乗せられるが、その一方で東京である程度浮いてしまう自分の方言を直してみたりするような客体性には乏しい。283プロに来る以前の面接で彼女が落とされ続けたのは、アイドルが見られる職業である以上、その客体的素養の乏しさが致命的なものであると判断されたからであると考えられる。
 彼女も櫻木真乃と同様に主体性の強い類型である天然の存在として描かれており、しかしながらある種の押しの強さから比較的実在性が高い。ステージにおいても天然ゆえの失敗を犯すことが描写されている通り、従来の女の子の理想像であるアイドルとして受け容れられるのかは怪しいが、社会からの客体化に疲弊しきった現代人たちには、その姿が勇気を与える主体として愛されてやまないのだろう。

大人たち

 あえて雑にまとめるが、彼らはアイドルよりも大人として描かれるケースが多い。つまり主体と客体の対立を彼ら自身の職業や立場に基づく形である程度決着させているようだ。彼らはアイドル達に何かを働きかけ、あるいは働きかけないことを通して、ストーリーに影響していく。

まとめ

 今回のイベントコミュにおいては、主体的な人間が客体的な能力を補い、逆に客体的な人間がその素養を高める。そして客体に偏重する存在が主体を獲得できるのか、また誰かに主体であってほしいと願う人間は、どのような態度でいるべきなのかということが主題であった。
 手段を選ばなければ他者を客体化することは比較的簡単で、直接的な要求や命令、常識、暴力、法律、宗教、同調圧力、あるいは褒めたり貶したりすることでさえも人は客観的にはあまりにも容易に客体化されてしまう。
 一方で主体的になってもらうことは難しく、自発的に何かをするように外から要求することは論理的に不可能で、周囲の誰かがその人間に働きかけて直接実現してやることはできない。
 例えば、「自主練をしてくれ」と言ってしまえば、それはもはや自主性、つまり主体が損なわれており自主的な練習ではない。周りの人間が「自分の意志で練習したいからする」という状態であってくれることを願ったとしても、具体的な行動として周囲の人間にできることはない。
 今回のイベントコミュ『アイムベリーベリーソーリー』は、登場人物であるところの彼女らが、それぞれ欠けている自意識をどうやって補っていくのかを表現する。また主体であってほしいと願う周囲の人間がどうあるべきなのかという主題に対して、作品『アイドルマスターシャイニーカラーズ』の回答が、自分の主体を確立することによって得られる「愛」であるとするものでもあった。

以降はエピソードに注目して各論的に振り返っていく。

オープニング:ふってきたんだ

 オープニングでは今回のイベントコミュの舞台設定と主題が提示される。オープニングの鑑。月岡恋鐘があるアプリゲームで声優として出演しており、何かを探す「洞のような目をした寡婦」への贈り物を考えるゲームと現実世界でのアイドル達の職場体験が今回の舞台である。

 オープニングはアプリゲームの台詞をアイドルが読む形で始まる。港町にいるミステリアスな未亡人が何かを探しているらしい。この骨董商の寡婦は洞のような目をしており、自分が何を探しているのかも覚えていない。ただ探しものは夏にあるということだけが分かる。背景以外もしっかり夏らしい。

夏、来たな!

ミステリアス寡婦

どうしてか探し物に付き合おうという気になったらしい

なぜ

 場面は変わって花屋さんの一幕に移る。職場体験先の花屋さんで、283プロの面々が慣れないレジ操作を学んでいる様子が描写される。レジ操作を練習するためのイメージトレーニングでは、園田智代子がいち早くお客さんの役を買って出ている。これは彼女の客体的な言動である気遣いを示す描写である。
 また店員役である櫻木真乃(および幽谷霧子)がお釣りを受け渡す際に手を添えたほうが良いとアドバイスを受けるのもやや暗示的である。一方で園田千代子は、今まで全然知らなかった「レジの人」がやっている仕事について感心し、学んでいるという意識を持っている。

相手がお釣りを落とすかな?という思考は相手の目線に立たないと芽生えない。客体性が幼い櫻木真乃と幽谷霧子は指摘を受ける。

お釣りに手を添えて

彼女らの職場体験でのメインの仕事は表での接客ではなく裏仕事らしい。

いかれた職場体験メンバー

 職場体験の初日を終えた夕暮れ時に、プロデューサーに一日の報告をする。レジを打てるようになったからこれからは物販の仕事もできると軽口を叩く田中摩美々に、これからはレジスタッフ不要だなと気安く乗るプロデューサー、それを真に受けて意気込む幽谷霧子と櫻木真乃の流れに対して、園田智代子はやはり馬鹿にしたり軽口の空気を壊したりせず驚いてみせる。園田プロ、一クラスに一人義務配布してくれ。
 そして今回の職場体験の趣旨がプロデューサーから伝えられる。物販の人がどういうことをしているのか考えてくれたら十分だとのことだ。ここで大切なのはレジ打ちの業務内容を知ることなどではなく、レジ打ちの人について考えることらしい。
 ここで職場体験を通してプロデューサーが期待しているのは、他人のことを慮る客体的能力の養成であると思われる。

脚本中でのキャラが端的で今回が初見の人もある程度ついていけそうなの偉いね

研修の目的

 続いては職場体験の帰りの列車である。夏休みにも関わらず、昨日も一日中仕事だった櫻木真乃は居眠りをしてしまっていた。疲れていることが見て取れる櫻木真乃だが、しかしみんなと過ごす職場体験が、夏休みだと感じられて楽しいと言う。帰り道が同じ幽谷霧子は彼女が眠っている間にアプリゲームをしていた。冒頭の、月岡恋鐘が声優としてゲストキャラを演じている作品らしい。

なんか良い匂いしそう、いや良い匂いした。

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 そしてこのオープニングは、ゲーム内の台詞である「夏の空から、あいが降ってきたんだ」という言葉をもって締めくくられる。

遠慮なく印象的な未知を残すのは固定ファンがいる作品の特権

「あい」

第1話:追憶

 このコミュでは今回の舞台である花屋の職場体験とゲーム内のプレゼントを通して、一般的に予期される、客観的に正しい客体的な態度による対応が否定される。問題提起の性格を持つコミュである。

 今日の職場体験のメンバーは園田智代子および田中摩美々である。この二者は職場体験メンバーのうちで初めから客体的態度とその能力を持った人間であり、今回の職場体験に参加する意味が比較的乏しいと思われる二人である。クラスに一人はいる良い子の園田智代子はもちろん、「悪い子」田中摩美々も仕事の雑用に対して文句を言わずに対応しており、職場体験をする意味がよく分からない。

