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暁山瑞希とジェンダー問題〜性別の後景化〜

こんにちは、ありあです。
プロジェクトセカイやってますか?
私はどハマりしてます。

昨今のゲームはキャラクターの内面のリアリティが増して、共感できる部分や考えさせられる部分、指標になる部分が多くてシナリオを見るだけで何日でも楽しめますね。

さて、そんなプロセカに暁山瑞希というキャラがいます。

プロフィールを見れば瑞希がどういう人物なのかがわかるので以下の画像をご覧ください。

「カワイイ」ものが好きで、趣味は動画素材集め、コラージュ。特技は洋服のアレンジで自身やサークルメンバーの服のアレンジを卒なくこなします。

学校は休みがちながらも、難なく単位を取得してしまうセンスの良さは瑞希を語る上では欠かせない要素です。

「25時、ナイトコードで。」という動画制作サークルでは動画制作を担当し、趣味嗜好のバラバラなサークルメンバーのバランサーのような立ち位置にもなっています。

考え方も大人びていて、いわゆる他人の地雷には突っ込まず、それでいて他人と距離を空けすぎない、配慮の行き届いた振る舞いも瑞希の魅力の一つです。

こんな瑞希ですが、好きな食べ物がフライドポテトとカレーライスと子ども舌なのがまたカワイイところですね。猫舌もチャームポイントです。

……まあ、そもそもこんな記事に辿りつくような人はもうこんなことはご存知でしょうから、蛇足ではありますが。

Ⅰ瑞希とジェンダー問題

では、本題です。

瑞希を語る上でどうしても議論に上がってしまうこと、それは性別です。

こちらの議論に関しては、すでにMtXの観点から述べている方の記事がありますのでそちらを参照していただけるとより早く、より深く理解できます。

「トランスジェンダーの私から見た『暁山瑞希』の性について」
https://koikokoromillefeuille.hatenablog.jp/entry/2020/10/25/201358

プロフィール欄にもある通り、瑞希の性別は「?」と表記されています。
しかし、プロセカ内では性別をぼかすような表現は取られていません。

例えばこのシーン(ユニットシナリオ第9話)。
「知らなかったら気づかない」という言葉です。
この言葉の不足部分を補うと「(男性だと)知らなかったら(男性だとは)気づかないかも」という言葉になります。

他にも同じシナリオのこのシーン。
どっちかわかんねーから」というのも性別がどちらかわからないという意味に他なりません。

プロセカ内では一貫して瑞希の戸籍性別は男だとして描かれているんですね(この一文を書くのがはちゃめちゃに苦痛でしたが、こう書くしかないジレンマ……)。

このシーン、特筆すべき点が2点あります。

1点目は、この2つのセリフ自体にリアリティがあることです。私はホルモン治療中のMtFですが、これに類する言葉は幾度も耳にしました(ある程度パス度が上がってからですが)。

これはおそらくクローズドではない多くのトランスジェンダーの方が当てはまるんじゃないかなーと思います。それくらい「ある」言葉なのが少し意外でした。

特に移行期あたりの不安定な時期にかけられることの多い言葉で、この言葉について何かしら思うところのある方も多いのでは、と思います。

2点目は徹底的に性別を表す言葉が排除されていることです。
男性、女性、女の子、男の子、そういった性別を明言する言葉はここに書かれていません。
性別を表す言葉を使ったほうがわかりやすい場面であるにも関わらず、あえてそれら全てが避けられています。

「どっちかわからない」
これが瑞希の外見に対する作品内での評価であり、プロフィールにも反映されているのです。

なぜそのようなリアリティのある表現の中に性別の曖昧さが同居しているのか。

その原因を考える上で、欠かせないのが瑞希の在り方とその受容です。

このシナリオ(星2サイドストーリー後編)では、自分のことをどう思うかと聞いてきた瑞希に対して奏がこのような言葉をかけます。

クラスメイトの無『理解』で少し落ち込んでいた瑞希はこの言葉で完全に調子を取り戻します。
この奏がかけた言葉、これこそが瑞希の理想の受容のなされ方なのでしょう。

この一連のシーンでもやはり、ジェンダー表現は避けられています。女の子らしいといったいかにも使われそうな表現は排除され、「オシャレ」、「カワイイ」としか言及されません。

