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プロローグ


多治見修道院地下1階 ワイン貯蔵部屋前通路(昼)

Note在住の歴戦のみなさま初めまして。
私は愛知県春日井市(自宅・自畑)及び小牧市(職場)でワイン用のぶどうを栽培する事を生業にしている知的・精神の複合障害を生まれつき持つ「ゆうき」と申します。現在は小牧ワイナリーにして年間1.2tほど収穫可能な15aほどの畑を1人で担当しています(農薬散布は除く)
どうにか一般の高校までは卒業したものの、その後少し演劇をかじって精神病がひどくなり監獄のような病棟に強制入院させられたのちにちゃんと仕事をしてお金を稼ぎたいと思うようになったので半分合法麻薬などの精神薬などを禁断症状で苦しみながらも脱し、2007年(当時22歳)よりAJU自立の家という団体のピア名古屋でワイン用ブドウ栽培する仕事を始めました。仕事とは言いますが就労支援B型なので通所扱いになり、工賃は時給42円からのスタートでした。当時面接をした前会長は「15年後には15万円の工賃がもらえるようになるよ!」という話をしてもらい、それならと身を挺して働くつもりで通所を始めました。

昨今の値上がり前の昔でもそれなりの値段で売られていたので普段は手が出しにくかったぶどうというフルーツに触れ、仕事中につまみ食いしまくった結果、歯のエナメル質が溶けて歯医者さんに怒られたのが1年目のいい思い出です。
当時は栽培・醸造などは岐阜県多治見市にある多治見修道院の敷地及び地下1階(現在は老朽化のため閉鎖)で行っていました。自分が通所を始めた頃は中度知的障害の人達が8人ほどおり自分が9人目のメンバーでした。
当時の畑の広さは1.2ヘクタールほどだったと思います。
修道院が建設されたのが約92年前(1930年)その当時から新潟県の岩の原葡萄園から譲り受けたブドウ品種を用いてワイン醸造が行われていたらしいのですが管理者の知識が悪かったのかとても品質のいいブドウが作られていたとは言えない環境でした。当然ぶどうが悪ければワインも劣悪な物となり、建設当時から周辺に住んでいた方の話を聞く限りでは「とても飲めた物ではない」という言葉が冗談なしで何人もの方から聞く事ができました。
そんな劣悪なワインも自分の師匠が1992年頃に栽培にかかわるようになった頃からだいぶ改善され、ワインフェスタという収穫祭を行えるくらいの品質になったそうです。それに関しては近所の方はすごく喜んでいました。
ただ・・・、そんなエピソードを聞いていたので1年目の収穫の際に飲みたいと思っていたコールドプレス生絞りジュースに壮大な期待を抱いていた当時の自分に襲い掛かったのは痛い経験でした。初めて飲ませてもらった白ぶどうジュース。200mlカップいっぱいに入ったジュースを飲んだ瞬間こそすっぱく甘~い!と思ったのもつかの間。その直後に襲いかかる強烈なエグ味。渋みではなくエグい。師匠の前で「不味い」と言うわけにもいかず顔は笑顔で「おいしい!」って言ってたような気がします。が、飲んで1時間ほどするとお腹の様子がおかしくなり、帰宅後のその夜、ひどい腹痛と共に深夜病棟に駆け込む事態となりました。今思うと亜硫酸塩である程度殺菌されるとは言え栽培技術がよくなかったあの頃は腐敗果や病気に感染した粒を取り除くという考え自体がなく、さらにいうと受粉後の結実した後のカス(未受粉の味蕾)取りもする考えがありませんでした。収穫したぶどうはそんなカスなども含めてすべて破砕機にかけていたので当然殺菌もしていないジュースは普通は飲んでいいものではありませんでした。というのも数年後にわかった話なのですが当時はよくわかっていないので、この数日後の赤(黒)ぶどう収穫の後のジュースも飲んでやっぱり同じように深夜病棟に駆け込む事になりました。腹痛の原因がわかって以来は自分の担当するぶどうでこんなひどいブドウは作るまいと心に誓い、少ない工賃でできる範囲で自費で研究・改良をしながら仕事を続けていきました。
修道院地下は昼でも暗くて怖かったですねぇ。
全面天然酵母でびっしり埋め尽くされた真っ黒な部屋もありましたので夜入った時は小便漏らすかと思いました。

※ その後8年分を書くと1万文字超えそうなので端折ります。

なんやかんやあって2015年4月に現在の職場である小牧ワイナリーが愛知県小牧市野口という地域にオープンし、自分が受け持っていた多治見修道院の畑は基本的に若い人が担当する事になり、長年いた仕事のできるメンバーは小牧側の畑を開墾作業をしつつ担当する流れになりました。
オープン2年目以降は各自担当する畑が設定され、ワンオペレーションを強要されているのは自分だけですが、他メンバーも基本2~3人で1つの畑を担当という感じで配備され栽培を行っています。

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