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ゴリアテさんの話

ゴリアテさんは、私の大学の先輩でした。

ゴリアテさんとの出会いは18歳の春。
大学進学のために地方から上京した私が入部した、軽音サークルでの出会いでした。


出会い

本当はかるた部に憧れていた私ですが、大学にそんなサークルはなく、私はあてもなく友人と新入生歓迎…もとい、新入生サークル勧誘ロードをうろうろしていました。
特に代案として入りたいサークルも浮かばかった私ですが、なぜか、とある軽音サークルが目に入ったのです。
小学校から高校まで、クラスの地味な女子として過ごしてきた私に軽音サークルなんて縁遠いような気がしましたが、「10年以上ピアノをやっていた」と書くと、なぜか熱烈に歓迎されたのを覚えています。

私は百人一首が好きだったので、かるた部に入りたいと思っていましたが、ピアノを弾くのも好きでした。
だから、好きな鍵盤が弾けるならいいかなと思い、そのサークルにキーボードとして入部したのです。

サークルに入っても、男性と話すのが苦手で、周りの洗練されたおしゃれな女の子たちにも引け目を感じてしまった私は、最初はなかなかなじめませんでした。
そんな私がある日、サークルの部室の前に行くと、階段を下りてくるピンクのTシャツを着た、髪の毛が半分金髪の先輩を見かけました。
大学生ではよくある風貌だと思うのですが、なぜかその人のオーラが独特すぎて、目が離せなくなったのを覚えています。

「このシーンは一生忘れない気がする」

何の根拠もないのに、そんなことを思いました。
この人が、ゴリアテさんでした。

「本当に面白いとき」しか笑わない人


ゴリアテさんは私より2学年上の先輩で、そのサークルでドラムをやっていました。

人見知りなのかそうでないのかよくわからない性格のゴリアテさんは、基本的に人の目を見て話しません。
自分で「本当に面白いときしか笑わない」と言っていましたし、食べ物も人も、わかりやすく好き嫌いがハッキリしている人でした。
つまり、人によっては声をかけやすいタイプではなかったように思います。
しかし、私はなぜか、他の男性には話しかけづらいのに、ゴリアテさんはとても話しやすいと感じていました。
ゴリアテさんの「本当に面白いとき」に笑う姿が好きだったのです。

このままでは息子さんは卒業できません


ゴリアテさんは大学生でしたが、あまりまじめな大学生ではありませんでした。

ゴリアテさんは私が入学したときには3年生でしたが、その時点ですでに、必要な単位のほとんどをとれておらず、卒業を危ぶまれていました。
あるとき大学の食堂で2人で話していると、「このままでは息子さんは卒業できませんよ」という通知が実家に直接届いたのだと、何とも返答しづらい話を打ち明けられました。

ゴリアテさんは、3年生から少しだけまじめに大学に通い始めました。

私もゴリアテさんに少しでも協力したいと思い、いくつか一緒の授業をとりました。
ただ、一緒にとった授業の日、隣に座ったゴリアテさんのカバンから出てきたのは教科書ではなく、何冊もの少女漫画でした。

ゴリアテさんは私の隣で少女漫画を読み、私は授業を聞いてノートをとり、テスト前にそのノートはゴリアテさんに渡りました。
憤りや悔しさなどはありません。
むしろわきあがったのは、「この人おもしろい!」という興味心でした。
中学受験から勉強漬けの毎日を過ごしてきた私にとってゴリアテさんのその堂々とした授業姿勢は、ある種の革命のような斬新さだったのです。

ちなみにゴリアテさんは、授業にもサークルの集まりにもよく遅刻して来ました。
あるとき、「なんでいつも遅刻するんですか?」と聞くと、ゴリアテさんは言いました。

「主役は遅れて登場って言うから」

ドラムっていつも一番後ろにいて目立たない


ゴリアテさんは、授業には真面目に出なかったけれど、楽器の練習はすこぶる真面目にやっていました。

ゴリアテさんは、大学に入って初めて楽器を触ったそうですが、私が出会った時点で、サークル内でも指折りの上手いドラマーでした。
そしてあるとき、「ドラムっていつも一番後ろにいて目立たない」ということが嫌になったようで、ギターの練習を始めました。

ゴリアテさんは、ドラムも独学でしたが、もちろんギターも独学です。
すると、数か月後にはゴリアテさんは、ギターボーカルとしてステージに立っていました。
ゴリアテさんは、興味があることや好きなことには一気にのめり込むけれど、興味がないことは一切やりたくないそうです。
「興味があってもなくてもやらなくてはならないことはやるものだ」という思考回路の私にとっては、これもまた革命的でした。