 すぐに場面を転換して、職場体験とは関係なくレッスンをしているSHHisの二人に注目する。またしても練習の進度が思わしくない七草にちかが、緋田美琴との練習までに間に合わせなければいけないという義務感からくる相変わらずの「自主練」をしている。当然余裕はなく、その動機はどうしようもなく緋田美琴という存在の影響を受けたものである。いざSHHisでの練習が始まってみても、当然満足のいく内容にはならない。
 また、相変わらず緋田美琴にしてみても、焦る七草にちかに気遣いができない。彼女はフォローをしないし、これからの予定に基づき、優秀な計画性をもってステージのために策定されたスケジュールを話すばかりである。

『ノー・カラット』で解消したのはあくまでも隣にいる人間としての分不相応に対する不安に留まるらしい。

絶対修正します

 一方の職場体験組には、花屋の仕事として茎を切る仕事というモチーフが提示されている。この仕事は「命を傷付ける残酷な作業」でありながら「可能な限り命を存続させる技術」でもある。花屋は仕事をする人間として大切な仕事であると述べる。ここで園田智代子は模範的な振る舞いができる人間であるため、この仕事も当然のものとして目立った疑問を感じることはない。
 しかし一方で田中摩美々はこの現実に存在する一つの作業の中に重なり合う善悪を見出して逡巡する様子が描写される。ここで表現されるのは、田中摩美々のやや斜に構えた客体的態度が、「花の茎を切る」という問題を前にして経験した微かな挫折である。彼女は事象に相対すると、世間の倫理観や道徳といったものを軸に考えて、その善悪に基づいた行動をしてきた。そして許容しても良いと自分が思えるのであれば積極的に悪いことをする、という基本方針を持っているように思われる。しかし今回は、良い子でも悪い子でもあれない行為についてはどうするべきなのかという問いに直面し、彼女の自意識は明確な結論を出せなかった。

「悪い子」というのは善悪の基準を持つ人間が、あえて「悪い」ことを意識的にしている様子を示すのであって、善悪の基準を持たない人間は「悪い子」になれない。だから田中摩美々は潜在的な良い子でもあるんですよね。

二人の対照性

 続いては昼休みの二人の様子である。
 月岡恋鐘が出演しているゲームについての説明を交えながら、今度は園田智代子の客体的態度が提示される。
 まずゲームは、
①カモメに餌をやると「あい」が手に入る
②その「あい」を街にある何かと交換する
③それを月岡恋鐘が声を演じる「寡婦」に手渡す。彼女が求めているものであればミッション達成となる。
というゲームらしい。しかし「寡婦」は何かを欲しがっている訳ではないようでもあるらしい。何とも意味深である。「寡婦」が求めるものは何なのかというのを軸にしてゲームは進行するらしい。相手が求めるものを相手の立場で考えるという一連の流れは、明確に客体的な態度を暗示しているように思われる
 そのような説明の中で二人の会話が交わされる。特徴的なのは「さすが放クラぁ」、「~~してそうー」という田中摩美々の言葉である。相手がどんな存在なのかを規定するような、いわゆる「レッテルを貼る」言葉を口にすることで、相手の目にどのように映るのかということに関心が強いことが示唆されている。
 ともすれば失礼であると邪険にされかねない発言であるが、園田智代子はこの言葉に同調しつつ模範的に対応する

見られる意識が強い人間は怒りやすいいじり方なのでオ=タクとしては肝が冷える

「流石放クラ」

 さらに園田智代子は昼休み終了の5分前にアラームを設定していた。バイブレーションにするのを忘れていたことを謝りつつ、色々準備しないことがあるかもしれないと考えていたと言っている。その上で中断したゲームの話は仕事の後で聞かせてほしいとフォローする。人間の鑑先輩がよ……。
 彼女は客観的あるいは社会的に隙のない模範的な客体的態度と姿勢を持っていることがここで示されている。

ちょこ先輩は就職活動困らないよ。その能力分けてくれ。

バイブで5分前

 しかしそんな園田智代子も、三回忌用に花束をとやってきたお客さんに赤いダリアを薦める店長に驚く。しかしお客さんが偲ぶ故人はダリアに思い入れがあったらしく、好意的に受け取られ購入することになった。
 ここでは園田智代子の、世間一般に対して優れた常識に慮る能力をもってしても、個々の人間の事情までは当然ながら推察できないということが示されている。

「寡婦」に続き、三回忌という言葉に死のモチーフを匂わせてくる。ふわふわアイドルゲーム求めてきたオ=タクたちは泣いちゃう。

ダリア!?

 そして店長から花屋という仕事に関連して「花が枯れても心の中に残る」と語られる。これは先ほどの茎を切る行為についての田中摩美々の認識に一定の納得をもたらしたようだ。例のアプリゲームではこのことを援用して「寡婦」に貝殻を贈る。「寡婦」は亡くなったパートナーについての追憶の中にいて、思い出せるものを探しているんだと考えたのだ。こういう田中摩美々の感じやすさに年代特有の可愛いさを見出していけ。

その辺のソシャゲはこのくらいの回答でストーリーが終わることが多い

心の中に残るから

 一方事務所では、例によって職場体験を薦めるプロデューサーに対して、七草にちかは余裕がないのだと明け透けに振舞う。無理に決まってると怒るにちかに対して、プロデューサーは、興味が湧いたら教えてくれと待つ様子を見せる。これも後述する「愛」なんですよね。

 余裕なさ過ぎて草。めっちゃキレる……。

冗談か?

