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社会学的なものの見方、あるいは子どもの名前のつけ方について

「未来にバックする」(バック・トゥ・ザ・フューチャー)

それを知ると、思わず人に伝えたくなる情報というものがある。

どういう情報を「思わず伝えたくなる」かは人それぞれだと思うのだけど、私の場合は「見方が変わる」情報というのがそれに当たる。

例えば「世界の辺境とハードボイルド室町時代」という、タイトルだけでは内容がさっぱりわからないが、読んでみると大変面白いという類の本に出会った時、「未来にバックする」という概念を知った。

日本語の「サキ」と「アト」には、時間概念における過去と未来のいずれにも適用できる意味が含まれているという。

なるほど私たちが「先々のことを考えて…」という時「サキ」は未来を指しているが、「先日」という時「サキ」は過去を指している。

そして実は世界の多くの文化において、これと同様の表現があるのだという。

なぜか?

勝俣鎮夫さんという歴史学者の論文によれば、中世までの人々は国を問わず「過去が自分の前(サキ)にあって、未来は自分の後ろ(アト)からやってくる」という認識を持っていたのだそうだ。

しかし、例えば日本では16世紀頃に「サキ」という言葉に「未来」、「アト」という言葉に「過去」という意味が加わったらしい。

それは、その時代に、人々が未来は制御可能なものだという自信を得て、「未来は目の前に広がっている」という、今の僕たちがもっているのと同じ認識をもつようになったからではないかと考えられるんです。
神がすべてを支配していた社会から、人間が経験と技術によって未来を切り開ける社会に移行したことで、自分たちは時間の流れにそって前に進んでいくという認識に変わったのかなと思います。
:【世界の辺境とハードボイルド室町時代】より

どうだろう、誰かに話したくならないだろうか?

私はこの本を読むまで、一度たりとも「未来が目の前に広がっている」という自身の感覚を疑ったことはなかった。

しかし私の身体感覚に根ざした、人間の生まれ持ったものだと思っていたその認識は、人類の歴史の中ではずいぶんと最近に生まれたものに過ぎなかったのだ。

自分の思い込みが壊され、言い訳しようのない新たなものの見方を示されるのは、自身のこれまでの歩みを否定されるという不安と、しかしそれによってこそ自身のアップデートがなされるという楽しさが背中合わせになっている。

さて、そんな私にとってネタの宝庫なのが、今回トライバルメディアハウスの社内勉強会「TPA」で課題となった「社会学」(と社会心理学)だ。



人間についての(鵺みたいな)学問、それが社会学

社会学とはなんだろうか?

社会学は、その名のとおり、社会についての学問ですが、これでは単なる言いかえであって、説明になっていません。わかりやすくいえば、世の中に起こる現象すべてについて、知的好奇心をもって探求する学問が社会学なのです。
:【社会学のエッセンス】より
「社会のことを知るために、社会学を学ぶ」という道が、実は迷路以外の何物でもないということを、あなたは本書を通じて知ることになるだろう。
~中略~
社会の現実は社会学の中にはなく、反対に社会の現実の中にこそ、社会学はあるのだということを、本書は教えてくれるはずである。
~中略~
覚えておくとよい。社会学という学問は、社会の姿を捉えた主張する、数多くの矛盾した、極めて精緻な研究の積み重ねであるということを。
:【本当にわかる社会学】より

わかったようなわからないような定義だったので「社会学とは」と検索してみると、1ページ目の記事に載っている説明が全部違う…みんな違ってみんないい、ということだろうか。

社会学というのは、私が面白いなと思っていた学生時代から20年以上こんな感じで、面白いアウトプットが色々出てくるけど、なにが社会学でなにが社会学じゃないのかはいまだにわからない。

しかし、とてもざっくりと最大公約数的に括ってしまうなら、「人と人との関係性と、それが生み出すこの世界への影響」について研究する学問であるような気がする。

社会的動物としてのヒト、つまり「人間」についての学問なのだと、私は勝手に理解している。

なぜ社会学はネタの宝庫なのか?と言えば、それは私たちが人間だからだ。自分のことはわかっているつもりになるし、自分たちのこともわかっているつもりになっている。
だから、そこに学問のメスが入った時、私たちにとって普段見慣れた風景が違う意味を持っていたことに気付く面白さが生まれるのだろう。

個人的に今回社会学の課題図書たちを読んでいて思い出したのは、昔読んで気になっていたままだった「名前」の話だ。



日米の子供の名前の付け方は違うのか(名前の社会学!?)

