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「世界はうつくしいと」長田 弘

うつくしいものの話をしよう。
いつからだろう。ふと気がつくと、うつくしいということばを
ためらわず口にすることを、誰もしなくなった。
そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。
うつくしいものをうつくしいと言おう。

風の匂いはうつくしいと。渓谷の
石を伝わってゆく流れはうつくしいと。
午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。
遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。
きらめく川辺の光りはうつくしいと。
おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。
行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。
花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。
雨の日の、家々の屋根の色はうつくしいと。
太い枝を空いっぱいにひろげる
晩秋の古寺の、大銀杏はうつくしいと。
冬がくるまえの曇り日の、南天の小さな朱い実はうつくしいと。
こむらさきの実の紫はうつくしいと。
過ぎてゆく季節はうつくしいと。
さらりと老いてゆく人の姿はうつくしいと。

一体、ニュースとよばれる日々の破片が、
わたしたちの歴史と言うようなものだろうか。
あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
幼い猫とあそぶ一刻はうつくしいと。
シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。
何ひとつ永遠なんてなく、いつか
すべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと。

「世界はうつくしいと」長田 弘


うつくしい、なんて照れくさくて言えない。
きれいやかわいいは、よく使うけど。

でもうつくしいは、きれいとも、かわいいとも、違う気がする。表面的なこと、目に見えることじゃなくて、もっと内面的な、見た目には分かりにくくても、心がじんわり暖かくなるような、そんな素朴な気持ちを表わすことばのように思う。本質を見据えた大人な響き。

長田さんは、なんでもうつくしいと言う。目にうつる自然の景色だけじゃなく、風の匂いも、挨拶も。老いることがうつくしいと本気で言える人はどのくらいいるだろう?私はどうだろう?

書かれているうつくしいものは、日常の些細なものから、雄大なものまで、順番もなく散りばめられていて、毎日ふと見つけるうつくしさとの出会いを再現しているみたい。

私たちのまわりには、こんなにたくさんのうつくしいがあるのに、どうしてそれを素直に言えないんだろう?

それは、ニュースが私たちの歴史になったから。多分、ニュースってゆうのは、文字で伝えられ、頭で考え処理される情報のことだと思う。情報は至る所にひしめいて、ひと時も休む間もなく私たちに考えることを強いる。だからいつからかその情報は、社会の根幹となり、そこに生きる私たちにとって、一番大事なことのように感じられるようになってしまった。

でもそれは本当にそんなに大事なものなんだろうか。
後世まで伝えたい、私たちの生き方なんだろうか。

情報とそれによってつくられた社会の発展は、私たちの暮らしを物質的に豊かにしてくれたはずなのに、私たちの心はいつもすこしだけ渇いている。あと一ページ見出しをクリックすれば、必要なことを知っておける気がする…

だからこそ、うつくしいものをうつくしいと言おう。

このことばは二度書かれている。一度目は、私たちを振り向かせるために。二度目は、その意味を胸に打ち込むために。

猫とあそぶ一刻とは時間(つまり人生そのもの)を、シュロの灰は死を、撒くとは大地に還元されることを、暗示している。

日々の小さなうつくしさがパズルのピースだとすれば、それらが集まって完成した一枚の絵もまた、うつくしいに違いない。

 何ひとつ永遠なんてなく、いつか
 すべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと。

これ以上に願いが込められた"だから"を私は知らない。

この詩がほんとうに伝えたいのは、世界はこんなにうつくしいという事実ではなく、いつかすべてなくなるからこそ、今、生きている私たちが、今、目の前で起こっていることを、うつくしいと思うことができないのなら、私たちの日々、私たちの人生、私たちの存在は、ただただ虚しい無意味なものになってしまう。"だから" 世界はうつくしいと宣言しよう!私たちがこの世界に価値を与えるために。

この詩には祈りのような謙虚さと同時に、私たちの命の在り方を自ら定義する、揺るぎない決意がうたわれているように感じた。

2023.12.28


詩人として活動しています。
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