見出し画像

小説:僕が僕であるために

その年の暮れ、好きだったミュージシャンが亡くなった。死因は痛み止めであるフェンタニルとアルプラゾラムのオーバードースによる事故死である。血液検査では大麻、コカイン、鎮痛剤、トラマドールの陽性反応が出た。尿検査では複数の強力なオピオイドであるヒドロコドン、ヒドロモルフォン、オキシコドン、オキシモルフォンの反応を見せた。アルコールは検出されなかった。これは自殺ではない。だけど彼の音楽には、いつもどこか死への憧憬みたいな雰囲気が漂っていたし、自らすすんで死の扉を叩いたと言っても間違いではないように思えた。

そして翌日、僕はアルバイトをクビになった。ウイスキーを飲んで出勤した挙句、取引先の人間と揉めに揉めて、職場の人間に今すぐ帰れと言われたので帰宅した。そのまま会社から連絡は来なかったし、もちろんこちらからも連絡はしていない。今となっては申し訳ないことをしたとも思っているのだが。

一週間後には、同棲していた彼女が僕の親友と浮気していたことが発覚した。しかもその期間は半年に及んでいた。まったく気が付かなかった。僕は裏切られた気分になったので、家を出て行くことにした。ちなみに一緒に住んでいた部屋の家賃は彼女が支払っていたし、生活費もほとんど彼女が工面してくれていた。僕はといえば、せいぜい水道代を支払っていたくらいで、働いて稼いだお金の大半は、酒か煙草に費やしていた。そりゃ、浮気くらいするかもな、と僕は思った。

裏切られた気分にはなったけど、しかし彼女のことも、親友のことも、とくに恨んではいなかった。もちろん職場の取引先の人間のことも恨んではいなかった。その場では傷つきはした。だけど、不思議とその痛みは尾を引かなかった。亡くなった好きなミュージシャンについては、むしろ早いうちに死ねてよかったな、とすら思った。

しかし、住む家を失って、これから僕はどこに行けばいいのだろう? この街はそれほど広くはない。他の街に行くことも考えられるが、しかし移動したところで知り合いなんていなかった。なので、僕は僕の彼女と浮気した親友の家に泊めてもらうことにした。自分でも馬鹿げてるかもしれない、とは思ったんだけど。

僕の親友、つまり僕の彼女を奪ったその親友は、絵を描く仕事をしている。いわるゆ画家ってやつだ。年に数回個展を開いて、自分の作品を展示発表している。依頼を受けて絵を描くこともけっこうあるらしい。それから、副業として美術大学の先生の仕事もやっているとか言っていたな。彼くらい真面目に仕事をしている人間なら、僕みたいな人間の一人や二人、養ってくれるんじゃないか、と思った。それに、元はと言えば彼が僕の彼女を奪ったことが原因で、僕はこうして部屋を追い出されているのだ。いや、僕がたまらなくなって自分で部屋を飛び出したのだけど。そして彼女の気が浮ついたのも、僕のせいなのかもしれないけども。とにかく彼に、もし負い目のようなものがあるのなら、しばらく僕を部屋に泊めてくれてもいいのではないか、と淡く期待したのだ。

しかし、親友は言った。
「お前を泊めることはできない。悪いけど」

「どうして?」とは尋ねなかった。「そっか」と思った。それよりは、これ以上、一秒でもこの場所にいたくない、今すぐどこかへ消えてしまいたい、という衝動に駆られた。自分から訪ねておいてなんだけど。そのときふと、風になりたい、と思った。

僕は彼の玄関先を背にして、一切表情を変えずにその場から立ち去った。アパートの階段を降りて振り向いたら、彼は少し寂しそうな顔をしているように見えた。しかし、僕には僕以外の人間が、その心の中で一体なにを考えているのかは、よくわからなかった。

もう一度、彼女の住む部屋へ戻ろうか? とも考えた。僕が部屋を飛び出したとき、彼女はとくに浮気したことについて弁解はしなかった。そして半年にわたって浮気していたことは、確実だった。もう僕はここには帰って来ないからね、と僕は別れ際に言った。しかし彼女は引き留めてはくれなかった。僕は、僕が部屋を飛び出した後に、彼女が安堵のため息をついている場面を想像した。そして、そのあとに親友に連絡している姿を想像した。やれやれ、よせばいいのに。やっぱり僕の居場所はどこにもないな、と思った。

トボトボと歩いていたら公園にたどり着いた。時刻は夜になっていた。空は陰鬱に曇っている。僕はダッフルコートのポケットから煙草を取り出して、先端に火をつけた。街頭に照らされた白い煙は、淡いオレンジ色に染まって空中を漂い、そのあと僕の頭上で風に流されてどこかへ消えていった。それが最後の一本だった。その晩は、そのベンチの上で丸まって寝た。マフラーを丸めて枕の代わりにした。この先、僕の人生はどうなってしまうのだろう、と思った。とても冷える夜だった。

