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短編:夜の月

 夜に吹く風は心地良い。それは都会のビル群においても、そしてこの何処とも知れぬ森の中でも同じ事だった。
 気付けば森に立っていた俺は、ぼんやりと空を見遣って、この状況はなんなのだろうかと考え始めていた。しかし最後の記憶といえばコンビニ帰りに歩いていた夜道だけで、それがどうして森の中へと俺を誘ったのかは、恐らくこの地球上の誰にもわからないだろう。結局どれだけ思考を巡らせようとも、空に浮かぶ月の美しさしか解せるものはなかった。

「月を見ているの?」

 隣で膝を抱えて座る少女がぽつりと呟く。少女はそれまで何も話す事はなく、俺自身も何かを話そうという気になれなかったので、その一言までは静かな時間が続いていたのだった。

「だって、綺麗だろう。」

「それはそのままの意味で?」

 少女の返答は意外なものだった。「月が綺麗だ」という言葉に内包された二つの意味を、この十歳に届くかどうかという少女は理解して聞き返してきたのだ。俺は思わずぴくりと少女の方に目をやった。

「夏目漱石かい。別に、そんな意図はないさ。俺はそこまで詩的な感性を持っちゃいない。」

「月を食い入るように見つめて『綺麗だろう』って言葉を産めるのなら、素質はあると思うけど。」

「そうかな、ただの感想さ。」

 月は森と、俺と、少女を朧気に照らしている。少女の着るワンピースは月の光を受け取って一層その純白を際立たせていた。時折吹き抜ける風に揺れる時には、その端から光の雫が零れているようにも思えた。

「いつまでここにいるの。」

 少女は座ったまま、俺の顔を見上げながらそう言った。

「いつまで、か。考えてもなかったな。別にずっとでも構わないんだけどね。ここは何も追ってこないし、急かされもしなさそうだから。」

「疲れたの?」

「かもしれない。」

「そう。」

 少女の顔を何気なく目の端に捉えた。その顔は、悲しいような、やる瀬の無い表情だった。

「何か悲しかったのかい。」

「生きなくてもいいって思ってしまう人が居るんだね。」

 少女は膝を抱える腕の中に顔を半分うずめて、顔の上半分だけを外に曝している。その眼は物憂げな色に染まっていた。

「俺は、死んだのかい。」

 恐ろしい質問の筈が、俺の心はとても安らかにその言葉を諳んじた。この不思議な森も、突然僕がここに辿り着いたのも、それで説明がつく。ここは死後の世界で、俺はあの夜道を歩いている途中に突然死んだのだ。

「半分正解。」

「そうか。ならここは、さながら三途の川かな。」

 少女は腕にキュッと力をこめた。

「なんでそんな素直に受け止められるの。」

「抗おうとしないだけだよ。」

 言葉は返ってこなかった。

 死に瀕しているというのに、俺はどこまでも冷静だった。それが自然の一部であって、それ以上でも以下でもないと心の底から信じられた。枝についた木の葉がいずれは舞い落ちるように、獣のつけた足跡もいずれは掻き消えていくように、自身もいずれは死んでいくのだから。

 それに、特に思い残すことも無い。こんな平々凡々で面白みの無い人生など、続こうが終わろうが、世界にさしたる損失もないのだ。

「もしまだ戻れるとしたら。」

 ずっと閉じていた口を少女は漸く開いた。

「私だったら戻る。きっとこの世界はまだまだ楽しい事が沢山あって、私はいつかそれに出会う。そう考えたら、私はワクワクしてくるよ。でも私はもう戻れないから、ワクワクなんてしない。『もし生きていたら』なんて妄想をしたって、空虚だもの。そんな事したって寂しくなるだけだから、それならあの月をずっと眺めていた方がマシ。」

「『だからお兄さんには生きて欲しい』って?」

少女はコクリと頷いた。

「いいかい、生きるっていうのはとても難しい事なんだよ。ただ命を存続させる事を言うんじゃない、人間が犇めき合うこの世の中で自分を守る事だ。自分に押し寄せる様々な干渉から身を守る為に、時には主義主張すら捻じ曲げなきゃいけないんだよ。それが得意な人もいるけれど、僕には苦痛だったんだ。しかも、その苦痛を対価に得られるのは、ただの普通の生活だけ。ただただ真っ平に慣らされた、起伏のない時間だけがその報酬なんだよ。」

