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大学5年目、旅に出る前に思うこと。

春の睡魔に誘われて夕食後にお昼寝したから、こんな時間に目が冴えて布団の中でうねうねしている。
車のラジオから「3月も終わり」「新生活」「新学期」って何回も聞いたので、滑り込みで3月も書く。


今年は休学して旅をする。
穏やかに、それでいて刺激的な生活をするつもり。

幸いわたしのまわりにはおもしろいルートを辿る人も多く、休学することに抵抗はなかった。それでいてわたしも休学経験者。ゆるく楽に生きてみる期間があってもいいだろうな、そう信じていた。わたしはわたしの人生を歩めばいいんだから、と。


友人のインスタから、卒論追い込み期のストーリーズが流れてくる。卒論発表、最後のゼミ、卒業旅行、バイト卒業、引っ越し、スーツと袴、そしてついに目にした「明日から社会人」の文字。
みんな卒論書く時期なのかすごいな、なんて悠長に思っていたけれど、社会人になるはずだったことを突きつけられたとき、わたしは当たり前のこともできないダメなやつなんだ、とか考えてしまった。当たり前にとらわれたくない〜、なんて思ってたくせに。

「社会人」になれる気がしない。働いて、お金を稼いで、家事をして、生活をして。生きているだけでお金がかかる。その責任をひとりで引き受けられる気がしない。
自分の選択にまだ負い目を感じているから、その分自分でなんとかしろよ、と思う。けれど自分で生きていく責任があまりにも重すぎて、まわりを見るたびにそいつは密度を増して、わたしは背負いきれずにふらふらとしている。


1度目の休学は大学に行けなくなっちゃって、休んでみるか、と決めた。大してなにもしてなくてゆるゆると過ごした半年だったけれど、そこに罪悪感は持たなかった。
けれど今回はなんかちがう、とそわそわしている。休学に至った経緯は似ている。けれどこれからは、まだ学生気分で浮かれてる奴になってしまうのだな、と思う。わたしは「大学生(休学中)」という肩書きになんとか生かされている。チートで課金して肩書きの有効期限を延ばしてる、みたいな。それも親に出してもらったお金で。無くなったらどうなっちゃうんだろう、とこわい。

親はわたしの休学をあまり良くは思っていないみたい。仕方ないから、と思われてるんだろうな。過剰に反応されるから、卒業とか就職とか、そういうワードは出さないようにしている。


わたしはこれまで住んだ家を一旦退去して、2週間ほど実家でぬくぬくと過ごしている。3食きちんと出てくるから、今日食べることしかしてないな、と毎日思う。
実家は精神的にキツくてすぐにイライラするけれど、生活はやさしい。頼りたくないのに頼ってしまっている。


旅に出たら、自分の生活はどうやって保っていくのだろうか。お金の不安ばかりがぐるぐると飛び交う。
旅と言ってもひとつの場所に1,2ヶ月とか滞在するし、暮らしの拠点が移動するくらいの感覚なんだけど、だからこそお金に困る。
以前短期のバイトを探したこともあるけれど、想像以上に見つけるのは難しい。いざ面接に行くと期間を理由に断られる。リゾートバイトみたいな働き方で一気に稼いでしまえば楽だろうなとも思うけど、いまのわたしには全力のエネルギーを使って働ける気がしない。稼げるだけのスキルを身につけておけば良かったなとか今更ながら考えて、根本的な解決にはならないのに、馬鹿だよなとか思う。

カウンセラーの先生は、生活のためにお金出してもらって当たり前だよ、と言う。いまは休むことが大事だと。
けれど、お金を出して“あげている”ことを理由にわたしの自由が奪われるのが嫌で、そこに頼りたくない、と思う。父から以前、キレた勢いで「何のために大学行かせてやったと思っとるんか!!!」と怒鳴られた記憶がいまだに消えない。どこまでが本心だったのかはわからない。


旅をすることは、休むこと+αの遊びだと思われそう。自分でも、どこまでがわたしに必要な「休むこと」でどこからがそうでないのか、わからなくなっている。休学を決めて春休みに入ってから徐々に気持ちは回復してきて、いまは元気じゃないか、とわたし自身は感じている。ほんとに休む必要なんかあったのかな、いま大学に戻ったら普通に行けちゃうんじゃないか、ただやりたいことのためだけの休学になるんじゃないか、とか。やりたいことのための休学となればそれだけ抱える責任は重くなるから、できれば休むための休学でいたいな、なんてぬるいこと考えてる。


とはいえ、旅をすることはとっても楽しみにしている。あたらしい暮らしの中で、わたしに蓄積し醸成されたものはやがてどうなるのか。想像が広がる。

とりあえずは満開になる桜を見届けるため、ちょっとだけ好きになりつつある地元を、毎日お散歩してもうしばらく生きることにする。

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