翌日、葉っぱなどとうに枯れ落ちた樹の下で目が覚めた。起き抜けに、ひどい頭痛に襲われた。頭が痛い。痛すぎる。硬いベンチの上で寝たせいなのか、関節も筋肉も傷んでいる。鼻水が垂れそうになったので、袖で拭った。

意識が朦朧としたまま、ベンチに座りなおした。去年の誕生日に彼女にプレゼントとしてもらったカシミヤのロングマフラーを首に巻きなおし、ダッフルコートのポケットから、煙草の箱を取り出したが、中身は空だった。そういえば、昨晩吸ったのが最後の一本だったのだ。こんな体調のまま、今日一日この公園で過ごしていたら、次は死んでしまう可能性もあるな、と思った。死ぬことをとくに恐れてはいなかった。もともと生きていることに執着がなかったので、生きるのも死ぬのも、たいした違いはないのではないかと思っていた。好きなミュージシャンが亡くなったときには、不謹慎だけど、少し羨ましいな、と思ったくらいだった。とはいえ、頭は痛いし、関節も筋肉も悲鳴を上げている。死ぬのは怖くなくても、物理的な痛みは普通に嫌いだ。僕はのろのろと立ちあがって、重たい身体を引きずるようにして歩いた。

煙草屋の店先には、いつもの少女が立っていた。
「今日は学校はお休みなの?」と僕は声をかけた。
「今日は土曜日ですよ。休校日です」と少女は言った。
「それより、大丈夫ですか? 死人みたいなお顔をしていますよ」と少女が心配そうに言った。
「わけがあって、家と仕事を失った。公園で一晩過ごしたら、体調を崩したみたいだ」僕は力のない声で言った。
「それは大変です。少し休んでいかれますか?」と少女は言った。

少女は、この実家の煙草屋で放課後や学校が休みの日に店番をしている。病気がちな母親と二人で一緒にこの家で暮らしているということは、以前、少女の母親と話して知っていた。

「しかし、面倒をかけてしまう。気持ちだけ、ありがたく受け取っておくよ」と僕は言った。
「いけません。今日はお母さんも体調を崩しているんです。ご飯を用意するので、裏で休んでいてください」と少女は言った。
僕は返答に困っていた。たしかに少し休ませてもらえると、とても助かる。しかし、いくら体調が悪いからと言っても、さすがに「はい、ありがとうございます、では休ませてもらいます」と言うのは、少し図々しいように感じられた。まぁ、彼女に生活を支えてもらっていた僕が今更言えたことでもないのだが。

そこへ、裏から少女の母親が顔を出した。
「どうしたの?」と母親は言った。青白い顔をしていて、強い風が吹けば飛ばされてしまいそうなほど、華奢な見かけをしていた。
「おかあさん。よく来てくれるお客さん。住む場所と仕事を失って、そのうえ体調まで悪いみたいなの。風邪かしら? 少し裏で休ませてあげてもいい?」と少女は母親に尋ねた。
「それは災難だったわね。狭いけれど、来客用の空き部屋が一つあるので、そこで休んでいくといいわ」と少女の母親は言った。
けっきょく、僕は甘えさせてもらうことにした。

案内された空き部屋の真ん中には、小さな丸テーブルが置かれていた。磨りガラスの向こうには、風でゆらゆらと揺れる木の枝がぼんやりと見えた。少女は押し入れから布団一式を取り出して、畳の上に敷いてくれた。
「横になって休んでいてください。あとで食事を持ってきます」
「ごめんね。ありがとう」と僕は言った。
少女は店番の仕事に戻っていった。

僕はコートをハンガーにかけた。そして、先ほど買った煙草を取り出して、火をつけた。ひどく辛い味に感じられた。窓を開けると、冷たい風が部屋の中に吹き込んできた。あの少女も、少女の母親も、なんてお人好しな人たちだろう、と思った。僕はこの煙草屋に二日にいっぺんは通っていた。今までにも少なからず、店先に立つ少女やその母親と、とりとめのない雑談を交わしたこともあった。とはいえ、ほとんど見ず知らずの人間を気遣って部屋で休ませてくれるなんて、この世界は善意で回っているのだろうか、と思った。僕なら、そんな人間は放っておくかもしれない、とも思った。

そして親友と彼女のことを想像した。そのとき僕の頭の中に思い浮かんだ彼らは、秋の林道の中を手を繋いで歩いていた。どうしてそんな場面が突然思い浮かんだのかはわからない。親密そうに談笑しながら、落ち葉の上を歩いている。見上げると、どこまでも澄んだ青空が広がっている。その場所には彼ら二人しかいなかった。
「これで、私たちはいよいよ本当に結ばれるね」と彼女は言った。
「幸せになろう」と親友は言った。
こんな幸福な瞬間に割って入っていく度胸は、僕にはなかった。