「でも、それだけじゃないでしょ。きっと楽しいと思える事だってあったでしょ。仲のいい友達とか、寄り添ってくれる人とか、今はどうか知らないけれど、過去にはそういう人達がいたでしょう…?」

「いたさ。」

 けれどいずれそれは終わるものなんだ。

 その言葉は出なかった。年端も行かない少女に突き付けるには、あまりに酷な現実だった。

 それ以上言葉が続かないのを認めると、少女は「なら、」と言いながら立ち上がり、俺の手を取った。

「一緒に行きましょう。私は此処から出られないけれど、あなたが歩いていくのを見届ける事は出来る。もしあっちにはあなたが生きるに値するものが何もなかったとしても、ここにいる私はこの先あなたが過ごしていく時間の一片にでも、希望と温もりが色付く事を祈るから。」

 少女の決意に満ちた目から、俺は視線を外せなかった。彼女から露出した純粋な感情と言葉達には、怒りにも似た凄みが含まれているように感じられた。しかし、少なくともそれは俺ではない何かに向けられている。

「君は、」

 少女は潤んだ瞳で俺の渇いた目をじっと見返していた。

「君はそこまでするんだね。」

 少女はまたコクリと頷いた。

 手向けられた言葉を偽善の一言に付すのはとても容易いように思えた。けれど彼女は自分の無力さを知っている。自身が俺に対して出来ることは何も無いと知っている。知っていたから、何の力も持たない言葉に頼るしかなかったのだ。「俺を生きるに値させるものが必ず何処かにある」と空気を震わせるほかなかったのだ。

「俺が君の為に生きる義理はない。」

 とても冷たい声が出た。

 少女はビクリと一度震えた。

「けど俺は、その祈りの為に生きようと思う。一つの人格が、他者の為を思うその一念だけで彩られた言葉は、俺の目には美しく見えた。それが自分に向けられているにも関わらず応えないのは、侮辱にすらなり得ると俺は思う。」

 少女は依然不安そうに、けれど垣間見えた灯を見逃さぬように、じっと俺の瞳の奥を覗き込んでいた。

 「ほら、行こう。」

 月光の照らす道を、二人は音も無く歩いた。









 浮上していく。

 徐々に音が聞こえてくる。何かの電子音と、パタパタと廊下をかけるような音、そして遠くに聞こえる人の声。
 朧げな感覚をどうにか仔細に感じ取ろうとすると、それと同時に別の感覚が浮かんでくる。痛みだった。足と手のつま先から、次第に全身へと、それは波及していく。全身を耐えがたい痛みが包んでいた。
 痛みのあまり、閉じていた目を開けて飛び起きそうになる。しかし身体はピクリとも動かない。唯一瞼を持ち上げる事だけが俺に許された自由だった。
 目を開けると、俺を覗き込んでいた人間と目が合った。その人間は驚愕と歓喜が入り混じった表情で叫んだ。
「患者が目を覚ましました!」



 一週間が経った。
 俺は夜道を歩いていたところ、停止標識を無視して突っ込んできた車に跳ね飛ばされたそうだ。その前後の記憶は無いが、一度は生死の境を彷徨った程の大怪我だったらしい。しかし不幸中の幸いか、今はこうして生きており、後遺症も全くなかった。
 目が覚めてからというもの、知人や同僚、両親等々様々な人間からの見舞いや、警察からの事情聴取、相手方からの謝罪の相手をしていたが、ようやく落ち着いて今は静かな日中を過ごしている。