面白い本なのに、まさかの書影なし……

念のためお伝えすると、「女の子が生まれたら”子”のつく名前を付けると頭が良くなります」というような話ではまったく無い。

人間の名前は生まれてすぐに決定される。子どもにどのような名前をつけるのかは、それぞれの家庭でまったくの自由だ。そして多くの人は生涯ただひとつの名前だけを使う(名前は戸籍上に”凍結”されるからだ)。つまり、名前というものは、誕生当時の誕生当時の家庭環境をほぼ完全に保存している。
~中略~
子どもの名前は保護者の思考のみを忠実に記録し保存している。このことから、名前を調査することで、本人の思考や学校の影響を除外して家庭環境だけを純粋に抽出し判断することができるのだ。
:【”子”のつく名前の女の子は頭がいい】より

著者の金原克範さんは、女性集団における”子”のつく名前の比率を「保守的に命名された個体の比率=Conservatively Named rate(CNrate)」と名付け、戦後~1970年代の紅白歌合戦出場歌手とその年度の新生女児のCNrateの推移を比較することで、テレビの普及が親たちの価値観に与えた影響の立証を試みている。

そして確かにグラフにおいて、紅白歌合戦出場歌手に見られるCNrateの低下は約5年のタイムラグをもって新生女児のCNrateと相関しているように見える。

(ちなみにこのCNrateの高さによって分類されたグループ同士の比較では、学歴・体型・虫歯の多さなど多くのファクターにおいて明確な差異が出た。CNrateが低い、つまりテレビの影響を大きく受けている親の子どもたちはCNrateの高い子どもたちに比べて学歴が低く、体型が標準から乖離し、虫歯が多かったという……)

一方で、アメリカにおいても同様に名前に焦点を当てた調査が行われていた。

こちらでは、カリフォルニア州で1961年以降に生まれた子供全員の出生証明書データ1,600万件を黒人/白人、所得、教育水準などの軸で分析している。

これによって何がわかったのかというと

ここにははっきりしたパターンがある-----高所得・高学歴の親の間ではやった名前が社会・経済のはしごを下へ伝っていく。
~中略~
ステファニーやブリタニーという名前の赤ん坊がはしごの上のほうに1人いれば、10年以内にそういう名前の女の子がはしごの下に5人生まれる。
~中略~
名前のはやりはセレブが元になってると思ってる人は多いけれど、セレブたちが赤ん坊の名前に与える影響は実はあんまり強くない。
~中略~
というわけで、名づけゲームを動かしているのは有名人じゃない。ほんの数ブロック向こうのご家族、家が大きくて車が新しいおうちを見て動くものなのだ。
:【ヤバい経済学】より

日米の子供の名前の付け方における共通点
●人気の名前は社会階層によってグルーピングされている

相違点
●日本は社会階層の高低とテレビの影響力が相関している
●アメリカでは社会階層の高いところで人気の名前が階層の低いところに徐々に移っていく(テレビで人気のセレブはあまり影響を与えない)

といったところだろうか。

この日米の相違がどのような理由によって発生しているのかは今の私に説明することは難しい。

ただ、これらの調査を踏まえて調べてみたいことを挙げるならば以下のような疑問が浮かぶ。

●20世紀日本の子どもの名前の付け方がテレビの影響を大きく受けたのなら、21世紀のYou Tubeを最も接触するメディアとして育った子どもが大人になった時に名付けに影響を与えるのはYouTuberになっているのだろうか?

●20世紀アメリカで人気の名前がマスメディアを経由せずに社会階層を伝っていっていたのなら、格差の拡大と社会の分断が進む21世紀の子どもの名付け方が、変わらず社会階層を伝わり続けるということがあるだろうか?

もちろん、社会学の研究の中には、社会の一片を見事に捉えたものもある。とはいえ、それが社会のすべてではないことは間違いないし、そうした片鱗を集めれば、社会の全体がわかるというものでもない。なぜなら、社会は一時も止まってはいないからだ。
:【本当にわかる社会学】より

そう、こんな面白い研究がおこなわれ輝かしい成果が出たとしても、研究対象である社会自体が、人間自体が変わり続けているのだ。

社会学はつくづく退屈しなそうな学問である。

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