タイバニ構造論追試:もしかしてお前、最高のヒーローになるまでの物語か……?

※注意事項
 今回の記事は前回強調した『タイバニ味のタイバニ』を破壊しようとする記事です。タイバニをよりヒロイックな、ヒーロー物の王道に近い形として解釈しようとする試みですので、嫌な予感がする方は自衛をお願い出来たらと思います。よろしくお願いします。

 えー、まず謝罪と感謝を。前回の論文はぶっちゃけ不完全でした。たくさんの人に読んでいただきありがとうございます。有間です。
 今回はミニ版(と言いつつそれなりに長くなりそう)の、前回のタイバニを脚本から分析してみた記事の補稿兼自己追試となります。ミニ版のため文字オンリーですがご容赦ください。また、前回の記事とご一緒にお読みください。


1,前回の記事の不備


 これについては、実は前回の記事内でも既に触れているのですが、一点。〆の奇跡論については不備があります。それは、最終話に虎徹が死んでいない現象を奇跡ではないと言い切れない事です。
 前回の論では、あのリアリティレベルの高さはただ一点の最後の奇跡を強調するためにあったという結論を出しました。しかしあの論は、起きた奇跡が一点のみでなければ反証されてしまいます。その点において、私はどうしても奇跡が一点であると言い切る事が内心では出来ませんでした。最終話の虎徹は奇跡ではないのか? この疑問に、私は結局答えないままに、見ないふりをして結論を出したのです。
 しかし私は今日、この虎徹の生存も奇跡であるという仮定を前提とすると見えてくる、タイバニという物語の別の構造に気付きました。というか、元々疑惑としてそうではないかと考えていたものに対し、多少の説得力を持たせられそうな解釈を見つけました。
 この論は正直、リアリティレベルの高さについて共感していただいた方には、少し同意しにくい論かもしれません。なので、まったく別の一解釈としてお読みいただけると幸いです。


2,タイバニは、みんなが最高のヒーローになるまでの物語であるのかもしれない


 最高のヒーローになるまでの物語、というのは僕のヒーローアカデミア作中で語られるコンセプトです。リアリティレベルの低い、奇跡は起こしてなんぼの王道ド直球のヒーロー物語。タイバニとは似て非なる、収斂進化の様相を呈する物語であると、私はそう考えていました。
 しかしもしかしたら、タイバニも同じコンセプトの元作られているのかも
しれないというのが、私の新しい仮説です。

※流石にこれがないと記事の意図が通じないと見直して思ったので追記(9/30)
 まず前提として、私はタイバニという物語は一般的なヒーロー物ではないと思っていました。これについては前回の記事で詳しくお話していますが、タイバニ味と表現したリアリティレベルの高さはヒーロー物というよりもヒューマンドラマ的であり、ジャンルとしては『ヒーローショードキュメンタリー』のようなものと言った方が正しいと思っていたのです。基本的に、タイバニは王道ヒーロー物の作りはしていないと。
 仮にヒーロー物として見ても、サム・ライミ版『スパイダーマン』的なヒーローになる話ではなく、どちらかと言えばMCU『ブラックパンサー』的なヒーローの悲哀の話であると思っていたのです。
 しかし今回の仮説からすると、このタイバニという物語はもちろんタイバニ味のヒューマンドラマ仕立てであるのは間違いないが、根幹にある構造は案外王道なヒーロー物であるような気がしてきたのです。

 そう考えるに至ったのは、前述した虎徹の生存を奇跡として描いている可能性からでした。

 虎徹の生存が奇跡であった場合、つまりタイバニ味でない展開である場合、作中には二点の奇跡が起こっている事となります。これは困りました。前回の記事が紙くずになってしまいます。
 しかし、ここで『虎徹の生存を製作者側は奇跡の一部として描いている』という前提から考えると、この『ヒーローになる物語』という構造が見えてくるのです。

 一つ一つ、順序立てて話をしましょう。
 虎徹の生存と、バーナビーが記憶を取り戻す事。奇跡が唯一でないのなら、わざわざ奇跡をこの二つに絞る必要はないと私は考えました。
 リアリティレベルが低下したのは、なにもこの二つのシーンだけではない。むしろ、バーナビーVS虎徹をトリガーとして、物語そのもののリアリティレベルが下がったのではないか。もっと言うのなら、物語のジャンルそのものが切り替わったのではないか?

