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いきなり入院

2020年3月21日(土)

【Day2】

酸素濃度72%——
三女・ミハヤは、渡豪2日目にしていきなり入院という憂き目にあった。

昨晩からその兆候は現れた。
かなりテンションが高かったはずのミハヤが徐々に大人しくなり、それと同時に呼吸が浅くなっていく。時々発する咳は、深く、湿っている。

嫌な予感がした。夏に肺炎をやった時の症状に酷似している。
それだけじゃない。今、肺炎と言えば原因はやはり……と否が応でも考えてしまう。

子供はあまり重症化しない傾向にあるとはいえ、絶対とは言い切れない以上、その可能性もある訳だ。

ミハヤはトロトロと眠りについたが、呼吸数は1分間で50回前後。健康な幼児の2倍である。

日本なら即座に夜間緊急外来へ連れていくところだが、ここは日本の健康保険証が通用しないオーストラリア。しかも今はセルフアイソレーションが始まったばかりの身である。とりあえず、寝ているミハヤの口元に無理やりメプチンを押し込み吸入させ、一晩様子を見ることにする。

しかし、疲れもあってか、三女の容態を憂う気持ちとは裏腹に僕はすぐさま完全な熟睡状態へと引き込まれた。

誰かの話し声で目覚めると、すぐにそれはアッコが病院に電話しているのだと思いあたった。別の部屋で寝ていたミハヤの様子を見にいくと、依然として短く喘ぐような陥没呼吸が痛ましい。

いくつかの病院を電話でたらい回しにされたのち、ロイヤル・ノースショア・ホスピタルという、規模の大きな総合病院に連れていくことになった。徒歩で15分程度の場所だ。アッコは喘ぐミハヤを抱きかかえ、再び外へ出て行った。

ここからはアッコからの伝聞だが、病院の受付で症状を伝えたところ、スタッフ同士が小声で「obviously, suspected」と囁いていたらしい。それはそうだろう。この状況なのだから理解はできる。

休校が決まった後も保育園に通い続けたミハヤは、もっともウイルスをもらってくる可能性が高いとも言えた。

しかし、検査の結果が分かるには数日かかる。とりあえず今日はレントゲンを取り、やや肺炎の兆候が出ているのもあり、ステロイドを吸入して呼吸を落ち着かせるために入院が決まった。

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「今朝急いで出てきて何もないから、色々持ってきてほしいんだけど。もう電話の電池が切れるけど、よろしくね」

16時半ごろ、アッコからの指令が入った。

海外の見知らぬ土地で、テキストメッセージのやりとりも通話もできない状態で、おぼろげな場所しかわからない、巨大な総合病院で落ち合う。しかもセルフアイソレーションが義務付けられている、昨日入国したばかりの日本人が、下手したら病院内をうろつく羽目になる——このシチュエーション、ミッションインポッシブル2と言っても過言ではないだろう。

幸い道順は比較的シンプルに思える。あとは誰からも声をかけられないことを祈るのみである。

僕は指示された持ち物をトートバックに無造作に詰め込むと、もう見てはくれないかもしれない「今から出るから20分後に下に来て!」というメッセージを送信し、外へ踏み出した。

しかし、僕の心配は杞憂でしかなかった。これが新型コロナウイルスの影響によるものなのか、それともこの場所は週末いつもこんな感じなのか知る由もないが、街はまるでゴーストタウンだった。

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これは、羽目を外して遊ばない限り、「セルフアイソレーション」と言えどもそれほど神経質にならなくてもいいのかもしれない。そう言えば、昨日は猛暑日だったため、ボンダイビーチは人でごった返し、政府の怒りを買ったというニュースが流れていた(そのせいでボンダイビーチはクローズする羽目になった)。

つまり、オーストラリア国民としてはそれぐらいが平均的な意識の持ち方であり、「あいつセルフアイソレーションしてねえぞ!」と魔女狩りをするようなマインドはなさそうということである。

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問題なく到着したロイヤル・ノースショア・ホスピタルは想像よりもはるかにデカい総合病院だった。隣にラグビー場があるのもことさら規模が大きく見えることに一役買っている。

病院も、人の出入りは少なく閑散としていた。

ほどなくしてアッコが登場し、物資を問題なく渡せたことに胸をなでおろす。

ミハヤの容態は比較的落ち着いており、うまくいけば一晩で退院できるかもしれないという。アッコも付き添いのために病院でお泊まりとなる。

昨年夏、付き添いができない病院にミハヤが入院した時は、毎日泣いて大変だった。しかも号泣するのではなく、ひっそりと泣くものだから、胸が締め付けられたものだ。

ミハヤ的にもまだ作夏の記憶は新しいらしく、症状が出た時には「これはヤバい、肺炎かも……入院かも……」と思っていたはずだ。だから、病院ではアッコの「苦しい?」という問いかけにも頑なに首を振っていたという。酸素濃度72%と言ったら息を吸っても吸っても酸素が入ってこない地獄のような苦しみを感じているはずなのに。

それはそうだろう。ただでさえ入院に置き去りにされるかも知れない上に、医師たちの言葉もわからないのだから。そう考えると、ミハヤの健気さに再び胸が締め付けられる。

しかし、今回はアッコが付き添えることがわかり、いくらか安心したようだった。

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それにしても、なんとも波乱万丈な移住の幕開けに呆然とするしかない。やることがなさすぎて、日本にいる時より5倍ほど手が込んだ夕食をこしらえて(ステーキ、バターライス添え、アボカドサラダ、フルーツ盛り合わせ)、その豪華さに自惚れているとき、ふと思い出した。

そう言えば今日は14回目の結婚記念日だった。14年前、個人的に決めた標本木についた桜が開花した日に入籍しようと決めたのだ。

そして、今年も日本では桜が見頃になっている旨を友人が教えてくれた。

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