 そして田中摩美々が贈った貝殻は、それらしい理由付けがあったものの関係はなく、寡婦の求めるものではないらしい。
 彼女の持ち合わせている倫理観という客体と、今日学んだことを合わせた精一杯の回答では、今回の物語の主題は達成されないらしい。

田中摩美々は彼女の自意識にとって良くも悪くも、親からずっと肯定されて生きてきたんだろうなと感じられる部屋をしてる

違うんかい

第2話:木いちごのジャム

 このコミュでは、前半部分で客体的な七草にちかと主体的な櫻木真乃および月岡恋鐘の両名および緋田美琴との関係を描写することで、七草にちかの客体的態度の限界や失敗を描いた。
 そして後半では主体的な彼女らが当然に陥る思い遣りの乏しさという欠点を描く。またそれに対する解決を提示することで職場体験によって意図された目的の一つが達成される。
  そして引きでは、七草にちかの様子から次の話を示唆して終了する。

 コミュはゲームについて話す月岡恋鐘と櫻木真乃、それを傍で聞いている七草にちか(+緋田美琴)という構図で始まる。
 櫻木真乃がゲームに興味を持ってくれたことと、それを喜ぶ月岡恋鐘の話が聞こえてきて、七草にちかは余裕があるのだろうかという不満を感じている。また自分のためにドリンクを用意する七草にちかに緋田美琴はそんなことしなくていいのにと言う。ただありがとうと返すのが嬉しいだろうに、相変わらず緋田美琴は徹底して相手の目線に立つことができない。

氷入りのものと体を冷やしたくないときの常温のものの二つを用意する。気遣いがすごい。

客体の権化

 そうこうしているうちにもゲームの話は盛り上がっているが、彼女らは例のゲームを買うものだと思っていたらしい。聞き耳を立てていたにちかは驚きの声を上げる。緋田美琴に目線の前での自分のあるべき姿が、素の自分を引き出されたことで崩れてしまい、彼女は恥ずかしい思いをしている。

目がとにかく泳ぐ。七草にちかの仕草の作り方はかなり力が入っている。

目泳ぎ

 その後、予定があるのにゲームをしている彼女らに不満を感じつつも、七草にちかはゲームのダウンロードの仕方を教える。
 素直に感謝してくれる二人に対して、七草にちかは簡単に絆されそうになるが、緋田美琴の視線を感じてステージに全てを懸けなければという観念を思い出し、咄嗟にゲームをしていることを批判してしまう。
それを聞いた二人の顔色には驚きがある。特に櫻木真乃は明らかに表情を曇らせている。

やべーぞ!喧嘩だ!

批判

勢いありきだったので後悔までが早い。

公開

 するとプロデューサーが帰ってくる。アイドルたちの危機にタイミング良く帰ってくるプロデューサーの鑑。
 そして何をしていたのか聞くプロデューサーに対して、ここで月岡恋鐘がこともなくゲームのダウンロードの方法を教えてもらっていたと答える。これによって呆気にとられる七草にちかを見て、やや表情を曇らせていた櫻木真乃は一先ず立ち直る。そしてレッスンに向かうSHHisの二人にエールを送る。
 ここでは月岡恋鐘が揺ゆるがぬ主体を持っていることや、それが周囲に伝播すること、また七草にちかが、感謝されるくらいのことですぐに絆され、かと思えば緋田美琴の目線を感じてストイックでなければと思い詰め、そして後悔するような行動に至るという極めて不安定な客体的自意識を有している様子が表現されている。さらにこの一連のやり取りの間にやはり緋田美琴は完全に蚊帳の外になるほど状況が分かっていない。彼女は本当に心の機微に疎いのだ。

なむな~むってなんだ……?ちなみに天然な彼女ら二人が素晴らしいスタイルをしていることについて考察があるが余りに余白が足りない

なむなーむ(こ)

なむなーむ(ま)

 前半が終わり、後半では櫻木真乃と幽谷霧子の両名が職場体験に参加している。彼女らは職場体験のメンバー4名の中では比較的客体的能力に欠けて二人であり、安直に意図されるところの職場体験の意義を直接受け取る主体的な人間として描かれているように思われる。
 彼女らは「いつものお花」を探しに来た女性客が求めているものが当然分からなかった。不安を感じながら必死で探すものの見当たらない。

オ=タクなので、いつもいない店員さんには優しくしてやりなよと感じる

いつものお花

 女性客が諦めて帰ろうというときに店長が帰ってくる。彼女は「いつものお花」がすぐに分かった。それだけでなく、その女性客が妊婦であることを明らかにしつつ、椅子を勧めて手早く仕事に取り掛かった。
 ここでは、主体的な存在であるところの彼女らが、お客さんのことを「女性客」であって、そろそろ出産予定で傍目に妊婦であることが分かるのに認識できなかったことがメタ的にも暗喩されている。また、職場体験生だけを残して十分も店を空けるなら、店長は予約のお客さんが早めに来るかもしれないことを引き継いでおくべきであり、やや詰めの甘い人物であることが示唆されている。

 そしてお客さんに花束を渡した後で、店長から彼女らにアドバイスが与えられる。まず初めに相手を不安がらせないために慌てないことという実践的なことと、その後に相手を気遣ってあげてほしいということだ。やや客体的素養に欠ける彼女らにとっては前者も後者も実際には同じ内容であり、これらの言葉はかなり適切なアドバイスであろう。

この発言の前に謝るのは私のほうだと言っている
詰めの甘いけどちゃんと大人ではある

気遣い

 そして帰り道では、二人の会話はすぐに嚙み合わなくなる。相手の意図を汲むというのは、相手の顔色を窺うような客体的な能力であり、純真な主体として生きてきた彼女らのそれは未熟であることが累加的に表現されている。

嬉しそうなのは妊婦さんのことだったらしい。僕も花のことかと……こんな難しいコミュニケーションってないよ

「嬉しそうだったね」

 しかし、そんな噛み合わないコミュニケーションに対して、確かにお花も嬉しそうだったと幽谷霧子は返答する。店長の話す「花も心だ」「心をお客さんに近付けて」という言葉への若干の回想が入る。

 そして幽谷霧子は「ステージの上なら分かる」という。どこにいても、隣に心がいてくれるとのことらしい。
 後述する主体の象徴としての虹のエフェクトというモチーフを併せて考えると、社会常識を踏まえた客観性を伴う高度な客体としてではなく、もっと単純に、目の前の相手を主体として感じることで、その意思を理解できるということを言いたいのだろうと思う。

霧子……。難しいよ……。

「ステージの上なら」

 その返答に対して、櫻木真乃はステージの上の自分や、本コミュ前半で自らが処理しきれなかった七草にちかの棘のある言葉を思い出し、幽谷霧子の言う主体的な存在として相手の心に寄り添うという、実に原始的に相手を思い遣る方法を理解した。

実際、櫻木さんが隣にいるだけで大半の人間の悩みは蒸発すると思う

誰かの隣に

 翻って七草にちかは例のゲームをはじめており、木いちごのジャムというプレゼントを贈ろうとしている。やや熱中しているのは彼女の日ごろからの客体的な態度がプレゼントを贈るというゲームデザインに合致したためであると思われる
 「黴臭い骨董屋さんにあえて生ものを持っていく」のだろうという彼女の予想は、見られ方に対する意識の強い彼女らしく、対比的演出効果を期するものである。その裏ではプロデューサーも同様の贈り物をしており、しかしその結果はあまり芳しくないようであった。
 そして七草にちかはそんなプロデューサーからのメッセージを確認し、その内容になんてことをと不満の混じる驚きを口にして暗転し、この話は終わる。

