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「浮き上がる」ということ

 ここに生まれ落ちてからというもの、ずっとずっと追われる身でした。急かされ、焦らされ、突っつかれて、走り続けるしかありませんでした。
 しかしその中で得られたものは、とても良いものだったとは言えません。走り続ける体力と、走る度に足に跳ねた泥の染み、そして道を阻む物々にぶつかってできた生傷くらいのものです。

 痛いし疲れたので、私は少し立ち止まってみる事にしました。いつものバスに今日は乗らず、山でも登ろうと思ったのです。体力だけはありました。

 山に向かう途中、私と同じように走らされている人々が沢山いました。その内の全員が私と同じように考えているとは思いません。きっと走りたくて走り続ける人もいる。しかし、逆も然りです。きっとこの中には、苦しみにあえぎながら尚走る人がいるでしょう。だというのに私は今、足を止めている。情けの無い事です。

 何故走り続けるのか。私は山を登りながら、その一問を思索しました。

 「走らなければ生きられないから」と言ってしまえば話は簡単です。しかし人間は、そんなマグロのような生き物ではありません。衣食住が揃えば、いえ、揃わなくとも生きられてしまう生き物です。では、この「止まってしまえば死ぬ」という強迫観念めいたものは、いったい何なんでしょうか。

 町に囲まれて存在しているこの小山は、休日には人気のハイキングコースとしてそこそこに賑わうのですが、平日の早朝ともなると、あまり人気はありませんでした。閑散とした道を、一歩ずつ登っていきます。高度が上がる度に、走る皆から離れていく感覚がありました。自分だけがグチャグチャの絵の具からスポイトされて、別のパレットに隔離されたようです。一抹の寂しさも感じますが、それより安堵感の方が勝っていました。加えて、この人気のない道を登る事がなんだか特別に思えて、私はワクワクしていました。

 私ははてと考え込みました。今私は安堵しました。ワクワクしました。たかだか小山の道を登るだけの行為の中に、私はこの二つの感情を見つけられたのです。これは走り続けていた日の中には無かったことです。つまり、今の私はあの強迫観念から外れる事が出来たのでしょう。こうして下界から浮いているからでしょうか。

 ではこれからは、ずっと浮いていようか。私はそう考えましたが、しかしそれは良い案とは言えなさそうです。それでは私は空虚になってしまうでしょう。

 あの下界を走り続けながら、こうして浮いていられないものでしょうか。

 山頂が見えてきました。

 山頂からは町が一望できます。小山といっても人間にとってみれば十分な高さで、町の建物がとても小さくなっています。晴れ晴れとした太陽は、私を燦々と照らしていました。

 誰もがこの感覚に飢えている。少しだけ分かったような気がしました。

 私達が走り続けるのは、こうして浮くためなのではないでしょうか。いや、「こうして」というのは不適切です。私達は、人々の織り成す濁流の中に在っても、浮き上がる事が出来るのでしょう。今の私はただ一時的に逃げてきたに過ぎません。

 走り続けてきた私は、土埃や草の擦れた跡で汚れ切っていました。周りのみんなだってそうです。一様に汚れて同じ色をしている。

 それでも走り続けるのは、自分だけの色を見つける為なのではないでしょうか。

 全てがぶちまけられているこのパレットの上で、自分こそは美しく浮き上がろうと、自らを輝かせようとするその欲求こそが、強迫観念の正体なのではないでしょうか。それが正しく作用すれば、人は明るく活動することが出来る。ドイツの詩人が言うところの「青春」を謳歌することが出来るのでしょう。

 しかしそういう人ばかりではない。中には私みたいに疲れてしまって、足を止める人も出てくる。

 けれどそれでも止まれないのは、心のどこかで夢見ているから。

 汚れてしまったこの身のどこか一点でもいいから、浮かばれて欲しいと、美しく輝いて欲しいと、そう願わずにはいられないからでしょう。


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