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みんなで一緒に見えないものを見る

「見えないアート案内」という連載を、kotobaという雑誌で4回にわたり続けてきた。これは、目が見えないけど美術館賞が趣味という白鳥さん、そして水戸芸術館で働くマイティ、そして私の三人が色々な美術館を巡りながら、その作品を観察し、対話し、深掘りしていくというものだ。真面目な印象をうけるかもしれないけど、まあ80%がくだらない会話に終始していて、残り20%くらいが書くに値する会話である。

もともと私たちは、美術館賞が趣味だった(マイティは仕事でもあるけど)。だから別に誰に頼まれなくても美術館には行く方だ。だから、趣味の延長線上で仕事にもしちゃおうか、という感じで書き始め、連載が始まった。そして、先週無事に連載最後の4回目の原稿を入稿。この4回で、いったい何を見たのかをメモしておく。

第1回目 フィリップスコレクション展(三菱一号館美術館 東京)

第2回目 クリスチャン・ボルタンスキー 「Lifetime 」(国立新美術館 東京) 

第3回目 千手観音ほか仏像 (興福寺国宝館 奈良)→発売中

第4回目 「風間サチコ展 コンクリート組曲」 (黒部市美術館 富山)→9月4日発売の秋号


「見えないアート案内」というタイトルは決まっていたものの、始まった当初はいったい何を書くのか自分でもよくわかっていなかった。とにかく連載なので、平面、インスタレーション、古典、現代美術と、それぞれ異なる作品を見ていった。

タイトル「見えない」というのは、当然のことながら白鳥さんの目が「見えない」ということからきているわけだが、それだけではない。私たちの身の回りには見えないもので溢れている。たぶん私たちが視覚で見ているものは、きっとほんの僅かだ。ただその見えない膨大な深淵を日常ではあんまり意識しないで生きている。

たとえば「時」だ。時間は目で見ることができない。もちろん地層とかで時間の経過の証拠的なものを集めることはできるけど、実際にはその地層は五分前にできたものかもしれない。哲学者のラッセルは、この世界は五分前にできたものであり、五分前には世界そのものがなかったかもしれない、という説を立てた(「心にとって時間とはなにか」青山拓央より)。

え、でも私はちゃんと昨日のことを覚えてるよ、と思うわけだが、その覚えている過去と「今」は本当に隙間なく繋がっているものなのか、なかなか証明するのは難しい。いや、なんでお前はそんな小難しいこと考えてんだ、と思うかもしれない。それも全てクリスチャン・ボルタンスキー 「Lifetime 」を見たせいなのだ。あのあと白鳥さんは、「俺にとって確実なのは今だけだな。過去も記憶のなかで変わってしまうし、未来もわからない。だから「今だけ」とそんな風にいった。あれから、私はその意味についてずっと考え続けてる。

考えてることは、それだけじゃない。
第3回目 千手観音ほか仏像 (興福寺国宝館 奈良)を見たときのことだ。

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あのときは、矢萩多聞さん、ほか十人の人が鑑賞ゲストとして参加してくれ、みんなでさんざん千手観音様を観察し、ああだこうだ言ったあとに、観音様を眺める多聞さんがいった。

「こういう感じの食堂のおばちゃんっているよね。食堂に入っていくと、はい、何にする?とか無愛想に言われて。でも通っているうちに、あ、こういう優しい顔するんだ、みたいなおばちゃん」

観音様を食堂のおばちゃんに例える多聞さんのセンスに脱帽していると、その後に興福寺のお坊さんが驚いた顔でいった。

「あながち間違いじゃないんです。千手観音は食堂(じきどう)の御本尊で、以前は千手観音の前に集まって食事をしていたんですよ」

おおおおーーーーーーーーー。

その後、マイティがこれを見ていった。
「こういうことってたまにあるんだよねー。みんなで見てると作品の核心に近いところにたどり着いちゃうの。一人ではなし得ないことが、大勢ではできちゃう」

あれは、どういうことだったのだろう。私たちは時を超えて、過去を見たのだろうか。いや、そんなわけない。それともこれは「集合知」と呼ばれるものだろうか? 

以前、ワークショップで「ゼリービーンズ実験」というのをやったことがあった。瓶の中にあるゼリービーンズの数を当てるもので、20人くらいの参加者がそれぞれパッと見て数を言う。そして全員が言い終わったあとにその平均値をとる、と、あれ、不思議。実際に瓶の中にある数に極めて近い数になる、というものだ。あれは面白かった。なんでそう言う風になるかは知らないけど、常にそう言う風になるのだ、とその大学の先生は言った。

見えない。でも確かにそこにあるもの。それを見るのが「見えないアート案内」なんだな、と連載が進んでいくにしたがって、考えるようになった。

そして連載最終回は第4回目 「風間サチコ展 コンクリート組曲」である。富山に行くまでは別の美術館の別の展覧会をとりあげようかとも思っていたが、実際にこの作品を見たら書きたくなった。

連載では、「ディスリンピック2680」と「ゲートピアno.3」を取り上げた。作品は禍々しく重たく、それでいてコミカルなような奇妙な空気感を持つ作品だ。細かく見ていくと、優生思想、差別、歴史修正主義と重たいテーマが連続して立ち現れてくる。

さらに簡単には見えなかったレイヤーが立ち現れる瞬間があった。今回私は、その見えなかったレイヤーの奥にあるものを少し追いかけてみようと思ったところ、その奥にはとんでもなく深いトンネルが待ち受けていた。トンネルの入り口にたつと、どう書いていいかわからなくなり、白鳥さんに電話をかけると、すぐに東京にきてくれた。

「大事なテーマだから会って話さないと」と軽やかに恵比寿に現れた。そして話していると、不思議と話題はまた「時」というものの、不確実性に戻っていった。白鳥さんは「自分の存在感が希薄だと感じることがある」という。世界における自分の存在感という曖昧なものを、他人と比べることはできないから、白鳥さんの希薄さというのは、私には「見えない」。ただ、「大事なテーマだから会って話そう」と言ってくれた白鳥さんと「希薄さ」は関係あるようにも感じる。「希薄さ」を埋めるために、彼はバスに乗ってきてくれたのだ。

今は、そのことについて考えている。コロナでいま世界がどんどんバーチャル方面に動く中で、自分、そしてお互いの存在感が希薄になってないだろうか? それに対して抗うすべはあるのか?

始めた当初は想像もつかないほどに考えることが多い美術館賞体験。

とりあえず、連載原稿は無事に脱稿。
今後はこの見えないものの数々をどう深めていこうか。もう書く媒体はないから書き下ろしになるのかもしれないけど、書きおろせるかなあ。

と、今日はここまで。これは考え中のメモなんだけど、興味を持ったよ、何か関連のものを読んでみたいな、と思う人は、去年の記事だけどこちらへどうぞ。私、白鳥さん、佐久間裕美子さんによる「大竹伸朗 ビル景」の鑑賞体験。





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