瑞希のことが語られる時、性別は徹底的に排除されます。

呼び方に関してはクラスメイトはちゃん付け、類くんからはくん付けです。ただ、類→えむも「えむくん」呼びなので、類くんのくん付けは万人に対してでしょう。類→杏あたりご存知の方いましたらお願いします。
(追記:呼び方変わってましたね)

瑞希というジェンダーに関わる問題を持つキャラクターを描く時に性別を表す言葉が描かれないのは非常に不自然なので、恐らくこれは意図的に行われた排除です。

瑞希という人間を語る上で性別のことに触れないのは不可能なのに、作品内では直接的な性別についての表現は存在しません。これは、瑞希という人間をそういう『価値観の押し付け』の枠の中にはめて欲しくないということの表れではないでしょうか。

だから、私は瑞希という人間に対して男であるとも、女であるとも、Xジェンダーであるともクエスチョニングであるとも、シスジェンダーであるとも評価を下せません。そもそも、そういう評価は瑞希に対して与えてはいけない、とまで思っています。

Ⅱ性別の後景化

では、瑞希の性別をどう扱っていくべきか、それは瑞希自身が解答をくれています。

「ボクは、ボクでいたいだけ」

これが瑞希の全てです。
性別だとか、そんな些細なことは全て超越して、ただただ自分と自分の好きなものを表現して生きていく。
それが瑞希の生き方なんだと思っています。

さて、この表現を語る上で避けて通れないのは一人称「ボク」についてどう捉えるかです。

ここで一旦話をトランスジェンダーに戻すと、埋没やパスと言った用語が界隈にあるように、バレないというのは当事者にとっては非常に重要な要素になります。
MtF目線だと骨格、身長、肩幅、指や膝などの細部のゴツさ、声などなど、気をつけていないとバレる(リードと言います)要素が多いです。気をつけてもどうにもならないことも多いです。

それに、一人称は自己認識と大きく結びついているので、自分のことを「俺」や「僕」と呼びたくないという認識を持っているトランスジェンダーの方も少なくないと思います(私もそうです)。

話を瑞希に戻すと、一人称「ボク」というのはバレる可能性を大きく高めます。注目度を上げてしまう、と言ってもいいでしょう。埋没やパス、女性としての自己認識を第一に捉えるのであればこの一人称はありえない選択肢になります。

だから、瑞希の一人称「ボク」はトランスジェンダー的目線で捉えてしまうと本質が見えなくなってしまうのではないか、と考えています。

表記も「ボク」とカタカナ表記であることを考えると、この一人称が瑞希的に一番「カワイ」かったのではないかと私は思ってます。瑞希の「カワイイ」って大体カタカナですしね。あとAmiaってハンネもめちゃくちゃ「カワイイ」です。ほんと。

これらを通して言いたいことは瑞希の性別は「些細」なことであるということなのです。
だって瑞希は自分がしたいことをして、楽しく生きているだけですし。

「楽しい」という気持ちに対して性別によって変わることは何もありません。

男だから、女だから、トランスジェンダーだから。そんな理由で「楽しい」生き方が剥奪されるなんてことはない、「楽しい」時に、性別のことなんて考えない。

きっと、瑞希にとって性別は〈後景化〉しているのではないか。それが、私の瑞希に対する認識です。

Ⅲ瑞希の抱えるもの

ただ、瑞希ってこの結論に至るまでに悩んだ痕跡が多いですし、現在進行形で抱えてる悩みもあるんですよね。
例えばこのシーン(ユニットシナリオ第18話)

「一番ほしいものが手に入らないなら」「意味がない」

私が瑞希にどハマりしたきっかけのセリフです。

この感覚が『理解』できている瑞希。尊すぎませんか?