誰かのためではなく、自分のために動く人


ゴリアテさんはいつもやりたい放題のように見えますが、不思議と周りに人が集まる人でした。

ゴリアテさんは、みんなをまとめるような役職についたりはしないし、リーダーとしてみんなを引っ張っていくようなこともしません。
でも、よくいろんな遊びを企画しました。
そして、何かライブの機会がある度に、単発でやりたいバンドを企画し、本気で大学生活を、人生を楽しんでいるように見えました。

ゴリアテさんは、誰かのために動いているわけではありません。
いつも彼が言っていたのは、
「自分がやりたいからやっている」
「面白そうだから企画した」
ということでした。

「でも、何かを企画して人を集めて動かしてって、大変じゃないですか?」
あるときゴリアテさんに聞くと、言われたことがあります。

「自分が言い出しっぺになって企画すれば、自分がやりたいことが思い通りにできるじゃん」

ゴリアテさんが企画した遊びやバンドはいつも盛り上がって、関わったみんなが楽しそうにしていました。
だからみんな漠然と、「ゴリアテさんの企画に乗っかると楽しいことが待っている」と思ったのではないかと思います。
私もそう思った一人でした。

ゴリアテさんはいつも悠々自適に過ごしているようでしたが、結果として先輩からも後輩からも慕われる、自分ではその気が無くても人がついてくる人なんだなと、後輩の私は感じました。
私も、そんなゴリアテさんに心から惹かれ、ついていきたくなった後輩の一人だったからです。

これまで「常識」にとらわれ、「普通」を愛し、迷いなくレールの上を歩くような人生を歩んできた私にとって、ゴリアテさんの全てが新鮮で、うらやましく見えました。

私とゴリアテさんの「上界」


ゴリアテさんがひとり暮らしをしていた家は、私のひとり暮らしの家の近くにありました。

坂や階段の多い土地だったので、私の家の横には長い階段があって、その長い階段を上ると新たな住宅地が突然現れる、不思議な地形です。
ゴリアテさんの家は、その階段を上った上の住宅地をひたすら歩き、反対側の長い坂道を降りた所にありました。
だから、私とゴリアテさんは2人の家の間にある住宅地を「上界」と呼んでいました。

ゴリアテさんと私は仲良くなり、夜中、ほとんど人が歩いていないような上界をよく2人で散歩しました。

上界から下界に降りた所にあったコンビニでおでんを買って、階段か植え込みに腰かけて、2人でおでんを食べた深夜。
道端の丸く整えられた植栽を見て、ゴリアテさんが、「あれ、ライオンみたいじゃない?」と言いました。
それは、ただの丸く整えられた植栽です。
ライオンの形に整えられたアート的な何かではありません。
しかも、ゴリアテさんが言う「ライオン」は、リアルライオンではなく、ミスタードーナツの「ポンデライオン」的なものだろうということは何となくわかりました。
私はそれを見て、「ほんとだ、ライオンみたいですね」と言いました。
全体の輪郭と、葉と葉の隙間が目や口みたいに見えてきて、見れば見るほどライオンにしか見えなくなっていったのです。
それから私たちはその木を、「ライオンの木」と名づけました。

ゴリアテさんの私生活


あるとき、初めてゴリアテさんの家に行きました。

ゴリアテさんは、自分は男だけど美容にも興味があると言って、小さなボトルを見せてくれました。
これを、毎日顔に塗っているんだと話すゴリアテさん。
裏面の表示を見ると、それはクレンジングオイルでした。

「これ、お化粧を落とすやつですよ、塗るやつじゃないです」
「どうりで顔がテカテカするわけだ」

笑いをこらえきれなくなってしまった私に、絶対に目を合わせてくれず、ゴリアテさんは言いました。

「ちょっとカッコつけてみたかっただけ」

少しニキビが増えたらしいゴリアテさんは、その日からそれを顔に塗るのをやめました。

自分はひとり暮らしだから、自炊もするんだと話すゴリアテさん。
私に、「気をつけたほうがいいよ」と教えてくれた情報がありました。

ある日、鮭を食べたいと思ってスーパーで鮭の切り身を買ってきたというゴリアテさん。
ゴリアテさんはその鮭に火を通そうと思い、白いトレーに入ったままのその鮭を、電子レンジでチンしたそうです。
すると数分後、電子レンジの中にはドロドロに溶けたトレーと鮭が混ざった物体ができていたそうです。