 例えば、『ヒーローショードキュメンタリー』から『ヒーロー物』に切り替わったのではないか?

 正直かなり論理が飛躍していると思いますが、実はこういう構造をした、しかも大ヒットした物語が存在します。
 おそらく皆さんも名前はご存じ『シンゴジラ』です。
 シンゴジラは、後半急激にリアリティレベルが下がる事で有名です。それはなぜかと言うと、物語のジャンルが途中で『怪獣に襲われた日本を舞台とした政治映画』から『古典怪獣映画』に切り替わるからです。
 これと同じ事が、タイバニの最終話付近で起きているのではないかと私は思います。
 なぜなら、タイバニ23話のバーナビーVS虎徹以降、事件解決の最後の一押しまで『TVカメラが存在しない』んです。


3,ヒーローとは何か


 タイバニという物語におけるヒーローというのは、TVショーの演者でもあるという話は前回の記事でもしています。
 彼らは職業ヒーローであり、ある種メタ的な『ヒーローアニメ』に近しい『ヒーローショー』を演出する存在であると。
 もちろん彼らは市民の安全を守るヒーローでもありますが、ヒーローTV側は時に市民の安全より取れ高を優先するような指示を出しますし、それこそヒロアカやアメコミ映画で出てくるような生粋のヒーローとは違う存在です。
 そう考えると、一つの疑問が出てきます。カメラが存在しない場面においての彼らは、果たしてヒーローなのでしょうか?
 虎徹やスカイハイはヒーローだと言えるでしょう。一話目からカメラよりも市民の安全を優先した虎徹。夜のパトロールを欠かさないスカイハイ。作中描写でも、彼らはヒーローです。
 しかし、例えば初期のバーナビーは? ブルーローズは?
 ブルーローズは作中でもわかりやすく『ヒーローになる物語』をやったキャラクターでした。それでもやはり彼らのヒーロー性というのはある程度カメラによって担保されているのではないかと思うのです。
 そのカメラが、23話以降は存在しなくなります。なんなら彼らには、守るべき市民すら存在しなくなるのです。彼らの敵は、彼らのヒーローとしての価値を否定してくる相手です。彼らは『お前達はもうヒーローではない』と言ってくる相手と戦うのです。
 その戦いに勝つという意味はなにか?
 それはつまり、彼ら自身のヒーローとしての矜持、価値の証明です。

 作中においては、実は序盤からこの価値観で動いているキャラクターが存在します。おそらくもう気付いているかと思いますが、ルナティックです。
 彼は自分の行いをショーにされるのを嫌い、今のヒーローの正義を否定する。そのルナティックが、唯一虎徹の手助けをしている。お前の正義を証明してみろと言う。
 この出来事はつまり、アニメの最後の事件が『ショーではない、本物のヒーローである事を証明する物語』であると暗示していると、私は解釈します。

 物語の中にカメラが存在しなくなり、ショーではなく現実の中でヒーロー達は戦う事になる。その瞬間、虎徹とバーナビーが奇跡を起こし始める。
 ヒーロー達は仲間を信じ、信頼、絆という武器で敵の思惑を超える。それにバディも応える。

 TVショーというメタ構造が取り払われた時、彼らは本当のヒーローになり、ヒーロー物語が始まった。

 あれは、そういう構造だったのかもしれない。
 これが今回の私の結論となります。


4,映画、二期に向けて


 本当はこの論は、映画と二期を見終わってから書く予定でした。
 なぜならこういった根幹的な構造は、続編に踏襲される事が多いからです。
 今の私はまだ映画も二期も見ていません。しかし、仮に映画も二期もそういった構造として見る事が出来るのなら、一期もそういう構造を意識して作られたと言えるのではないか。この論の出発点はそこでした。

 なので、今のこの記事は、一種の私の未来予測です。
 ライジング、そしてまだ存在すらしない二期後半。私がまだ知らないタイバニの物語。
 それは果たしてどんな物語なのでしょうか。今から非常に楽しみです。外れてたら盛大に笑ってやってください。よろしくお願いします。

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