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午前4時の試写室 vol.4 韓国へ続く道

今年、すでに韓国に2回行った。不思議なもんだ。だって、この年になるまで韓国とはほとんど縁がなかったから。2021年ごろまで韓国ドラマも見たことなかったし、K Popも聞かず、韓国の作家の本も数えるほどしか読んだ記憶がない。ただし、初めて行ったのだけはわりと早くて、1988年、高校生の頃だった。

それは2泊3日の普通の観光旅行で、最初は母や妹と行く予定だった。しかし、父が突然「重度の蓄膿症」という微妙な病で急に入院してしまったため、母と妹はいけなくなる。その時、母が「せめてお姉ちゃんだけでも行ってきたらと」言ってくれたのだ。当時、私は16歳。え、わたしだけ? まあ、それもいいかもしれないと思い、予定通り2泊3日でソウルに向かった。幸い、知り合いの家族も一緒に行く予定だったため、まるっきり1人ではない。しかし、あちらも家族旅行だから、別行動の時間もそれなりにあった。旅に行く前に大した下調べもしていなかったので、繁華街をうろうろと歩きまわった(たぶん明洞)。人がとても多くて、渋谷とあんまり変わらないなと思った。

その後、20代の頃はアメリカ、30代はフランスに暮らしていたので、韓国はさらに遠くなった。

そんな遠い国が急速に近づいたきっかけは、本当に些細なことだ。 2021年、本屋B & Bの企画で、映画監督のイギル・ボラさんと対談をすることになった。ボラさんはCODAでご両親はろう者。ご両親とボラさんと弟の家族の様子を丹念に綴ったのが『きらめく拍手の音』という本であった。家族のつながり、コーダとして生きること、手話の独立した言語としての大切さを感じさせるもので興味深く読んだ。それに加え、私はボラさんの文章のセンスに魅了された。なんというか、とても洒脱な文章なのである。重いテーマもありつつ、クスッと笑えるスパイスが全体を貫いている。コロナ禍なので、オンライン対談だったが、通訳の人の仕事ぶりも素晴らしく、私たちはたくさんの話をし、途切れることなく話が盛り上がった。

それでも、私と韓国の縁は遠いままだった…はずが、再び一歩近づく機会がやってきた。イギル・ボラさんとのリアルな出会いである。

2022年の初夏、映画『白い鳥』の特別上映が福岡アジア美術館で行われることになり、福岡在住のボラさんに「会いましょう!」と連絡を取った。美術館のロビーに現れたのはすらりと背の高い女性。ほんの1時間くらいだったけど、私たちは英語であれやこれやとおしゃべりをした。当時は『目の見えない白鳥さんとアートをを見にいく』が出て8ヶ月というタイミングだった。ボラさんは「本を読みたい」といい、「ああ、そうだ、出版社を紹介できるかも」と言ってくれた。

1年半の時間が経ち、そんな会話もすっかり忘れていた昨年の秋、カラフルな本が自宅に驚いた。並ぶのはハングルなので、自分の本かどうかも確証が持てなかったが、中を開くと日本語版と同じカラー図版が並んでいて、確かに自分の本だ。本当に本が出たらしい。初版は2000部。(少ないけど人口を考えればそんなもんだ)

その直後、また別の方角から韓国の人との対談の話が舞い込んだ。お相手は車椅子で日本にやってきたキム・ウォニョンさんである。

ウォニョンさんは『希望ではなく欲望』『サイボーグになる』など、日本で3冊の本を出版しており、3つの出版社による共催イベント。その中心になっていたのは韓国文学を専門的に紹介する出版社『クオン』だ。トークはK-Book Festivalという大きな文学イベントの一部だった。

当日、わたしはウォニョンさんの本をしっかりと読み込みんだ。ウォニョンさんの言葉は胸が苦しくなるほど直球だった。こんな風に自分を俯瞰して書ける人はどんな人なのかなと思った。
直前にわたしの本が韓国語に翻訳されていたのは偶然だったが、それを事前にウォニョンさんに読んでもらえたことで、お互いの本を朗読したりなど、実りの多いイベントになった。


この頃のわたしは「自由の丘に、小屋をつくる」を出したばかり。取材やイベントも立て込んでいたので、いい加減少し休みたい気分でもあった。

しかし、今度は韓国の国立現代美術館の人から「美術館で白鳥さんの映画を上映したい」という連絡が入った。

またもや驚いた。最初に思ったことは、「きっと無理だろう」ということ。なにしろ韓国語版は作っていなかったし、予算もなかった。私たちは英語版を作るだけで精一杯だったし、それすら上映の目処がたっていなかった。

