ゴーストバスターズ(2016)

痛い目に逢わないと分からない

 第一作のバスターズたちも、この作品の女性たちも、求められる前に動き出す。個々の出動要請に応えて、ゴーストをバスターしに出て行って、それは感謝されるんだけど、ニューヨークの町を守ろうとして、市長に掛け合うと、相手にされない。これからゴーストに苦しめられますよ、とどう力説したって、誰も信用することはない。

 この作品は3作目だが、2作目のような続編ではなく、第1作の主人公たちが女性に代わっている。主人公の科学者は、一作目のビル・マーレ―のように異性への関心が強く、好みの男を電話番に採用する。あとは、町にゴーストが出て、バスターズはインチキという見方がある中で、退治して実績を上げていく。2作目に続きこの作品でも、マシュマロマンほどのインパクト・キャラが生み出せてなくて、やはり、カワイイやつがいるといないで大違いなんだと知らされる。映画のヒットの要素は、1に音楽、2にテンポ、3,4がなくて、5にカワイイやつ。

 マシュマロマン以外のゴーストは、かわいくない。見た目だけでなく、人に危害を加える怖い存在だ。かわいければ情が移って、やられた時にかわいそうになるけど、マシュマロマンの他は、どんどんやっつられけても、心が痛まない。

 ゴーストバスターズは、市民の被害を防ぐため、避難を呼びかけるよう市長に申し出る。が、市長は相手にしない。当然だ。まだ市長はゴーストを見ていないのだから。科学者が言うのだから、聞く耳を持ってくれ、というのは余りに傲慢だ。予備知識のないことを理解してもらおうとすると、並々ならぬ努力が必要だ。きちんと説明したら理解される、というのは甘い見通しだ。そもそも説明を聞いてもらえると思う時点で相当な増上慢と言わねばならない。

西本願寺が、伝える法話から伝わる法話へ、と目指したことがあった。坊さんは、どうすれば理路整然と法を語れるかと考えてきたけど、それは語る側の問題。いくら分かりやすい話ができたとしても、伝わったかどうかは別問題ということだ。

ゴーストバスターズが市長に、どれだけ科学実験の結果をもって説明したところで、市長が聞く姿勢にならなければ、どんな説得力ある話も届かない。ゴーストバスターズに仕事を依頼するのは、実際にゴーストの被害に遭い、ゴーストを目にした人たちだ。人間、自分の知らないことを想像することは難しい。まだゴーストを見ていない市長が理解できなくてもしようがない。

 コロナウイルスに対し、これと似た感じの対応をとった国があった。情報公開すると市民が不安に襲われ社会不安につながる、というのも一理ある。が、由らしむべし知らしむべからず、を突き通すには、現代の民衆は知恵がつきすぎている。

それじゃあ、みんながそれなりの見識を持っているから、その時点で分かっていることを説明すれば、みんなが納得してくれるかというと、決してそんなことはない。悲しいけど、痛い目に逢うまで分からない人が少なからずいる。そんな理解のにぶい人が市長になってたりすると、市民全員が危機にさらされる。

 では、ものごとを理解できる理知的で柔軟な頭の持ち主なら危機を回避できるかというと、なかなか簡単にはいかないだろう。特に難しいのが、歴史に学ぶことのできない、未知の課題に直面した時だ。たとえば、今起きている災難はおかしな宗教を信じる国民が多いことが原因だから、すみやかに信仰の寸心を改めよ、と言われて、誰が改められるだろうか。

 肉体的にせよ精神的にせよ、痛い目に逢うと、人は痛みを避けようとする。これは本能だから、どんなに愚かな人でも、痛みには対処しようとする。悲しいけど、人間ってそんなもんだ。だから何度戦争の悲惨さを語り継いでも、自分で痛みを感じてない世代になれば、また戦争をしてしまう。もしゴーストバスターズのように、事前に危機を知らせる存在があったとしても、そこに痛みが伴わないうちは、聞く耳を持つ人は少ない。コメディなのに、そんなことを考えさせてくれる。

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