そのあと、視界が真っ暗になった。世界から光と色が急速に薄れていき、秋の林道と澄んだ青空と幸福な二人は暗闇の底へ消えていった。僕も暗闇に放り出された。どうすることもできなかったので、布団に横になって窓の隙間から風が入ってくる音に耳を澄ましてじっとしていた。

「寒くないんですか?」と言って少女は部屋の窓を閉めた。僕はいつのまにか眠りに落ちていたらしい。丸テーブルの上には、湯気の立ったおかゆと漬物と梅干が置かれていた。少女は肩に届くくらいの黒髪を耳にかけて、僕の枕元に膝を折って座った。
「食欲はありますか? 自分で食べられそうですか?」と少女は言った。
「ありがとう。大丈夫、自分で食べられるよ」と僕は言って、丸テーブルに向って座布団の上に腰かけた。
しかし、手に持ったレンゲが思いのほか重く感じて、思わず手元から滑り落ちてしまった。拾おうとしてテーブルの端に頭をぶつけた。頭痛はほとんど収まっていたのだが、その衝撃で、まるで余震みたいに一度頭が大きく痛んだ。僕は思わず顔をしかめた。
少女はクスクスと笑った。「見かけ以上に弱っているみたいですね。仕方がないので、私が食べさせてあげます」と少女は言った。
少女はレンゲを拾って服の袖で軽く拭った後、おかゆを掬って、ふーふーと息を吹きかけて、僕に食べさせてくれた。これではまるで、お母さんに看病されている子どもみたいだな、と僕は情けなくなった。促されるままに僕は口を開け、おかゆをほとんど噛まずに飲みこんだ。

そして年が明けた。冬も終わり、季節は春になるところだった。僕は煙草屋の店先に立ち、店番をしていた。ここのところ、ほのかに暖かい日が続いている。春の日差しはどこまでも清らかで、店の隣に咲いている桜の花びらが、ときおり風に吹かれ、店内に舞い込んできた。とても穏やかな午後だった。

少女の母親が裏から顔を出して言った。
「私の代わりに店番をしてもらっていて、ごめんね。とても助かるわ」
とんでもない、と僕は思った。僕はけっきょく、ズルズルともう3か月ほど、この煙草屋に住まわせてもらっていた。少女の母親はこの冬の間、ほとんどの時間を寝て過ごしていた。もともと体の弱い人なのだが、今年の冬はとくに冷え込んだ。僕と少女は、代わりばんこに店番と少女の母親の看病をして過ごしていた。

そこへ、学校終わりの少女が帰ってきた。腕の中には、小さな灰色の猫を抱えていた。
「お仕事ちゃんとさぼらずにやれてたの?」と少女は僕に尋ねた。
「うん、今日はたくさんお客さんが来たよ」と僕は言った。
「それより、その猫はどうしたの? まだ小さいように見える」と僕は言った。
「学校からの帰り道で、この子が道の端でうずくまっているのを見つけたの。まだとても小さい。それに風邪をひいてるのかな。見て、顔がベチャベチャだよ」

たしかにその子猫は、まだ生まれたばかりなのではないかというほど、小さかった。僕の片方のてのひらの上にだって乗りそうだ。それに涙と鼻水で汚れてひどい顔をしている。

「お母さん、この子に飲ませられるミルクかなにかあったっけ?」と少女は母親に言った。
母親は台所からミルクを注いだ小さな食器を持って戻ってきた。

僕たちは、店内でその小さな猫にミルクを飲ませた。猫はミルクの匂いを嗅いで様子を伺ったあと、ぺちゃぺちゃと音を立てて、ミルクを飲んだ。飲んだというか、その小さな舌でミルクを器用に掬いとっていた。お腹が空いていたのだろう、食器に顔を突っ込んでミルクを必死に飲んでいる姿は、ひどく愛らしく思えた。ふと顔を上げると、少女と母親は、本当に優しい顔をして、その一匹の小さな猫のことを飽きることなく眺めていた。猫がミルクを飲み終わった後、少女は紙で猫の顔を綺麗に拭ってやった。猫は、濁りのない青い眼をしていた。

少女と店番を入れ替わった僕は、ペットショップに行って、子猫用のキャットフードと猫缶を買ってきた。それから、輪っかのついた小さな青色のリボンも買った。これをあの子猫につけたら似合うのではないか、と思ったのだ。それから道すがら、花屋によって一輪挿しようのガーベラの花を買い求めて、帰路についた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?