「失礼します。」

 ノックと共に看護師が部屋に入ってくる。

「お怪我の具合はいかがですか?」

「足が動かせない以外は、まあ大丈夫そうです。」

「そうですか。」

 看護師は毎日の簡易的な検査を手早く済ませている。この人は必要以上の事を俺に質問してこない。俺は彼がお気に入りだった。話す言葉の節々に、確かな知性と他者に対する配慮が感じられたのも理由の一つだ。
 窓の外には青空と街並みが地平線に向けてずうっと広がっている。ここは五階で、景色としてはとても良いのだろうが、動かない身体には毒だった。あの夜には重かったあの身体ですら、今ではとても恋しくなる。
 もしかしたら、彼に頼めば外出を許してくれるのではないか…。そんな考えが頭をよぎる。仮にそれが言語道断の主張だったとしても、彼なら理路整然と俺を嗜めてくれるはずだ。

「あの、車いすなんかを使って外を回るのはダメですか。ずっと寝た切りなのも退屈で。」

 彼はバインダーに落としていた視線を少しだけこちらに向けた。鋭くもないが、決して柔和とはいえない目が俺の顔を真っ直ぐに捉える。

「ふむ。」

 彼は少し考えこむようにしながら、再びバインダーに視線を落とした。何かを読んでいるようにも見える。恐らくは、俺の容体と外出に伴う負荷を比較しているのだろう。

 彼は一つ頷くと、パッとこちらに顔を上げた。

「いいでしょう。けど、僕に車いすを押させてください。何かあってはいけないので。」

「勿論。」

「では決まりです。車いすの用意をするので、その間に昼食を食べておいてください。」

そういうと、看護師は部屋を後にした。俺はそれを見届けると、急いで目の前の食べ物を口に運ぶのだった。




 この病院の病室棟は七階建てであり、等間隔に配置された病室がどの階にも並んでいる。そして一階には、リハビリテーションの為の遊歩道が中庭の様に広がっている。
 病室を行ったり来たりしても仕方が無いという事で、俺は遊歩道を回る事にした。
「それにしても、幸運でしたね。」

「え?」

 車いすを押す看護師が突然話し出す。

「いえ、とても危ない状況だったんですよ。先生がおっしゃっていました。出血量が兎に角多くて、かつ比較的珍しい血液型だったものですから、輸血用の血液を用意するのに時間がかかっていたそうなんです。だから血液パックを他病院から取り寄せて、それが届くのを信じてできる限りの事をしてなんとか耐える方向に舵を切ったんです。」

「そんな大変だったんですか。」

「ええ、一時は間に合わないかと先生も諦めかけたそうなんですが、あなたの身体は瀕死の状態に追いやられても、心臓を止めませんでした。あなたに後遺症が無いのもそのお陰です。少しの間でも脳が酸欠状態になれば、脳の細胞は傷ついてしまうのです。しかし心臓が止まらなかったからこそ、脳は酸欠を回避できた。兎に角、なぜあそこであなたが生きていられたのか、先生にも分からないらしいです。『人体というのは、どこまでいっても謎だらけだ。』と笑ってもおられました。」

「そう…ですか。」

「はい。なんにせよ、折角繋ぎ止めた命ですから、これからも大事にしていってくださいね。」

「はぁ。」と空返事をしながら、俺はあの夢の中で出会った少女の事を思い出していた。もしあそこで彼女の手を払っていたのなら、俺は死んでいたのだろうか。

「さて、そろそろ戻りましょうか。」

 彼はそういうと遊歩道の出入り口から棟内に戻り、エレベーターに向かって車いすを押した。

 エレベーターにたどり着くまで、何気なく他の病室を見つめていると、一つだけ扉の空いた病室を見つけた。

「すみません、あそこの病室の扉、空いてますよ。」

「あぁ、いけませんね。」

 彼は俺を廊下の脇に止めて、空いている病室の方へと歩き出した。しかし、その途中で足を止め、訝しげな表情を浮かべていた。

「あの、どうかしましたか。」

「いえ…」

 彼は尚も何かを考えている様子だ。

「あの…?」

 彼は言っていいものかどうか迷っているようだったが、最後にはゆっくりと話し始めた。

「この病室は、殆ど人の出入りが無いんですよ。日に二度、我々看護師が入って中に居る患者さんの衣類を変えたり、身体を動かしたりしてあげるだけで。そして今日の初めにそれをしたのは僕です。僕の記憶が正しければ、扉はきちんと閉めたはずなんです。」