憶測にしかすぎませんが、こんなことを言えるのは「一番ほしいものが手に入らない」ことを経験した人間だけだと思います。

つまり、瑞希は過去に「一番ほしいものが手に入らない」経験をしたのに、今のこの生き方を選んでいる。

そんな瑞希の底知れない強さに、物凄く元気をもらえました。未来永劫幸せに生きてほしいです。

ただ瑞希にも不安定なところがあります。
それは『理解』に関しての感覚です。

このシーン(星2サイドストーリー後編)では「そのまま受け入れること」が「そんなに難しい」か、と瑞希は疑問を呈します。当然ニーゴメンバーは瑞希の性別のことなんか歯牙にもかけず瑞希のことを受け入れてくれます。

ただ、「普通」の人間と瑞希の溝は瑞希が思っているより深いことがシナリオ内でいくつか語られます。

「普通」
最強のマイノリティ封殺ワードですね。これ言っておけば大抵のマイノリティは殺せます。
瑞希の格好は「普通」ではない、異常である。

それどころか、瑞希は「みんなに合わせらんない」とまで言われてしまいます。瑞希が確固たる意志を持ってしていることを、合わせることができないという〈不能〉にされてしまっているんです。

これには、流石の瑞希も堪えます。

ただ、これって何も少数者の話に限らないと思うんですよね。学校って良くも悪くもそういう場で、浮かないこと第一。だから出る杭を打って自分たちが浮いていないことを確認する。

彼女たちの言っていることは悪意100%ですが、間違ったことは言っていません。学校という、多数派が「普通」の場に来るなら「普通」に合わせろ。真っ当な主張だと思います。クソですけど。

だから、それを無『理解』と決めつけて排除するのは、間違ってはいませんが最善策だとは思えません。

そして同じシナリオのこのシーン。
「ああいう人達」というのはこの記事内の画像にもある、どっちかわかんないと言っていた先輩たちです。瑞希に対して「なぜそんな格好をするのか」という質問を投げかけた後のシーンです。
もちろん込められている意味は違いますが、瑞希自体が「慣れ」という言葉を使っています。

当事者からすると「なぜ」という質問はものすっごく不快です。単純に好奇心からだろうし、理由を言っても別に理解されないだろうし、面白がられてるだけな気がして。

ただ、そこで突っぱねるような回答をしてしまうと結局『理解』になんて程遠いんですよね。

だから、自分の周りを『理解』してくれる人で固めるか、『理解』してもらうことを諦めるかの二択で自分の居心地の良い方を選ぶ。

こんな経験は結構共感を得られるかなって思います。

実際、真の意味で当事者のことを『理解』できる人なんていません。自分ですらよくわかってないことを『理解』できるはずないだろ!って思います。

ただ、そのスタンスのままだと結局当事者と非当事者の溝は埋まらないんですよね。

なぜかというとマジョリティがマイノリティのことを『理解』していないようにマイノリティもマジョリティのことを『理解』してないからです。

例えば先ほども載せたこのシーン。

これ、発言者側は褒める意図で言ってる気がするんですよね。聞こえる声量で言ってますし。

実際友達にこう言った言葉をかけられた時は褒める意図だったよ〜、なんて言われました。

ただ、瑞希にとってはこれは不快な言葉なんですよね。こういう小さなすれ違いをどう埋めていくかが、相互理解の第一歩なんだろうなぁと思います。

無『理解』を前提としてお互い寄り添っていかないと、『慣れ』を超越した『理解』なんて訪れないような気がします。

だから、周囲に『理解』を望んだ瑞希が結局ニーゴのような理解者の集まりの中だけで完結してしまうのは「違うだろ!」って気持ちになっちゃうんですよね。
(というか、瑞希が『理解』を望むのは結構周りに理解者がいるからかな、なんて思います)

自身を不快にさせるような質問、視線、言葉。外からの不快に対してどう向き合っていくかがこれから先の瑞希のキーになっていくのかなー、なんて思っています。

最後に

瑞希、生きる気力をくれてありがとう。

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