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立誠小学校「おもいでのよせがき」

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元・立誠小学校では、小学校跡地活用プロジェクトとして、立誠・文化のまちプロジェクト〜立誠・文化のまち運営委員会を組織し、芸術・文化発信の場として活動を続けて参りましたが、ここで現… もっと読む
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2018年1月の記事一覧

遠藤 絢子(京都精華大学卒業生)

立誠小学校に毎年通うようになったのは京都精華大学の4回生の頃、教授に夏祭りのお手伝いを頼まれたのがきっかけでした。初めての事で戸惑ってはいたもののあまりの盛況でとても楽しく、そんな事は忘れていました。「また来年も手伝いにきてくれ」と言ってもらった時、自分を必要としてくれた事がすごく嬉しかったです。地元に帰ってしまってからも立誠のお祭りを毎年お手伝いに行くようになり、それが私の生きがいになりました。私は立誠のお祭りを通じて色んな人と知り合いました。そしてとても大事な人達に出会わ

杉原 邦生(演出家、舞台美術家/KUNIO)

文化施設としての元・立誠小学校しか知らない僕にも、たくさんの思い出があります。演劇やダンスや映画を観に行ったり、稽古場として利用したり、演劇公演や演劇イベントをやったり。どの思い出も、素敵にジメッと寂れたあの校舎の面影とともに、鮮明に残っています。新しい「元・立誠小学校」の姿、超楽しみにしています!

大西 結衣(動物福祉活動Pawer.)

最初は観光気分で伺いました。京都ならではのお寺やお祭りとは違うジャンル、「学校」。その空間は、昔は生徒たちに、そして今は来校したすべての人に、何かを感じさせる場として存在している気がします。その「空間」が時や文化とともに変わりゆく中で、ご縁あって保護犬・保護猫にまつわる情報誌や絵本を、校内に置いていただいたことがありました。全く違う目的で来校された方が、たまたま置いてあった保護猫の絵本を読む…。何かがきっかけで元・立誠小学校と交わった人や文化、歴史との出会いも、そんな偶然から

谷口 正晃(映画監督)

校舎に一歩踏み入れると、ただならぬ「気配」を感じます。誰か懐かしい人に会ったときのような温もりと、背筋にゾクッとくるような冷んやりとしたもの。小学生のときの6年間も、最近になって映画の撮影や上映、ワークショップをさせてもらったときも、「気配」の濃密さだけは変わらない。戦前から幾多の人がここで出会い、学び、交わった時間の堆積が、廊下や柱や壁や手すりに染み込んで発酵しているのかもしれない。リニューアルしたあとも、そんな「気配」が漂う場所であり続けてほしいと、切に願います。こればっ

濱中 依子(studio2065代表)

京都で生まれ育った私にとって、幼い頃から目にしていた立誠小学校は、独特の空気感を纏って魅力的な建物だと思いつつも安易には近づけないイメージでした。立誠小学校の中に初めて足を踏み入れたのはごく最近のことです。きっかけは1階のTRAVELING COFFEEさん。それから何度もコーヒーを飲みに伺ったり、イベントに参加したり、立誠シネマで映画を観たり。一見入りにくいようで実はとてもオープンで親しみやすく、知れば知るほど奥深い。まるで京都そのものの縮図。これからも地元の人、観光の人、

にしかわ あおい(梅園)

私は立誠小学校の出身ではないけれど、母とその姉妹、弟の全員が立誠小学校の出身でした。「ふるどうぐ市」や「山滴る、甘党市」などの校舎を利用したイベントに参加したりするときも、「母の通った校舎なのか」と思うと、通っていたわけでもないのに懐かしい気持ちになりました。私の立誠小学校での思い出は、甘党市の前日に蒸し暑い校舎のトイレをみんなで大掃除したこと。「母を育んでくれて、私まで受け入れてくれてありがとう。おかげで思い出を共有出来たような気持ちになりました」古い物言わぬ校舎に、何が出

無記名

母が通っていた学校です。生前は「あるな」って感じだったので「母の通っていた所」という意識でした。亡くなって、30年以上も時が経ち、母が居てた家の場所も、私の中では消えてしまいました。その場所(ここ、立誠小学校)が変わると聞き、私の心の大切なものがなくなってしまうように感じています。卒業写真が飾られていて12歳だった母を発見した時の嬉しさはなんとも表現しがたいものでした。もう卒業写真を見る事ができず、一つ一つ失っていく感覚でいます。もっと早くから来れば良かったと思い書いています

