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同じ本を二度、読むって?

なんども読みたいと思う本はとても少ない。
実際に自分が二回以上読んだ本といえば……

思い出せる限り「ママ・アイラブユウ」(ウイリアム・サローヤン)、「若草物語」(オルコット)、「あなたを選んでくれたもの」(ミランダ・ジュライ)、「西南シルクロードは密林に消える」(高野秀行)、「ガラダの豚」(中島らも)、「白旗の少女」(比嘉富子)、「どくとるまんぼう航海記」(北杜夫)くらいしか思いつかない。「ホテル・ニューハンプシャー」や「その名にちなんで」(ジュンパ・ラヒリ)「セブン・イヤーズ・インチベット」も十本の指に入る一冊なのは間違いないけど、実は一度しか読んでいない。

その一方で、「バウル を探して <完全版>」を出して3週間、たくさんの人が、すでに一度読んだははずの本をまた買い、ふたたび読んでくれている。

夜遅くなると、ふとそのことを思い出し、澄んだ空気の静かな山に旅して来たような気持ちになる。十年間、ただ一生懸命に書き続けてきたご褒美だろうか。


さきほど、友人でライターの和田静香さんと電話で話していたときに、「この形が、本来この本のあるべき形だったんだねー」と言われた。そう。映画は映画館で見るのがベストなように、この本もこの形がベストな形なんだろう。

しかし、七年前にこの形の本を実現するのは間違いなく無理だった。多聞さんとも中岡さんとも出会っていなかったし、なにより本の流通や本屋さんでの売り方も7年前と今ではまるで変わった。そして、自分自身が七年前とはやっぱり違う。いまだからこそ、この本の形ができたのだ。

そんななかで、友人で朝日新聞記者でノンフィクション作家の三浦英之さんはこんなことをツイートしている。何冊も本を書いてきた三浦さんだからこそ、この<完全版>の見事な常識はずれっぷりがわかるのだろう。


川内さんはいったい何をしたかったんだろう?

その一文に三浦さんの巨大な「???」が凝縮されている。

ふふふ、そうだよね。

経済的な合理性や出版界の常識を考えたら、こんなのありえない。
しかし、今回の「バウル を探して <完全版>」は、自分にとっては出さずには死ねない本だった。だから、三浦さんの著者も編集者も「取り憑かれている」は、的を射ている。取り憑かれているからこそ、生まれる物もある。

私は、もともとあまり常識と照らし合わせてがどうとか、「できないかもしれない」などとは考えないほうだ。まあ、楽観的なのだろう。それはアメリカで培った「人生、やりたいことをやろう」というポジティブさとフランスで触れた「人生、なんとでもなるさ、セ・ラ・ヴィ」という質の異なる楽観主義が影響しているかもしれない。

英語もできずに渡米したとき、国連職員の就職試験をうけるとき、何も書いたこともないのに本を書くとき、いつもとりあえずやってみよう、という精神だけで突き進んだ。バウル を巡る旅も、「二週間でバウルには会えない」と言われつつもとりあえず飛行機に乗った先に、本当にバウルがいた。だから、この本も「文庫化された本だからもう出せないかもしれない」などとは全く思わなかった。

今回の「バウル」で私が書き下ろしたパートは「中川さんへの手紙」だけだ。これは、1万字ほどの文章だけど、自分が最近、考えてきた疑問に自分で答える形になっている。実は、最近の私は自分の書くものにあまり自信が持てずにいる。書けば書くほどその書くことの深みを覗きこむことになり、その意味を考えるようになってしまったのかもしれない。仮に自分の本が誰にも読まれずに、トイレの紙になって下水に流され、東京湾に漂う運命でも書き続けるかどうか? ときどき、そう考える。……そんなことを書いた。解説の若松英輔さんは、この手紙から本を読むことを勧めている。私にはその理由はわからないけど、其れも一つの読み方だろう。写真を見てから読む。解説を読んでから読む。それも良き。

そういえば、この間、再び映画「タゴール・ソングス」を見た。二回目なのだが、不思議なことにこの映画は二回目のほうが圧倒的によかった。

一回目はこれはどういう映画なのかな、と映画の筋書きを追うことに気をとられてしまったのだが、二回目はただ人々の歌声やリズムに身を任せた。そうすると、「タゴール・ソングス」の数々が自分のなかにすーっと流れ込み、画面の中で歌う人たちと自分が一体化していくような高揚感を感じた。

なんだろう、この不思議な感覚……。

気がつけば、私は映画のあちこちで泣いていた。一度しかない人生。それをみんな懸命に生きている。その人生の中に、百年以上前に作られた言葉がある。ベンガルの地を愛し、支配や別れに苦悩し、その全てを歌に込めたタゴール。百年後にそれをベンガルの人は読み、歌い続ける。その歌う姿は、見れば見るほど心にしみた。

この映画は、純粋な「ドキュメンタリー」というのと様相が異なる。佐々木さんが映画を撮ることでタゴールを再発見したように、歌う人たちも映画に撮られることで、一緒にタゴールを再発見していった。その撮る、撮られるを超えていく様子も描かれているため、歌を通じた魂の交流録として見ることもできる。

そうして映画を見る私も、二度見ることで映画を楽しむ、という地点一歩進みから映画を感じる、という地点に立つことができた。

二度目が見て本当によかった。今度からは、心が動かされた本や映画はなんども味わおうと思う。楽しむを超えて、その全てを感じるためにも。

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【イベント開催決定!】「タゴールとバウル」スペシャルトーク
7月22日(水)ポレポレ東中野

※ 席数を減らすなど、感染対策をしての開催となります。お早めにお申し込みください。

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