「それじゃあ、お見舞いが来たとか。」

「この方には…家族が居ません。いえ、正確には居たのですが、彼女が眠っている間に亡くなってしまったのです。ですから、お見舞いも来ないのです。」

「それは、寂しいですね。」

 俺がそう零すと、彼はちらりとこちらに目をやった。そして何か意を決したように小さく頷いて、再び車いすの持ち手を握る。

「よければ会ってあげてください。これも何かの縁でしょう。」

「それは構いませんが、大丈夫なのですか?」

「別に誰が入ろうと問題はありませんし、仮になにかあっても僕が責任を取ります。」

 彼は車いすと共に病室のドアをくぐった。

 病室の窓は開いていて、白いレースのカーテンがハラハラとはためいていた。
 ベッドで眠る患者は、まだ十を超えたかどうかという程の少女だった。枕の脇には小さなクマのぬいぐるみが置かれている。しかしそれ以外に私物らしいものはなく、本当に見舞いは無いのだろうと察してしまう。
 俺は目を見開いた。その少女の顔は、短い時間ながらもしっかりと脳裏に刻み込まれていた。

「そういえば、彼女も事故に遭ったんですよ。両親とドライブ中に、横から飛び出してきたトラックと衝突して。両親は即死で、彼女は一命はとりとめましたが、これまで意識を取り戻してはいません。確か…」

 言葉を続けようとした看護師の口が急に止まる。何かに気付いて、ハッと声が漏れた。

「そう、そうだ。確かこの子も、あなたと同じ場所でした。あの辻で事故に遭ったんだ。当時は確かニュースにも取り上げられて、話題になっていたんです。」

 俺は痛む手を伸ばして彼女の頬を撫でた。それは夢で見た時よりやつれているように見えたが、しかしその顔は、見間違いようもなくあの森で、俺の為に祈り、俺の手を取ってくれた少女だったのだ。

「俺が今からする話を、信じてくれますか。」

 俺の声は震えていた。

「はい。」

「俺は、夢を見ていたんです。その夢は、森の中で月を見ているというものでした。そして、俺の横には彼女が居ました。彼女は、俺はまだあっちに帰ることが出来る。あっちで生きる理由もきっとある。俺の未来が少しでも明るくて、暖かなものであるように祈っているといって、俺の手を引いてくれたんです。」

「彼女が、そんなことを。」

「さっき、俺は死の淵を彷徨ったって言ってましたよね。けれど奇跡的に持ちこたえたって。彼女のお陰なんです。彼女が手を引いてくれなかったら、きっと俺は死んでいた。俺は彼女に救われたんです。」

 俺の目はとうに涙で溢れかえり、ぼろぼろと零れ始めていた。

「彼女はこんな状態なのに、俺の為に祈ったんですよ。こんな年端もいかない女の子がです。何故ですか。何故そんな美しい心を持った人が、こんな目にあっているんですか。理不尽でしょう。」

 看護師は沈痛な面持ちのまま、俺の言葉を全て受け止めていた。

「仕方ありません。理不尽なのは今に始まった事ではないんです。もしこの世に理不尽が存在しないのであれば、病院なんて必要ありませんから。」

 俺はベッドの隅に顔をうずめて泣いた。自分の言っている事がめちゃくちゃだと分かっていた。しかしそう叫ばずにはいられなかった。この世に理不尽が溢れていたとしても、この子だけは救われて欲しかった。
 涙で濡れてしまった手で、彼女の手をベッドから出す。そして濡れたままの手で彼女の華奢な手を包み込んだ。

「俺、幸せになるよ。絶対に幸せになって、君の生きられなかった分の時間まで幸せになって、それで、君の祈りが無駄じゃなかったと証明し続けるよ。それで、時々ここに来て話させて欲しい。俺が過ごした時間と、その中にあった温もりを。いいだろう?」

 頭上に少女の手を掲げてかしずくその様は、まるで祈りを捧げているようだった。

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