「この人は何を言っているんだ」

心の中で私は思いましたが、鮭の調理法としてそのような選択肢を思いつく人がいるんだと知ったエピソードを、おそらく一生私は忘れないでしょう。

社会人になった私たち


そんな大学生活を送った後、ゴリアテさんは私より一足先に、社会人になりました。
ゴリアテさんが就職した先は、ラーメン屋さんでした。

「何でラーメン屋さんに就職したんですか?」
私が聞くと、ゴリアテさんは言いました。

「ラーメンが好きなのと、スーツを着て仕事したくなかったから」

でも、そのラーメン屋さんを、ゴリアテさんは約3か月で辞めました。
その後、休憩期間を経てゴリアテさんは再就職し、今度はスーツを着てバリバリ働く営業マンになりました。

ゴリアテさんにスーツや営業なんて全然イメージがわきませんでしたが、ゴリアテさんは意外にもその仕事の業界に興味を持ち、どっぷりハマっていったのです。
社会人になってから人生で初めて、勉強が楽しくなったそうです。

仕事帰りに資格の学校に通い、夜中まで勉強し、その業界で必要と言われる資格を、国家資格も含めていくつも取得していきました。
学生時代にあんなに勉強しようとしなかったゴリアテさんが嘘のようです。
いやむしろ、学生時代に勉強しなかったからこそ、本当に興味がある知識に出会ったとき、のめりこむほど勉強できたのかもしれません。

営業も実は向いていたようで、会社で何度も表彰されました。
人と目をあわせず、気分でしか動かなかったような学生ゴリアテさんは、そこにはいません。
しゃべりが上手で、お客さんの要望をくみとって動く、優秀な営業マンになっていきました。

そんなゴリアテさんに対し、私の社会人生活のスタートは、思ったようなものではありませんでした。

私はまじめに勉強し、単位も余裕で大学を卒業し、就職活動もがんばって、それなりに良い会社に就職できたと思いましたが、就いた仕事で何のやりがいも感じられませんでした。

仕事では失敗ばかり。
おもしろみも感じられない。
残業続きで病んでいく心。
日曜日の夜は憂鬱で、会社を辞めることばかりを考えるけれど、勇気がなくて辞めることもできない。
そんな冴えない毎日を送りながら、それでも自分なりに必死に働いて、私も社会人としてまじめなOL生活を送っていました。

よくある若者に訪れた、青天の霹靂


私の20代も、ゴリアテさんの20代も、性格や方向性は違えど、よくある若者の生き方そのものだったと思います。
きっとこの文章を読んでいる人の中には、私パターンの生き方をしていた人もいれば、ゴリアテさんパターンの生き方をしていた人もいるでしょう。

20代の後半にさしかかった頃、私とゴリアテさんは結婚し、夫婦になりました。

全く違う生き方をしてきた私たちの人生が同じ道に交わり、私たちは30代に突入していきます。
すると、私たちはこれまでの人生で全く関わりのなかったジャンルの問題に、初めて向き合うことになりました。

それは、「初めて授かった子どもが障害児だった」という現実です。

不安定なことわりの中にある、この世界


障害児の親って、
「この人なら大丈夫だと神様に選ばれた」
「障害はギフト」
「あなたは障害がある子を育てていてすごい、私ならできない」
などと言われたりするけれど、実際はどこにでもいる、なんてことない普通の若者だった人たちです。
福祉や療育の専門知識も持っていないし、ボランティア活動とかに積極的に参加するような、慈愛に満ちた人間でもありません。
障害者の世界と全く無関係で生きていた、普通の若者だった人なんです。

私も夫も、近親者や友人、周囲の近しい人に、何らかの障害がある人はいませんでした。
しかも息子は、産まれる前も産まれてからも、何の異常もなく育っていたのです。
1歳をすぎた息子に発達の遅れを感じ、4歳になった息子に障害の診断が下されるまで、私たち家族もまた、どこにでもいる普通の家族として生きていくのだと思っていました。

私たち家族は、普通とは少し違う。
でも「普通」と「普通じゃない」の境界線はあいまいで、誰もがその境界線の反対側に行ったり戻ったり、この世界はそんな不安定なことわりの中にあるのではないかと思うのです。

忘れないでいたいこと


かつての「私とゴリアテさん」だった私たちは、あわただしい毎日を過ごすうちに、お互いにイライラしたりムカついたり、父と母でしかなくなっていってしまうことも多いです。
私はそんなとき、ふと漠然と虚しくなってしまったりすることがあります。
でも、「私とゴリアテさん」だった頃のあれこれを思い出すと、ふいに自分を取り戻せる気がするのです。
だから、たまにはこういうことを思い出すことにしています。

父と母である前に、夫婦であることを忘れずにいたい。
家族という単位の根本は夫婦であったのだと忘れずに、今日もこれからも生きていきたいと思うのです。

#創作大賞2023

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