あれだけ駄目だと思っていたはずなのにしっかりハマってる……。そりゃはづきさんもアイドルになるの反対するよ

軽薄な


第3話:変なお天気 

 この話では、職場体験を通じて培われた個々人に寄り添うという思い遣りが達成される。そんな彼女らと、思い遣る能力が欠けている緋田美琴とを対比し、その素養の育成を図るプロデューサーの姿勢が描写される。

 前話の引きは、緋田美琴に例のゲームを薦めたメッセージに対するものだったらしい。彼女は激してプロデューサーに抗議する。あれだけ忙しくしている彼女になんてことをという内容であった。しかし実際にはアイドルとして活動するには余りに客体的素養の欠如した緋田美琴に、誰かのことを考えて贈るプレゼントを考えるというゲームをやらせる意義は深いように思われる。

 場面は変わって園田智代子が現場の後に食事に誘われる。お寿司や色々なものを頼もうとしていることから、みんなが、つまり園田智代子も空腹であることが示唆されており、さらにキャラクターとして食べることが好きで、仕事現場の空気を読めば残るべきだと思いたくなる力が強い場面である。何なら仕事現場が長引いたと嘘をついて遅刻すると連絡するだけでよいのだ。
 しかし園田智代子はこの誘惑を断って、遅刻ギリギリの花屋へと走るのだ。何とか電車に間に合いあまつさえ田中摩美々はもうついているだろうかと思いを遣る。後で明らかになることであるが遅刻する可能性があることをお店にも連絡することまでしていたらしい。びっくりするくらい偉い。園田……。

園田プロは凡百の食いしん坊キャラや流されやすい人間とは違って社会規範を守る。愛と誠の力を、今こそ知らせてやるがよい。走れ!園田。

走れ園田

  しかし田中摩美々は遅刻してしまったらしい。スタッフからきちんとするよう叱られる。たった一分の遅刻であったが、基礎をちゃんとしないといけないのだと言われて彼女はただ謝っている。

 場面は転換してダンスレッスンを受けているSHHisの二人に移る。
本番を近くにして、緋田美琴との相対的な進度の遅れという焦りを感じることで基礎をおざなりにしていた七草にちかは、トレーナーから基礎を徹底するよう指摘を受ける。また、緋田美琴はそんな七草にちかの基礎練習を見てやるように言い渡される。

社会人の基礎という言葉から自然に転換していて綺麗だなあと思った。

ダンス基礎

誰かを上達させることは難しいらしい

教えてあげて

そして了承する緋田美琴にこの表情である。どんだけリスペクトしてんだ。頬を染めるな~~~~。

頬を染めるな

 そしてさらに舞台は戻って仕事中の園田智代子は、遅刻して叱られた田中摩美々に話しかける。
 典型的な世間の良い人間がそうするように慰めようとしたのだろうかと思えばそうではなかった。彼女は田中摩美々の今日の現場についてどうだったのか考えていた。その現場では止むを得ず遅れるような状況が考えられ、さらに田中摩美々がどのように考えていたのかについて予想し、それは当たっていた。
 ここでは従前の彼女ではそうしたであろう一般的に予想される慰めの言葉をかけずに、反省している田中摩美々に寄り添った。これにより前話のダリアを選んだ店長のアドバイスや櫻木真乃と幽谷霧子が出した結論を体現している。ちょこ先輩は~~すごいです~~~~~~!!!!!
 またその結果として、田中摩美々自身に自己分析に基づいた適切な反省を促していることは重要である。
 そしてそんな園田千代子に対して、田中摩美々もまた、「さすが放クラ、いや智代子って感じ―」と、個々の主体に寄り添うような形態の客体化を示す。また「うち(アンティーカ)の4人と同じくらいお節介ー」とユニットメンバーは既に田中摩美々に対して、あるいはユニットメンバーが田中摩美々に対して寄り添うような思い遣りをもって接していることがそっと示される。こういうのを「尊い」って感じられるセンスが必要がオ=タクにはある。 

成長する!!すごい早さで 職場体験の中で!!

進化する園田プロ

 一方で七草にちかの基礎練習に付き合うという形式で緋田美琴との練習を始めたSHHisの二人であるが、上手くいっているわけではないらしい。緋田美琴は指導や手本を示すという形式で基礎練習を進めようとしていることに注目したい。
 自分語りをして申し訳ないが、私は楽器の経験があり礎練習は欠かせないものであった。基礎練習とは、少し何かを試して、自分の良かったところや悪かったところを見つけ、それを少しづつ継続的に改善していくという内省的なプロセスである。基礎練習で実力を身に着けるためにはどうしても時間がかかるし、何より主体的に行動して、主体的に適切な反省をすることが重要であった。ダンスはその限りではないのかもしれないが、少なくとも指摘や手本を見せるということい代表されるような練習者に「やらせる」つまり客体化することに立脚する指導方法は、継続しる必要のある基礎練習としては有益ではないように思われる。
 この点において、緋田美琴が七草にちかに向かい合う方法と、園田智代子が田中摩美々に示した寄り添いの姿勢は対比されている。

失敗の明らかな指導に見えるかな……!?とか……!勝手な想像なんだけど……!