大歳 倫弘(ヨーロッパ企画)

2009年、普通の教室だった場所を使って無理言ってお芝居をやらせていただきました。そして「もう一回」「あと、もう一回」と回数を重ねていくうちに、機材も用意してくださり、ほかの劇団も使用する素敵な演劇スペースとなっていきました。ですから勝手だけど、もともと森だった場所を開墾したら、そこに様々な人がベンチや遊具を持ってきてくれて、立派な公園にしてくれた、という印象を持ってます。だからたまたま立誠小学校の近くを歩いてて、演劇をやってたりするとすごく嬉しくて。これからまだまだたくさん

さとうひさゑ(NPO法人アート・プランまぜまぜ)

元立誠小学校に出会ったのは90年代中頃でした。「芸術計画ZA」という展覧会に参加したのがきっかけです。反省会で作家が場所の記憶とどう向き合うか、ということが議論されたのを印象深く覚えています。 その後、NPO法人を立ち上げ、まなびやなどで、企画を何回か担当しました。中でも思い出深いのは05年に開催したシンポジウム「木屋町高瀬川のこれから」での話題が市に届き、「学校施設としての再活用」が決まったことです。これにより風俗店の出店に歯止めがかかりました。微力ながらまちづくりに貢献で

藤本 和也(α-STATION FM京都)

京都人は子どものころから市内繫華街にでかけることを「まちへ行く」といいます。四条木屋町にある『立誠』は他学校区の私にとって、まさにあこがれの「まち」の学校、そして中高の同級生の母校としてしか 馴染みがありませんでした。その後『元・立誠』となり、みんなが集う文化の学び舎、京都の学び舎となり 自分の母校のようにさえ思うようになりました。ちょっとの間、休校されるのはさびしいですが、『元・元立誠」に復学できるのを楽しみにしております。すこし形は変わっても みんなの心の中にこそ「学び舎

徳田 正樹(SONGBIRD DESIGN STORE.)

京都で生まれ育ったので、昔から「この小学校はすごい場所(京都のど真ん中)にあるなぁ」と思っていました。大人になって、そこで出店者としてイベント(ENJOY COFFEE TIME)に参加させて頂いた時は、素直に感動したのを覚えています。運営の方の様々な努力や、そこで行われるイベントによって、まさに場所が守られてきた印象なので、また形や役割を変えながら、同じ所に在り続けてくれる事が嬉しいです。これからもよろしくお願いします。

大塚 章寿(カフェ サラサ 代表)

enjoy coffee timeでお世話になりましたサラサです。当店と同時期にオープンした、タイムズビルがある当時の木屋町はディスコやカフェバー全盛の時代で、休みの日や仕事後によく遊びに行ってました。その時によく目にしていた立誠小学校が閉校で閉まっていて、カッコいい建物なのに勿体無いなあって、いつも思っていました。明治維新後の京都で士風士魂の町衆達の手によって番組小学校としてスタートしたっていうことはつい最近知りました。ものすごい勢いで学校が建設されていった明治の時代に想い

日永 貴子(シネマカレッジ京都 受講生)

立誠小学校は生きている。いつもそう思っていた。廊下の隅に貼ってある卒業写真の子ども達を見ていると、いつも背中に立誠小学校の温かい眼差しを感じた。私は立誠最晩年の約6年間、そこで開催されていた俳優ワークショップに通っていた。尊敬する監督と映画を創り立誠小学校の姿を映像に残す事も出来た。訓練中、何故だか戦争中の立誠小学校の気持ちになり涙した事もあった。講堂は寒い。音楽室は雨漏り。トイレは虫さんと共に。自彊室は畳のカスだらけになるけれど、そんな事はどーでもいい!という程、立誠小学校

石塚 就一(元・立誠シネマスタッフ)

僕にとって立誠小学校は「過去の場所」ではなく「現在を映す場所」でした。映画の上映スペースで働いていたきっかけで、他のイベントにも遊びに行かせてもらったのですが、どれも刺激的な内容でした。若い人たちが地元の先輩方と一緒に新しい楽しみを見つけていく様子はとてもスリリングだったと思います。シネマバトルにスタッフ参加させていただき、さまざまな才能ある方々とお話できたのも貴重な体験でした。やはり、歴史を重ねてきた場所には独特の「空気」が宿るのでしょう。校舎が別の建物に変わっても空気はず