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映画ごちそう企画の経緯。

独り言色の強いことを今から書こうと思います。
本離れなどと言われつつも、文字情報で溢れかえる昨今、誰の目に留まらずとも、書いておこうと思います。

まず、映画ごちそう企画とは?という感じなのですが
企画書(?)はこちらです。

単純に言えば、私が観に行くタイミングで、おすすめしたい映画をおごります、ていう話です。
ゴリッゴリの押し付け企画(自覚)。
グレゴリオ聖歌よりゴリゴリしておる。
問題は、なぜそこまでするのかです。
その説明はチラシ(?企画書?どっち?)に書ききれませんでしたが、その説明がないと気持ち悪いかなと思ったので、ここに書こうと思った次第です。

この話長いのかな、オチあるのかな、と不安にさせたらすみません。
 答え①長くないようにしたい
 答え②オチはない
不安になるくらいなら、読むのを辞めても何ら差し支えございません。
タイパ悪しです。

まず、私は映画が好きでした。
ん?急に過去形でどうした、という話なのですが、映画、好きだったんです。なんというか、その、なんだろう、他人の思考や指向や嗜好や試行や志向が詰まっていて…(しこうっていう言葉のバリエーションすごい)。
それに身一つで浸かったり、対峙したりする感覚と申しましょうか。
そういうのひっくるめて好きだったんです。

ですが、映画制作(製作)におけるハラスメントなどの問題が明るみに出るようになり、何も考えずに観て、ワーイ\( 'ω')/なってる自分の加害性を見たといいますか。
無知=無罪とは思わないですし。
いい歳してそりゃねぇだろ、と、自分に対して思います。むしろ自分だからこそ、知れ、と言わねばならない。
そして、素人なりに知ろうとしまくったのが、私の作ったサイトです。
よっぽど暇に飽かしたら見てください。
自分のために作ったものなので他の人が見ても楽しくないかと思うのですが、まぁ、でも、そうなんです。
誰のためのものなのか、誰のためのこと(制作/製作)なのか…映画。
ていうことなんです(?)。

で、無理矢理今回の話につなげると、私は『この映画だから』おごりたい。
『この作品だから』おごりたい。

うーん。ここからの説明が難しい。
チラシにも書いてあるように、単純に観てほしいからでもあるんですけど、それって私のエゴですよね。
でも、この作品に関しては、このエゴが大事だと思う、といいますか。
どっかで公式さんの目に留まって、盛り上がったらいいなぁとかそういうことすら望んではいけないような、ストイックなエゴさが、私に在り、そのエゴに従いたい。そのエゴを大切にしたい。

今回のこの映画、宣伝広告費をだいぶ削っているらしく。
これって、作品の存命を観る側に委ねられたというか、任されたのかなと思うのです。というか、私自身は勝手にそう解釈しました。実際はわかりません。
それって、なんというか、えーと、なんだろう。
こういったら怒られるかもしれませんが、それもある種のエゴなのかなぁと思います。
ただの観客(私)に、責任が、がっつりある。

エゴって、自分勝手というニュアンスが強いですけれども。
自分勝手であるって、責任が全部自分にあるので、けっこう…いや、かなりしんどいです。他人が押し付けてくる自己責任とは違う。
社会で生きるにあたっては、自分勝手じゃない方がラクです。なんかてきとうに周りに合わせた方が、摩擦が少ない。対立少ない。
なぜそう言い切れるかというと、自分がそうしてきたからです。
でも、それじゃなんにも面白くないじゃん!という…声が、作品の裏側にあるように感じる…といいますか。

その声って、孤独の中から聞こえる気がするんです。
孤独というか、個人性というか。
自分勝手になれずに潰されてしまう優しさ、柔らかさみたいな。
その声は私自身の中にもあって、なのに、私を含めた一人一人がその声を無視するから、人は孤立していってしまう気がするんです。なので、その声に観客として、一人の社会人として、一人の人間として応えたい、というのがひとつ。

もうひとつは、その声とリンクする作中のメッセージ…ですかね。
ネタバレは避けますが。
うーん…。
「監督すごい!作品すごい!おもしろいよ!観て!」みたいなことは、簡単に言えるし、そういうような…これも違う方面に怒られそうですが…都合の良い客を演じて持ち上げる、みたいなことは、私にも出来るし、してきた部分があるんです。
それで満足して、自分は動かない、自分で変えようとしない、諦める、委ねる、担いで任せる、から、世界は少しずつ終わりに近づくことをやめない。

それって、私が映画制作(製作)内のハラスメントに対して憤ってみせることと、根は同じです。
映画というものを娯楽消費しておいて、ハラスメントに不服申し立てをしたところで、それ以上なにもしないから、結局存置される。変わらないことに加担している。っていう、反省に近いものをこの作品に対しても感じます。

世界で起きている、あらゆる紛争や戦争、生活をしていただけなのに命が奪われたり、食べ物も薬もなかったり、安全を脅かされたりするすべての理不尽に対しても、私はなにもしていない…仮になにかしたとして、それに終わりはないはずで。

で、この映画を鑑賞する機会を人におごったら、なにかしたことになるの?
なにか変わるの?
といったら、答えはNOに近いと思います。
…正確には、NOに限りなく近いと思う、けど、ちがう可能性が増える。
たとえ0.01%でも。

その0.01%にでも希望をみて、できることをする、そういう繰り返しが未来をつくるのかなと。
だから、コミュ障でもなんでも、ひとまずやってみる。
この、ひとまずをやめない。動く。結果がどうあれ。結果がわからなくても。見えなくても。おごった次の日に仮に私が死んでも。
そんなのは、わかりっこないから、わかりっこないなりに、他者可能性に懸ける…それを自分で選ぶ。そういうことをしたくなる映画です。

…という説明で終われば、なんかきれいなんですけど。
実際、人とそんなに関わりたくない…_(:3 」∠)_
見知らぬ人にフランクであれるほど要領よくもなく、スキルもなく(だからこそ、映画をつくるという目的のためにがっつり本領発揮できる人たちって本当にすごいなと思うわけで)。
お金があると勘違いされて利用されたり、カツアゲされてもいやだし、なにか違う目的が絡んできても面倒くさい…
人間こわい。
でも、信じてきたから生きているし、信じさせてくれた人たちがいるから今がある。
なら、その受け取ったものは、やっぱり誰かに渡していかないといけないのかなとも思う。
から、企画してみました。

説明おわり。

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