「残念ながら韓国語版はないんです」と返信を送ると「こちらで翻訳するので大丈夫です。予算はあります」との返事。
まじですか?
それにしても、どうしてこの映画を??という点も謎だった。コンタクトしてきた人の素性もよく知らない。まずはzoomで一度話しましょう、と連絡すると、その人は「明日の朝10時にしましょう!」という返事。

話をしてみると、「美術をテーマにした映画はたくさんあるけど、だいたいは作家か美術館自体をクローズアップしたもので、鑑賞をテーマにした映画は他に見つからなかった。ぜひ上映を実現したい」と言う。それはわたしが1年間日本の美術館の人から聞き続けてきたことだった。
そういうことなら、と納得し、熱意を理解したので、私たちは翻訳に必要なデータを韓国に送り、全てを委ねることにした。
最初のメールからまだ3日くらいしか経っておらず、ものすごいスピード感で事態が動いていた。

こうして、わたしは4月の初旬にはソウルの現代美術館に行ってきた。美術館は立派で、特に地下のシアターは、本格的な映画仕様である。その日は10日間の上映の9日目に当たり、果たしてお客さんの入りはどんな感じなんだろうと思いながらシアターに行くと、目に入ったのは長い行列。

なんだろうあの行列は??と思うと、当日券を求める人たち。予約分は完売し、わずかかな当日券も売り切れ、最後は補助席もずらりと出て、階段に座る人や立見の人も続出。なんだ!この熱さは!?どこからみんな来たんだ!?と不思議なほどだった。トークの時も質問が途切れず、終わったあとはサイン会状態に。海を超えた先にこんなにたくさん読者がいてくれてたなんて、本当に驚愕した。あとから知ったのだが、韓国でわたしの本は去年「今年の翻訳本ベストテン」のうちの1冊に選ばれたのだそうだ。

上映当日にも意外なことが色々起こった。その一つが、ある映画祭のスタッフの方も訪ねてきてくれたこと。今度はこの映画のバリアフリー版を作って上映したいという話だった。「監督と白鳥さんも招待したい」とのことで、なんと秋にはもう一度韓国に行くことになりそうだ。

思えば、わたしは一冊の本を出し、映画を作っただけだ。あとは、もう流れの中で起こったことを受け入れてきた。本や映画は私たちの手をはなれ、さまざまなことに波及していってそれは今も現在進行形だ。

いろいろうまく運んでるように見えても、本も映画も、実は誰にも求められてないことを勝手に、無計画にやっている。しかし、とにかく形にしてみれば、こういうものが読みたかった/見たかったという人はいる。だから、誰にも求められなくても、「需要」とか「数字」がわからなくても、ただ書きたいことを書いて、見たいものを作ればいいのかも。そう考えるととても自由になれる気がする。

社会やクライアントが求めることをするのは当然悪いことではない。(いや、いいことだろう)。
でもさ、時に、誰にも求められないことをやるのもいいんじゃない?原動力になるのは自分の発露だけだから、自分が転けたらそこで全てが終わってしまうという清々しい自己完結。

それでもまえに一歩踏み出してみる。とにかく形にして世の中にぽーんと放り投げてみる。

その先に伸びるのは、その人だけが歩むことができ、目の前には誰もいない道だ。

思えばどの時が韓国につながる別れ道だったかと言えば、多分イギル・ボラさんとのオンライン対談だったんだろうけど、それだけでもない。

コロナ禍に思いがけず見たたくさんの韓国ドラマや読んだ韓国文学の影響も大きい。これらのおかげで、とても遠かった韓国という国が、急速に身近に感じていた。私は唸り続けてきた。韓国から生み出されてくるものの面白さに。単に面白いんじゃない。とても繊細で複雑なものを、長い時間軸で見せていく力だ。これはちょっと敵わないなと思うものも多かった。
逆に韓国の読者のなかで「日本の美術館に行ってみたい」という気持ちになったという人もいたし、「目の見えない友人を誘って美術館に行ってみたくなった」という感想も聞かれた。文化ってこうやって伝播していくんだなと思う。

いま、地味に毎日ハングルを勉強している。もちろん誰にも求められていない。しかし、秋の映画祭で最初の1分くらいは韓国語で話したい。
それが今の毎日をとても楽しくしてくれている。


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