静かな生活

 5にしようか迷った。伊丹作品は「お葬式」とか「タンポポ」とかが話題になったけど、この作品はタイトルも聞いたことがなかった。何も知らずに見て、大江健三郎の家族を描いた作品と知り、落研の仲間が同級生に大江健三郎の息子がいると言ってたのを思い出したりして、こないだ大江健三郎が亡くなったとのニュースもあったりしたけど、そんなこんながあろうがなかろうが、おもしろかった。

 主人公は大江健三郎の娘。両親が仕事でオーストラリアに行って、弟は予備校で忙しく、障がいのある兄の面倒を一人で見ることになる。その間に、貞操の危機があったりして、大衆映画の匂いもある。

 冒頭で、知的障がいのある男女が公園で抱き合って、見かねた人が引きはがそうとする。誰に迷惑をかけるでもない、ただ抱擁しているだけなのに、世間の人はそれを許さない。

 作中で、「なんでもない人として生きて死んでいく」、というセリフがあった。大江健三郎は若い頃から小説家として知られた。のちにノーベル賞まで受けた。大江健三郎はなんでもない人ではいられない。その息子も、なんでもなく生きるのは難しいだろう。ましてや障害があるとなっては、さらになんでもなく生きるのは難しくなるだろう。

 この作品は、障碍者とその周囲の人の関係を考えさせてくれる。ほかの伊丹作品で主役が多い宮本信子が脇に控えていて、主役の佐伯日菜子の棒読みとも思える演技がすばらしく、イーヨーの渡部篤郎の演技は本人を想起させる。

障碍者を見る目の厳しさ、女性として魅力的な主人公の貞操の危機、といったスリルが、太鼓の音で腹に響かされる。いつも思うことだが、いわゆる戦闘シーンの暴力映像は、迫力があるのに寝てしまうことがある。この作品の、緊迫シーンは眠くならなかった。こんな心理的な戦闘こそ、腹に響く戦闘シーンなのではないか。

大江光という作曲家の名を一時はよく耳にしたが、このところ聞かない。もしかしたら今は、「なんでもない人」として生きておられるのかもしれない。残念なような安心なような。

 この作品で大江健三郎は、自殺願望を抱えていて、ピンチな状態で外国に行く。学生の時に大江の小説を読んでいて、数ページ読むのに、知らないことが多すぎて、理解するには何冊も本を読まなくてはならなくて、小説として気軽に読めるものではないと感じた記憶がよみがえった。大江は常人とは違っていたのだと、この映画を見て知った。

その子の光も、障碍者というくくりに収まらない天才かもしれない。障碍者というと、健常者より劣った人という見方がある。健常者が上という既成社会のモノサシなのだろうが、この作品の中で、お天気お姉さんが、イーヨーを天才だと言う。天才というと誉め言葉のように思えるが、普通の才能でないということは、異常ということだ。凡才の役に立つなら天才とおだてられ、役に立たないなら障碍者と見下される。利用できるかどうかで名称が変わり、世間一般から向けられる目も変わってくる。

 主人公は、イーヨーを障碍者であるとかないとかで考えたことがないという。そりゃそうだ。障碍者かどうかは、自分にとって利用価値があるかどうかという判断基準だ。利用価値とかを超えた関係が家族だ。障碍者とか健常者とか、そんなくくりとは別の土俵で生きているはずだ。天才とほめそやされる者と、障碍者として同情される存在は、コインの裏表だ。天才とか障碍者とか、そんなレッテルを気にすることなく生きられる世の中になればいいと心底から思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?