病んでるっぽいことを書くと、なんかの勧誘ぽい、いいねがつくの巻

承認欲求を針にくくって大河に流すと、そういうアレな商売がたくさん釣れるので、私は承認欲求を殺すことにした。

とまではいかないけれども、詐欺とかあれな宗教の手口ってそういう感じで、そういう意味では、私は仏教に対して結構ずっと怒っているのかもしれないです。
衆生救えよ馬鹿野郎。なんのための出家だよ。世俗にまみれすぎだろ、風俗行って外車乗って檀家から集めた金で宮大工使って改築して自慢して子どもを新幹線で私立通わせてお手伝いさん雇ってんじゃねぇよクソ坊主が、みたいな(偏見がえぐい)。
人が死ぬ限り商売安泰、じゃねぇんだよ。

しかし、そんな奴が人を成仏させられるんなら、誰でも人を救うことはできるのかもしれないよ、という希望はある(地獄に行く予定の暴言)。

完全に言い過ぎだろう。
最近、暴言が止まない。死にたさも止まない。
他人の自殺も娯楽にするこの国が好きじゃないので、自殺はしてやらない。
自殺と他殺の区別もつかないこの国が好きじゃない。
自分を守ろうとする術すら剥奪し続けるこの国が好きじゃない。

じゃあ出ていけ、じゃあ死ね、で思考停止しているこの国が好きじゃない。
言われなくたって人なんていつか死ぬんだから、大切にしたらいいのに、そうしない人が好きじゃない。
誰より、そうできない自分が好きじゃない。しね。生きる。

こんなことを書いて何になるんだと思う。
昔の方が慎ましくて、ちゃんとオフラインで書いていたのに(笑)。
歳をとったら、しっかり太々しくなってしまった。

でも、しっかり世間をみれば、一人一人を見れば、大悪人がいるわけでもなく、ささいな狡さや保身や嫌悪や、そういう色々が際限なくあるだけで、誰かが死ねば解決するわけじゃない。
だからこそ自分を死なせて終わらせたくなるんだと思う。
人と生きるっていうのは、ちゃんと疲れる。
時に耐えきれないくらいに。

だからずっと、死ぬことは生き抜いたご褒美だと思っていて。
それさえ利用する、法とか、体制、思想、宗教…そういうのを睨んでみたこともあったけれども…そんなことしたって、人は変わらない。
人が変わるのは、相手を思って動く時、手を取り合えた時、生きている寂しさが少しだけ癒えた時、そういうことなんじゃないかと思う。知らんけど。←やさぐれ。

明後日(17日)、私にとっては2回目の「世界の終わりから」ですが、1回目と感じ方が変わりそうな気がしています。
2か月ちょいの間に何が変わったのか、という感じですけども。

1回目を観た時に、世界を人任せにしていてはいけなくて、自分から行動しないとなにも変わらないんだと改めて思って、それ以前からそのように思ってはいたけど、足りなかったと思って行動してみて。
行政の場にちょっと首を突っ込んでみたりもしました。
(政治って、現状中高年男性社交場だと思う…そりゃあ若者、あんまり関わりたくならない…空気からしてしんどい)

けど、これを紀里谷監督のおかげだ、この映画のおかげだ、って言い過ぎると、それもまた仮託というか、崇拝的なものになっていってしまうから。担がない方法を考えたつもりです…が、目新しくはなく。
宣伝するっていう事の大変さも少しだけ理解しました。生意気言ってすみませんでした。

なんでこんな自分で動くのかといえば、映画…ひいては芸能関係に変わってほしい思いがあるからで。
何より、誰より、それにわーわー言って日々を消費しているだけの私を変えたかった。
わーわー言ったところで、本当は相手も自分もどうでもいいから、そんなことを延々言って生きている。憂さ晴らし。笑えないお笑い。心が死んでいく。本当にどうにかしたいのなら、心が死ぬ前に自分で動くしかない。それがしんどいし、面倒くさいし、なんなら嫌われる。煙たがられる。正義でもない。揶揄される。心が死んでいく。いいことない。でも、それを選ぶしかない。自分が生きていくこととセットだから。

映画っていうのは、知れば知る程、なんか大変で、面倒で、大変で、果てがなくて、関わりたくないなぁと思います。
でも、だからこそ、つくってる人たちすごいなぁとも思う。
アニメもそう。漫画もそう。声優さんだってすごい。音楽をつくってる人だってすごい。私の知らない職人技や、思い入れや、決してしない手抜き、辛さ、いろいろある。

そういうすごさをお互いに楽しんだりするよりも、なんだか、人のプライベートを暴いて、それにやいのやいの言ってる。
そのなかで、自分に近い感覚の言葉で、でも自分の加害性を感じさせる言葉が「芸能人の不倫なんてどうでもいい、くだらない」みたいなもの。
一見、無害に見えるというか、まともにみえる。
けど、「芸能人」「不倫」を下に見ている。
「不倫」を下に見るのなんて普通なんじゃないの?って思うかもしれないけど、「他者の不倫」を本人の預かり知らぬ手段で「知り」「意見する」自分の浅ましさは透明化している。
それに、不倫とはいえ人と人がそこまで関わってること自体、私からみるとすごい(人と関わるのなんて面倒なだけなのにすごい)。
「芸能人」のことも最初から一括りにして下に見ている。
そのくせ、影響力があるからとか、有名なんだからとか言う。
でも、被害を訴える声や辛さ、改善してほしい点は聞かないで否定する。無視する。助けない。根性や精神の話にする。
もういい加減にしようよ、と思う。と、他人には言えないから、自分に言っている。

私は広末さんの出演作は観たことがあるし「マジで恋する5秒前」をカラオケで歌ったこともある。でももちろん知り合いじゃないし、直接見たこともないし、知り合いじゃない。何を知っているわけでもない。
でも、この国で「そこ(芸能界)に立っている」って、ものすごいことだと思う。
人間のえぐみと灰汁を煮詰めたようなどろどろした闇と、だからこそ輝く光みたいな、縮小版宇宙みたいな次元で、生きて、立っているだけでもすごいと思う。

実は私は、人の美醜があんまりよくわかってない。
むしろ美しいが行き過ぎると、だいたい区別がつかない…(美しい=整っている=差が減っていく)。
歳のせいもあるのかもしれない…。

そのなかで区別がつく人は、なにが魅力として違うんだろう、とずっと思っていたんだけれども、たぶん、人間味みたいなものなのかなぁ、と思う。
わからない。推測。好みもあると思う。
人は生き方が顔に出る、というけれど、そういうことなんじゃないかなぁ。と。

更に話が飛ぶけれど、今日、とある用件で証明写真を撮りました。
補正ができる仕様だったので、補正しまくりました(笑)。
まぁ、そんな時代に、広末さんは補正なくても美しいし、すごいなぁと思います。そういうすごさを全部すっ飛ばして、本来自分が知らない(関係ない)不倫で、人を悪し様に言ったり、わざわざ興味関心がないと言ってみるのも違うなぁ、と思ったのでした。

持て余した興味関心て暴走すると人を殺すので、そんなものまず自分に向けようと思い、自分語り過多なこの頃です。
誰も聞いちゃいねぇ、上等です。いいんです。生きるってわりとそういう感じでいいんじゃないですか。知らんけど。←やさぐれ中年の面倒くささ。

推敲もせぬまま投稿して寝ます(文筆やくざの所業)。
おやすみなさい。
眠れるってうれしい。
無防備の極み。
人が人を信じられるからある営み。

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