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とある晩

ある夜、僕はそろそろ寝ようかと思い、心療内科で処方されている精神薬と睡眠薬を一錠ずつ水で飲んで、それから追加でウイスキーを瓶から一口だけ口に含んで、そして歯を磨いて、布団に潜った。

今日はどんな一日だったろうか?思い出すまでもない。僕はいつも通り、終日家に篭って、壁を背もたれにして、死について考えたり、死んだ後の世界について考えたりして一日を過ごしていた。空腹はほとんど感じなかった。だけど、儀礼として、バナナを2本齧った。精神薬の副作用で代謝異常を起こしているのか、それほど大幅に体重が減少するということもなく、とはいえこんな生活を続けていれば、いつかは身体を壊してしまうかもしれない。

知ったことじゃない、と思った。
自分の健康のことなんて、他人事のようにしか思えなかった。

ふいに、玄関の扉の鍵を開ける音がした。そして、誰かが部屋に入ってきた。いや、その人物が誰であるかを、僕は知っている。

羊女は、パジャマ姿で、まるで自分の部屋に帰ってきたときみたいに、さも当然のように僕の布団の中に潜ってきた。

「今日も来たんだね」と僕。
「うん。あなたはきっと、今日も一人では眠れないだろうと思ったので、来てあげた」
羊女は淡々とした口調で答える。

羊女は、近頃、だいたい毎日僕が寝る時間になると、僕の部屋へやってくる。いつしか、羊女の枕も用意しておくようになった。

「もう睡眠薬は飲んだの?」と羊女が、僕に背を向けて尋ねた。
「うん。飲んだよ。」

しばらく無言の時間が過ぎた。

羊女は、どうして毎晩僕の部屋にやってくるのだろう? まさか、本当に僕が一人で眠れないと思って心配してわざわざやってきてくれるのだろうか? どうして? もしそうだとしたら、どうして僕なんかのことを気にかけてくれるのだろう? ちなみに羊女は、僕の住むマンションの隣の部屋で暮らしている。

とあるきっかけがあって、気がついたら、いくらかは親密な関係になっていた。

ふいに、僕は強い憂鬱感に襲われた。
予期せぬ雨に打たれたときみたいに。

「羊女。今日もきてくれてありがとう。だけど、僕なんかのことは放っておいたほうがいいと思う。僕はそれで構わない。僕なんかにかまっている時間はもったいないし、それになにか、それがなにかはわからないけれど、とにかく羊女が僕と接することで、僕は羊女のなにかを奪っているような、そんな気がするんだ」
羊女は、特に意に介さず応える。
「ふーん。私はあなたに、何か奪われてるんだ。そうなんだ」
僕は説明を付け加える。
「そのなにかが、具体的になんなのかは僕にもわからない。だけど、僕は羊女に限らず、あらゆる人間から何かを奪い、それを糧にして生きている、その結果、僕と接するあらゆる人たちはなにか、そうだな、なにかしらの損をしているんじゃないか、そんな気がするんだ。つまり、僕はいつも誰かに迷惑をかけながら生きている。そんな気がする」
羊女はわがままを言う子どもをあやすときみたいな口調で言った。
「被害妄想お疲れ様。疲れてるんだね。あんまり考えるのはやめて、さっさと寝ちゃおうよ」

僕の考えていることは、果たして本当に被害妄想なんだろうか? というか、これは加害妄想なのではないか? いや、どうだろう。よくわからない。自分でも、自分は、考えすぎる癖があるような気はしている。それに具体的に、あらゆる人から僕が何を奪って、どんな迷惑をかけているのかは、やはりわからない。ただ、自分がどうしようもなく、この社会の中で迷惑で、悪しき存在のように思えてくる。
もし、そうだとしても、そうじゃないとしても、羊女が僕のことを気遣って、こうして一緒に寝てくれているということに、僕は実際のところ救われていた。いや、正直かなり救われていた。具体的にどのように救われているのか?それはわからないけど、羊女はもしかしたら、僕にとって聖女のような存在なのかもしれない。ふと、そう思った。

「羊女。もう寝た?」僕は小さな声で尋ねてみた。
「まだ寝てないよ。まだとくに眠たくもないんだ」
「そっか。今思ったんだけどさ。もしかしたら、羊女は、僕にとって神聖な、例えば神様みたいな存在なのかもしれない。なんか、そんな気がしてきた」
「そう。それはよかったね。」
羊女は、とくに嬉しくもなさそうな声で答えた。

やっぱり、僕は、惨めで恥ずかしくて、生きている限り全世界に迷惑をかけ続けるような、そんな鬱陶しい人間な気がする。いや、しかし僕が具体的に誰にどんな迷惑をかけただろうか? 自分が具体的に誰かを困らせる場面も、とくには想像はできない。というか、僕はほとんど毎日、部屋にこもって、たまに果物とかサラダを齧って虚無の霧に覆われながら壁を背にして、ほとんどの時間を死について考えながら生きているだけの、無害な生き物なんじゃないか? 僕が何をしたっていうんだ? だけど、やっぱり僕は生きていてはいけない人間なんだ。いや、わからない。僕が生きていてはいけないという、その論理的な根拠については、これといって思い浮かばない。所詮、ただ自分を無条件に否定したいだけの、その程度の知能のゴミ野郎なんだろうか。うーん。

飽きることなく、反芻思考に耽っていた。
気がついたら、羊女は僕の隣で、小さく寝息を立てて眠っていた。

僕の隣に神様が眠っている。神様? うん、神様だ。不思議だな。僕は今、神様と一緒にベッドに横になっているんだ。そう考えたら、今この瞬間は、けっこう、いや、かなり幸福な瞬間だと言えるのではないか? 神様と一緒に寝ているってなんなんだ。いや、羊女はただの羊女だろう。少しずつ意識に靄がかかっていった。

目が覚めたら朝だった。カーテンの隙間から陽光がさして、ちょうど光が僕の顔に当たっていた。

羊女はいなくなっていた。僕より早く目が覚めて、自分の部屋に戻っていったのだろう。
なにか、不思議で愉快な夢を見た気もするけれど、内容はこれといって思い出せなかった。
なにか遊園地に関係していたような? 不思議で愉快な夢の後味だけが、ただ口の中にぼんやりと残っていた。

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