自主練とは

 そして主体性が問われる自分のための基礎練習なのにも関わらず、七草にちかが謝罪という行為に踏み切り、緋田美琴はそれに対して何かフォローを入れるでもない。あくまでも自分が何か間違えているのだろうかと思案している。そしてここで回想が入る。
 どうやら緋田美琴は以前も類似する状況で斑鳩ルカに罪悪感を感じさせたことがあるらしい。回想から解決策を引き出せたわけでもなく、おそらくそのとき投げ出したであろう斑鳩ルカとは違うようにとの意図か、「できるまでやるしかないんじゃないか」と口にする。
 そして七草にちかはその言葉に対して、あくまでも緋田美琴の目に映る自分の実力がいかに相応しくないかを、やはり緋田美琴の目線から考えて謝罪を繰り返す。
 その後、さらに遅刻せずしてなお、自身の反省を挟む素晴らしい園田智代子を描写することで、緋田美琴の主体偏重による失敗を重ねて強調しつつ、基礎練習に付き合っている彼女自身が失っている反省の機会が存在することもまた示唆された。

斑鳩ルカ、哀れな女

ルカたや

 またこのタイミングでアプリゲームのモノローグが重ねられる。ここで「寡婦」と「主人公」が作中のどのような関係性の構図を隠喩しているのかが示される。

『何も求めてなど』

 場面は移動中の幽谷霧子に移る。例のアプリゲームで贈ったセミの抜け殻は正解ではないらしい。前話にて園田智代子と同じく人に寄り添い思い遣ることを知った彼女であるが、それでも今回の物語の解決には足りないらしい。
 そこに園田智代子から連絡が来る。近々台風が来るため職場体験にも影響が出るとのことであった。

台風予報

 この短い場面は切り替わって、ようやく冒頭で言及された緋田美琴のアプリゲームへの反応が見られる。相手方が打ち合わせに遅れた隙間の時間でやったらしい。
 他者の視点に立てない緋田美琴もまた、正解らしい答えを選ぶことはできなかったようだ。しかしそのことに対してプロデューサーが受けるかもしれないペナルティの存在などを気に掛ける。ここでは七草にちかと比較して、プロデューサーに対してはある程度の思い遣りが示すことができることが表現されている。ゲーム勧めたのを怒ってたけど信頼度では……にちかお前……かなしいね……。
 そして打ち合わせが始まるときにプロデューサーは付き合ってくれた緋田美琴に対して「暇つぶしみたいなことに付き合ってくれた」と礼をいう。それに対して暇つぶしだったのかと問い返す緋田美琴に、今度はしかし端的に真剣であることを伝える。
 ここではプロデューサーが緋田美琴の客体性の乏しさに問題意識を持っており、それを解消するための努力をしていることとをメタ的に暗喩しつつ、緋田美琴に対して曖昧な意図を察してくれることは期待できないことを知っての実直な解答をし、緋田美琴が過去の仲間たちに対してそうしているように皆の作品であれば真剣に取り組むという寄り添いの姿勢を示している。
 そしてそのまま暗転しこの話は終了する。

あなたは……愚直で……スーツも……折り目正しく……。――あぁ(略)

真剣だよ

汎用煽り画像も置いておきます

汎用あおり画像

第4話:Crazy Sunday

 この話では、ここまでの物語での「個人への思い遣りの達成」という進行に伴い、これまでには単なる「寡婦」というもの、という認識に埋没して、深く追及されていなかったゲームキャラクター、寡婦個人の事情が語られる。それを通して彼女の現在から緋田美琴の現在を表現している。

 冒頭はこれまでの会話主体ではなく地の文多めで来ている。ここではアプリゲームにおける「寡婦」がどのような存在であるのかを説明している。どうやら人間らしく外に出て、人間らしく自然と触れ合って生活をしていないらしい。ただ厳密に「寡婦」であるのだ。

迫真の文章からライターたちのフラストレーションを感じる……感じない?

白進文章部

 また友達は少なく交友関係も広くなかった櫻木真乃は、あえてユニットメンバーとではなく職場体験メンバーと連絡を取りながらゲームを進めていることも示される。真乃成長したな……。という感情を抱かせつつ、一方ではこの描写を通して、作中の職場体験の成果が皆に共有されている状況に一定の説得力を付加している。
 次に、田中摩美々と幽谷霧子からここまでの話を踏まえて、月岡恋鐘がどのような気持ちで「寡婦」を演じたのかという質問を気軽に投げかけている。それによく分からなかったと答えつつも、一生懸命希望を持って頑張ったとする月岡恋鐘はゲームの「何を探しているのかも分からない無気力な寡婦」ではありえないように思われるほどに強い。

寡婦感が全くない。キャスティングミス。一片のセンスをも感じない。

度がん気持ち

 またアンティーカとは違ってお互いへの思い遣りが養われていないSHHisの七草にちかは、得意な相手の目線を意識する行為に密接に関わるこのゲームにやや熱中している。アンティーカが気軽にゲームの内容について訊ねているのに対し、ここで緋田美琴がゲームに不快感を示していないかというだけのことを恐る恐る聞くという対比がある。
 またここのやや噛み合わない自然な会話が微笑ましく丁寧に描写されている。
 七草にちかは、自分がステージに全てを捧げないで普通に熱中しているゲームについて、緋田美琴が不快感を示さないかを知りたくて「面白いですか?」と聞いたのだが、緋田美琴はそれに対して素直に感じたままに「よく分からないけど暗い感じかな」と答える。ゲーム自体を否定されなかったことへの安堵と、同じ感想を抱いていたことに俄かに喜んだにちかは、いつものような緋田美琴の視線を忘れて一頻り盛り上がる。
 そんな様子を見た緋田美琴は噛み合っていないことを感じつつも楽しそうな様子に微笑する。普段七草にちかの取る縮こまった様子よりも幾ばくか好意的に受け取られているようだ。
 続いて緋田美琴はプロデューサーに対しては思い遣る心を覗かせる。

ネタバレ気を付けますね!というにちかに。表情の動き丁寧だから見返せ?

気にしてないよ

 さて、ゲーム内の物語では、かつて若々しく力と夢に満ちた男と「ヒロイン」が紹介される。「画家」、「歌手」という彼らの夢は叶わなかったらしい。そして村からは出ず夢からはとても遠い家庭の中の生活に落ち着いた。幸福であるがしかし「歌手」という夢から遠い場所にいることにかつての「ヒロイン」は焦りを感じている。
 「(この幸せな生活から)引き返せなくなるんだろう」という地の文を読み上げる緋田美琴は、ここにしか割り当てられていない。ライターはセンスある。緋田美琴が引き返せなくなったのは生活からではなく、逆にアイドルという夢からである。しかし後述する夢にとらわれて客体化された主体であるということは「寡婦」にしても緋田美琴にしても共通している。
 ここはいずれにしても現状維持を続けることによって抱える恐怖を、その現状を「夢」と「生活」の対照的なものに据えつつ、あくまでも夢を諦めるという行為に関しての共通性を端的に表現している。お洒落ですね。
 さらに「緋田美琴は夢を諦めたら普通の人にはならない。『夢を諦めた人』になるのだ」と続ける。つまり、夢を諦めるとそれから解放されて自由に――自分の意志で十全に行動できる主体になるのではなく、「夢を諦めた人間」として自らを意識することで、自分の目線によって客体化を受ける。すなわち夢に囚われてしまうのだ。緋田美琴が割り振られた「引き返せなくなる」ときというのは、諦めたとしても諦めた事実に支配されてしまうようになるときである。そしてそのような人間はほとんど何も持たないと語られる。「寡婦」は洞のような瞳をしているのだ。

