氷の微笑

似た者は引かれ合う

 殺人事件の容疑者になった女性作家と、捜査を担当した刑事が恋をする。その刑事も過去に人を射殺したことがあった。その事件を題材に小説家は作品を書こうとしていて、取材のために刑事に質問を重ねる。刑事は刑事で殺人事件の捜査のために小説家を調べる。

すると小説家の周りに、殺人事件を起こした人が何人も出てくる。刑事の元妻も大学の同窓で疑いがかけられる。小説家が犯人だと思って調べ始めた刑事は、次々と疑わしい人物が出てきて、小説家を疑いながらも関係を深めていく。

 テレビのサスペンス劇場を見ているような感じ。深みはない。犯人と思われる人が次々と移りながらストーリーが進んでいく。ウィキを見ると世界的な大ヒットだったそうな。シャロン・ストーンが足を組み替えるシーンは何度となくテレビで見たことがある。エロと謎は、洋の東西を問わず人を引き付ける。

 最初は小説家が殺人鬼だと思われた。そしたら捜査している刑事も人を殺していた。小説家が訪れる家の女も殺人の過去があり、恋仲の女も殺しの記録が警察に残されていた。小説家がネタ探しで人殺しと接触していったとも見えるが、振り返ってみると、人は誰でも似た者同士で集まるものだ。

友達は何かしら共通の趣味があったり話があったり。馬が合うというのは、どこか共通するものがあるからだ。落語の「長短」は性格が真逆な二人の話だが、のんきと短気の底に流れる精神で相通じるものがあるから仲良くしていられる。割れ鍋に綴じ蓋と言うのも、真逆なようでぴったり合う精神性があるものを言うのだろう。

この映画の小説家と刑事は二人とも、何をしでかすか分からない危うさを持っている。表に出てくる共通性はわずかでも、通底するものの深さが関係の深さとなっていく。

 考えてみれば、自分の周りを見ても、自分に近い人間と付き合っていることに気づかされる。性格が違う奴は時と共に離れていく。似たところのある人は、話が通じやすい反面、似てるだけに腹が立つことも多い。

新宗教に導き修行を重んじるところがある。人を会に導き入れることを導きと言い、ちょっと聞くと会員を増やすための方便のように思えるが、これが自分と似た人によって心根を変える修行になるのだという。

考えてみれば、確かに似た人は自分の鏡であり、その人の苦悩と向き合い、その原因を探ろうとすれば、自分の欠点を見つめることになる。そして、導きをすると、たいがい自分と似た欠点を持つ人を導いてしまうのだそうだ。

 同じ悩みを持っている者同士が近づこうとする気持ちは分かる。映画で時々出てくるグループカウンセリングもそういうことなのだろう。

 この映画の怖さは音楽だ。冒頭で男の手をベッドに縛って性交し、アイスピックでめった刺しにする。その強烈なインパクトで、その後も性交の場面や、人に背を向ける場面で、もしや殺されるのでは? と思わせる。凶器が出てこないシーンでも、あの音楽が流れていると、否が応でも恐怖感が高まる。ジョーズの恐怖が思い出された。

 先が読めない時、人は恐怖を感じる。普通に人が抱き合っているシーンでも、怖い音楽が流れると怖くなる。何でもない行動が、怖い音楽によって、とんでもないことがこれから起きるのではないかと想像させるからだ。それは予測できないからこそ怖くなる。この映画では何度もそんな場面が用意されていた。そしてラストでアイスピックが大写しにされて、謎が残された。

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