厳しく冷たい現実的なことを言うときの緋田美琴は常に自分を見ている。

普通の人にはならない

 そして、ゲームの物語では、少し夢を思い出したいというささやかな女性の我儘を発端にして起こった夫との争いは発展し、折しも作中世界で台風がやってくるのと同じく、嵐の晩の海に攫われて、男は帰らぬ人となった。

嵐の音を表現する迫真シャニマスライター。文章を書く欲求が相当限界にきているのが見て取れる。

我慢の限界

 そしてこの夫の死によって、女は「寡婦」になった。夢から彼女を遠ざける存在から解き放たれて夢に挑むことも恋をすることもできる一人の自由な「ヒロイン」に戻るのではなく、「寡婦」という名の、失われた生活に囚われた存在となったのだ。「寡婦」は寡婦に相応しい生活を送るようになった。鳥の囀りや日に移る木々の緑、そういった鮮やかな世界から切り離されて、一人色彩を失った喪服に身を包む。ほとんど何もない洞のような目をした彼女は、何かを探すようにそして何を探しているのか分からなくなって。
 先ほどの緋田美琴の言葉のように、しかして夢とは対照的な生活を失ったことに彼女は客体化されてしまった。
 彼女は、夫との喧嘩の原因になった自分の我儘――自分の欲求という主体――が罪なのだと、「自らの欲求によって夫を死に追いやった存在」として自らを意識することで、自らを呪う罪深い存在となった

「ヒロイン」には決して戻れない。後悔も挫折も抱えて虚ろな「寡婦」になる。

「寡婦」に「なる」

 そして東京に台風がやって来た。

第5話:ぼくらが走る理由

 ここでは台風によって破壊されてしまった大切な仕事用の花について考えることで、職場体験で学んだ色んなことの成果を改めて確認した。そして、『ノー・カラット』で七草にちかが悩んでいた問題が根本的に解決されたわけではないことも示される。

 日本の芸術において雨はいつも変化のモチーフである。こと台風に至っては劇的な変化をもたらす。
 職場体験先では、先日の台風でめちゃくちゃになってしまい、ガラスが割れてしまうほどであった。
 そして本日必要な、そしてお客さんにとって非常に重要なフラワースタンド用の緑の花が飛行機の欠便によって仕入れられず、さらには予備の花もショーケースに入れて保管してしまっていたために傷が付いて使いものにならなくなってしまった。これは台風の接近を知っていながら(園田智代子からの連絡という形で知っていることが暗示されている)、鮮度の良いものにしたいという思いを抱え続けたことと、予備を十全な環境で補完できていなかった結果の失敗であり、第2話で描写されていた店長の判断の甘さがタイミング悪く発揮されてしまった。
 謝罪する店長を気に視点が切り替わる。

そんな台風なかなかないよね……。

ミラクル

 その裏では台風の影響からか朝からに変更になった打ち合わせを終え、SHHisとプロデューサーが移動している。
 朝からになったことを謝罪するプロデューサーに対して七草にちかは不満を表明する。この描写は事情を汲んで忖度しないというところが職場体験組との対比であり、さらにプロデューサーに対しては思い遣りを持てる主体偏重の緋田美琴と、緋田美琴には過剰なくらいに気を遣いながらプロデューサーに対しては我儘に振舞う七草にちかとの対比でもある。
 そんな折、プロデューサーの携帯に電話がかかってきた。

 脚本上手いねぇ!

文句

 用意できなくなった緑の花束について店長は説明する。
 緑のメンバーが復帰するライブ用にとリクエストされた第一希望のトルコキキョウは他の花で代替することが難しいらしい。店長がそう考えるのと同じように、個々人に寄り添い思い遣れるようになった彼女らは自分たちで考えられるようになっている。

状況は解決していないけど、職場体験で学んだ成果が発揮されている。

職場体験の成果

 そして花を他の花屋に買いに行って用意しようという櫻木真乃の案であったが、店長とスタッフは荒れた店の復旧と予約分の花束の用意のために離れられない。それならと微かに不安に思いながら周りを見渡した櫻木真乃であったが、彼女らはもう何が言いたいのか分かっていた。

単なる「やさしいせかい」ではなくてきちんと文脈があるのがいいんだあ

察し

 プロデューサーにかかってきたのはそんな彼女らからの電話だったらしい。
 彼は自主練に向かうSHHisに対して、櫻木真乃をピックアップするために回り道をして5分だけ遅れることに了承を取る。ほんのわずかな時間であり、早く着いたところでその時間には練習できず、さらにはその自主練内容が自分の基礎練習であるにも関わらず、七草にちかはこの判断についての意向を緋田美琴に聞いている。緋田美琴は練習時間が変わらないのだからとさして気にも留めない。

『ノー・カラット』の成果は奈落で死にました

お伺い

第6話:ゼア・グリーン・ヒムス

 このコミュでは、職場体験に参加しなかった七草にちかと、職場体験に参加した4人との違いが櫻木真乃を代表として提示され、ゲーム内にて提示された「あい」とは何であるのか、そしてゲームにおいて真に大切な主題は、寡婦が探しているものではなく、「どうして探し物に付き合おうと思ったのか」だった。そしてそれは愛であり、自分自身の思いであったのだ。

 

 SHHisとプロデューサーが職場体験組と合流するところから始まる。
 花屋で櫻木真乃が急いだ様子で車に乗り込んで来るのを見て、そしてこれまでの記憶を振り返り少しの事情を聞く程度で、七草にちかは櫻木真乃の意図を察する。しかしその反応には理解しがたさが難さが滲んでいた。ここでは、七草にちかの相手の視線に立って考える客体的な能力の高さを示しつつ、客観的な常識を前提に考えている様子が描写されている。そして彼女は櫻木真乃の感情を気にすることなく驚きをそのまま外に出している。

そんな言い方するから真乃姉が怯えちゃってる!!よくないと思う!!!

察する

 櫻木真乃以外のみんな花の確保に奔走しており、お金がかかるがバスよりも確実なタクシーを選択する園田智代子と幽谷霧子や、十分な数があると思ってもそれでも念のために余分とも言える努力をする田中摩美々の様子が描写される。確かに客観的に見れば職場体験であるにも関わらず全身全霊の努力をする様子はやりすぎであると考えるのが妥当である。
 七草の客観的な見解に、基本的に客観性が乏しい櫻木真乃は少し竦んでしまう。しかし彼女は幽谷霧子と話した第2話でのステージのことを思い出す。花屋であれアイドルであれ、心を届ける仕事をしている彼女は、アイドルとしてステージで誰かに寄り添うように、花も誰かの心に届けばと彼女は願っているのだった。
 そんな彼女にSHHisの二人も思うところがあったようで、帰って来たプロデューサーは先にレッスン場に寄ろうとするのを、自分たちは後で良いと譲る。ここのSHHisの顔を見合わせる仕草細かくてすき。
  結局彼女らは往復の時間をしっかり付き合った。

誰かの幸せを願うアイドルの鑑。やっぱり真乃姉がNo1!

ステージみたいに

 そして様々な色々な花屋でトルコキキョウを買い集めていく。その行為自体は楽しいものでもなければ心地よいものでもなく、ましてや自分たちに対して何らの利益にも繋がらず、そればかりか職場体験として常識を逸している。それなのにどうして彼女らは走るのだろうか?
 そしてここから冒頭のアプリゲームの回想が入る。ここでようやく今回のアイムベリーベリーソーリーで示したかったものが提示される。冒頭では基本的に「寡婦が何を探しているのか」ということが重要であるように思われたが、しかし大切なのは別のことであった。
 それは「どうして探し物に付き合おうという気になったのか」ということが真の主題であったのだ。それぞれバラバラの場所でトルコキキョウを買い集めるために駆けずり回る面々の描写と、ここまで続けられてきた読み上げられてきたモノローグの割り振りが一致する。この一連のクライマックスを作っていく演出がとても良いよね。

一人ずつ順番に読み上げられたモノローグの最後で皆の声が揃う。しかも黒駒で人の名前はない。

画像51

 そして櫻木真乃が車を降りて、プロデューサーからSHHisの面々に集めた花が何に使われるかがようやく語られる。相変わらず緋田美琴は花が揃うこと自体に良かったねという言葉をかけるに留まるが、七草にちかは先刻の自分の態度を反省していた。
 そして彼女らにトルコキキョウの写真と感謝を伝える櫻木真乃からのメッセージが届く。走り回ったのは彼女であり、ただ乗り合わせただけの彼女らには客観的に考えて礼を言われる筋合いがないが、しかしその思い遣りは届いたらしい。そしてプロデューサーによってそれが彼女ら自身の等身大のものであることが付け加えられる、

スクショのタイミングで目を閉じているだけです。

経緯の説明

 そして走るトルコキキョウを手にして走る櫻木真乃は、先ほど七草にちかに言われた「そこまでする必要があるのか」という客観的には正しい言葉を思い返す。ぼくらはなぜ走っているのか?心を届けるのはなぜ?どうして誰かを思い遣っているのか?
 その答えは、この物語の主題は、今回のイベントコミュが伝えたかったことは、自分の主体の意志の大切さだったのだ。等身大の飾らない、自分自身の思いだった。それは愛だったのだ。自ら輝きを放つ光は主体のモチーフである。ここで輝きのモチーフとして虹のエフェクトが現れる。綺麗なカタルシスだぁ……。(恍惚)
 降ってくる「あい」は愛であり、私という主体としての「I」だろう。

まのーっ!!!!シャイニーカラーズ、だよーーーーーっ!!!!

シャイニーカラーズ

そしたら降って来たんだ「あい」が

あいが

エンディング:あい

 主体であることによって生まれた愛は、他者を思い遣ることにも、他者が愛を抱くためにも大切なものだ。SHHisの二人は未だに肯定できる自由な自分も愛も見つけられていないけれど、彼女らの幸せを、彼女自身を愛してやれる未来を、プロデューサーは信じている。
 生命が溢れてそして散っていく、むせかえるような生と死の香りがする夏に、生きることを知って彼女らは一つ大人になった。

 基礎練習をしているSHHisの二人から始まる。基礎はやはりライブまでには完璧になんてできなかったらしい。ここまで細かく指摘していた緋田美琴であるが、七草にちかの基礎練習を一緒にこなすという形で単純に寄り添い始めた。

基礎練習への付き合い方が少し変化している

問題はあるけど

 そして、プロデューサーとトレーナーの間では、基礎練習で成長するには本人が勝手に上手くなるしかなくて、それを促すために周囲の人間ができることは付き添うくらいしかなく、そしてそれを可能にするのは「愛」であると語られる。

主体を獲得できるかというのはある意味物語の典型的な主題の一つだ

愛なんだ

 そして次は場所が変わって幽谷霧子と櫻木真乃が、商品として使うことができない花々を手折る店長を目撃する。この行為は第1話で田中摩美々が逡巡した「茎を切る行為」よりも明確に罪らしい命を絶つ行為である。ましてや幽谷霧子はモノを「~~さん」と人格を認めて呼ぶような人間である。衝撃を受けるがしかし、彼女は自らの手で生命に決着を付けることを選ぶ。
 それは主体として死の運命にある彼らに対して同じ主体としての責任を果たすことであり、彼女は土に還った花の存在が、世界のどこかで生まれ変わっても綺麗でありますようにと祈りたいと言う。なんて偉いんだ。

店長としては見せるつもりがなかったらしい

追手の

シャニマス世界に美形が多いのは霧子の励ましによるものであることがここで明らかになった。霧子がお日様なんだ……。

どこに行っても幸せでいられるように咲いて散って

 そしてゲームの方も正解が分かったらしい。カモメの餌を渡せば良いらしい。そして第一の主題であった「寡婦」が探していたものが明かされる。それは彼女が自身を愛する心であった。彼女の「寡婦」としての人生を決定付けたのは、自分の主体的な欲求の発露である我儘が悲劇を招いたという後悔であろう。あの日イーゼル(画家という夫の夢の象徴)とともに砕け散った彼女自身の心(同じく夢の原動力となった彼女の主体的な意思)という表現は分かりやすくてけれど婉曲的で文学性を感じる。そうして彼女は愛するべき、つまり肯定するべき自己の主体を失った。
 今回のイベントコミュを通して明示されてはいないが、大切な存在の死という形式によって肯定するべき主体を喪失したという点において、七草にちかとの類似性がかなり強く暗示されている。あえて明示しないところに精神が薄弱で神経質な、もとい感受性が豊かで繊細な私たちオ=タクへの配慮を感じる。

自己肯定は実際問題とても大切

失ったものは

 そんな彼女に対してゲームで示される解答は、彼女自身がカモメに餌をあげることだった。
 「あい」を――カモメに餌を渡したいという欲求としての主体を、そして誰かに何かをしてあげたいと思う愛を、そして自分を愛する愛を――彼女自身が自分の手で得ていけますようにと祈ることであった。そしてそれは同じく「あい」を持った一人としてのみ行われる主体であれますようにという愛による祈りであった。

綺麗な解答だぁ……。そのアプリの名前、「アイドルマスターシャイニーカラーズ」じゃない?

一夫通行の愛

 寡婦にプレゼントするものがカモメの餌だったことを忘れていた月岡恋鐘であったが、この解答の「あい」を手に入れられるようにという要旨は演技をする時点から理解していたようである。自身を愛せている彼女は、これまでの感謝を込めて幸せになることで返していかないとと笑う。
 さらに語られるのは、まるでイメージに合わないであろう「寡婦」にキャスティングされた理由である。ゲームの物語が終わった後で、寡婦となった彼女が自分で「あい」を得ていけるのか、生きていけるのか、そんな不安を感じさせない人間を望んだらしい。確かに月岡恋鐘がカモメに餌をやる様子を想像して、「あい」が得られずに「寡婦」のまま過ごしている、などという情景は想像しにくいものだろう。
 彼女の主体は強靭で、必ず幸せになることが予感される。

月岡担当Pの目尻には光るものが浮かんでいる

メッセージ

名キャスティング過ぎる。センスの鬼。業界No.1の実力派。

キャスティング

 そして園田智代子と田中摩美々は自分たちが切ったダリアを記念に購入することにしたらしい。友達にプレゼントというのがやはり一般的であるが、彼女らは自分で自分のために何かをしようという意識が芽生えている。田中摩美々も自分へのご褒美は自分でとする。
 そうやって自分のために買ったそれを、それでもお互いにプレゼントを渡したいと思う彼女らは、交換という形で手渡す。この振る舞いは客観的には回りくどくて面倒であるが、しかし彼女らにとっては大切な自分への愛を持った上での相手への愛として重要である。

園田プロの進化はどこまで行くのだろうか。

スーパープロ

 そしていつか「いつもの」とぞんざいな注文をした妊婦もまた、手折られる前の儚い花々を買っていたような愛のある人物であることが明かされる。そして彼女のもとには新しく生命が誕生した。

あんた良い奴だったんだな。

誕生としての希望

 そして視点は月岡恋鐘と話すプロデューサーに切り替わり、月岡恋鐘に対して、そして283プロの皆に対して、みんなが幸せになることを――主体として自己を肯定できる自分にになってくれることを疑わないことを、つまりそれを信じて見守る自分自身の愛を、告白する。

やっぱシャニPなんだよなあ。

俺も疑わないよ

 そして多大なる愛をもってゲームの話が締めくくられる。
 自らの後悔に客体化されて「寡婦」であり続けた彼女が、今は自由な主体を手に入れ、愛に満ちた一人の人間として生きていますように、と、やはり愛に満ちた一人の人間として祈りを込めて。

 大胆なテーマイラストの提示はイラストが良いゲームの特権

主体への祈り

 そして赤ちゃんの誕生を聞いた幽谷霧子は、自ら手折った花を想い、生命の流転を肯定する。ここでは新しい生命である生だけではなく、死すらも肯定しており、つまり亡くなってしまった「寡婦」の夫の死を、そして彼女と類似することが暗示された、いずれ語られるであろう七草家の父親の物語の行末についてをもかすかに暗示している。

生命が加速する夏らしい話だ

夏

 そして最後に、もはや寡婦ではない一人の人間として、やはり主体としての虹のエフェクトのモチーフと、眩い日差しの下に、鮮やかな世界に踏み出した女性としてのかつての寡婦が、新たなヒロインとして描かれる。

こんなん絶対幸せになるもん

スーパーラバー

 そしてそんな彼女や、手折った花々、生まれた赤ちゃん、色んな生命たちに出会いと別れに祝福の挨拶を。これをもって物語は終結する。

夏だ……

出会いと別れ

感想

 夏!来たな!濃密な緑の葉!転がる蝉の死体!!暴力的な台風!!!そして生と死のむせ返るような湿度の匂い!!!!夏だーーーーーー!!!!!!
 季節感を大切にしつつ、あくまでも基本的な主題である主体と客体の対立について決して踏み外さずに丁寧に描いた作品であった。
 物語的な進行度が比較的曖昧になりやすい群像劇という形式を取った今作であったが、物語の進行をアプリゲームと連動させ、また登場人物が連絡を取り合う描写を挿入することによって、物語の進行度が一致していることにある程度の説得力を持たせている。また、時折ゲームのモノローグを順番に読み上げるという形式を採用することで、スポットライトが当たっていない登場人物の物語における不在の印象を解消しつつ、聴覚的な間隙を調整して、さらにはクライマックスの演出にも効果を上げていた。構成上の演出が優れていたと思う。
 作品内容自体は、今回も象徴的な表現やモチーフを使って分かりやすく話を展開しており、情報の密度が高いイベントコミュであった。さらにそれが複数の段階を踏んで進行するため、読んでいてボリューム感がある。
 さらに、今回は多くのキャラクターが登場しており、多くのやり取りをする新規の組み合わせが多かったが、彼女らのしっかりとした造形に基づいた描写が快く感じられる。他には、誰かに見られる存在としての偏重した客体性を持つ七草にちかが、小動物的な緊張によって豊かな表情や仕草を持っていることが、作りこまれている描写によって補強されていて良かった。
 また今回はSHHis追加後、初めての越境イベントコミュということであったが、これまでのそれとは違い、一気に統一感を持って物語が進行し始めたように感じる。主体と客体に著しく偏ったSHHisの二人を軸にして、これまでの主題に対する内容や結論としてはやや曖昧に感じられるような物語もあったが、今回のイベントコミュではアイドルマスターシャイニーカラーズとして確かに重要な主題を意識しながら進行している。もし作品のサービス終了まで覚悟して物語を進行させるというのであれば、その方針を応援したいところだがシャニマス公式はどう考えているのだろうか。
 それはさておき、全体として良いコミュだったように思います。話がしっかりしていて丁寧なので今回も楽しいコミュでした。次回を楽しみにしています。