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 悩み好転!『禅語の智慧』の物語 No.46

【金継ぎ編】

2024年3月30日(土)

悩み事:趣味から生まれる副業の可能性とその課題


目次
1、あらすじ
2、禅語「「遊戯三昧」(ゆげざんまい)」の解説

物語のタイトル:金継ぎ教室と禅語の智慧
1、導入: 裕次郎とまき子の日常
2、裕次郎の悩みと変化の兆し
3、「遊戯三昧」との出会い
4、金継ぎへの情熱の火付け
5、日常の変化
6、「遊戯三昧」の智慧の実践
7、金継ぎ教室の開設
8、まとめ
9、ごあいさつ
10、柔海 剛山(じゅうかいごうざん)の『禅語の俳句』

1、あらすじ
裕次郎、72歳、パートの更新終了を控えた不安を抱えながら、偶然出会った「遊戯三昧」の禅語と金継ぎの技術に心を奪われます。この出会いが彼の人生に新たな章を開き、金継ぎ教室を開設し、日々の生活に深い意味と喜びを見出す旅が始まります。裕次郎と妻まき子の支え合いのもと、困難を乗り越える智慧を共有し、コミュニティに貢献する物語。

2、禅語「「遊戯三昧」(ゆげざんまい)」の解説
「遊戯三昧」(ゆげざんまい)は、無門慧開(むもんえかい)の「無門関」に記された禅語で、仏の境地であらゆる事象を自由自在に楽しむ心境を指します。「遊戯」は何にも囚われずに振る舞うこと、「三昧」は一つのことに夢中になる状態を意味します。この教えは、日常生活の中で起こるさまざまな出来事に対して、心を開き、どんな瞬間も楽しむことの大切さを伝えています。

物語のタイトル:金継ぎ教室と禅語の智慧

1、導入: 裕次郎とまき子の日常
裕次郎、72歳、生計を支えるのは年金とビル清掃のパートタイムの仕事です。彼の妻、まき子は75歳で、専業主婦として夫を支えると共に、フルマラソン7回完走者でもあり、学生時代から続けているバドミントンを現在も楽しんでいるアスリートです。

2、裕次郎の悩みと変化の兆し
裕次郎は会社の規約により、数年後にパートの更新終了で仕事を失うことになります。この収入源を失うことは、裕次郎にとって小遣いだけでなく、生計にも影響を及ぼす大きな問題でした。そんな中、ある日のこと、裕次郎の人生は予想もしなかった方向に進み始めます。YouTubeでたまたま「金継ぎ」に関する動画を観たのです。金継ぎとは、割れたり欠けたりした陶磁器を 漆 (うるし) で接着し、継ぎ目に金や銀、白金などの粉を 蒔 ま いて飾る修復法で、修理後の継ぎ目を「景色」と称し、破損前と異なるさらに美しさ趣を加える日本古来の技術です。この動画を観た瞬間、裕次郎はこの古い技術に深く魅了され、自らもこの技を学び始める決心をしました。

3、「遊戯三昧」との出会い
裕次郎の日常の、通勤途中に立ち寄った図書館でさらに変わりました。新入荷の禅語集の中で、「遊戯三昧」(ゆげざんまい)という禅語に出会ったのです。この禅語は、無門慧開の著作「無門関」に記されており、仏の境地であらゆることを楽しむことを意味しています。「遊戯」は何にも囚われず、自由自在に振る舞うこと。「三昧」は一つのことに夢中になる状態。裕次郎はこの言葉に深い響きを感じ、自らの生活にこれを取り入れることで、パートの仕事を失う不安や将来への懸念を乗り越える新たな道を見出し始めました。

4、金継ぎへの情熱の火付け
金継ぎに魅せられた裕次郎は、技術を習得するための情熱を燃やしました。彼はインターネットで資料を集め、専門の工房で実際に修復技術を学び始めました。金継ぎの魅力は、単に割れたものを修理することだけではありません。欠けた部分に新たな美を加え、物に第二の人生を与えることにあります。裕次郎はこの技術を通じて、物事の捉え方が変わり始めました。不完全なものに価値を見出し、破損さえも美しい歴史として受け入れる金継ぎの哲学は、裕次郎の人生観にも影響を与えました。

5、日常の変化
金継ぎを学び始めてからの裕次郎の生活は、忙しくも充実したものとなりました。毎朝のラジオ体操、坐禅、仏壇への献茶、そしてパートタイムの仕事。その上でブログへの投稿を続け、家事もストレッチ感覚でこなしています。まき子は裕次郎のこれらの活動を支え、家事と健康を考えた調理で夫をサポートしています。

6、「遊戯三昧」の智慧の実践
「遊戯三昧」の教えは、裕次郎が日々の活動をどのように捉え、どのように楽しむかに大きな影響を与えました。好き嫌いや困難を超えて、生活のあらゆる場面で楽しむ心持ちを持つこと。この心持ちは、彼にとって困難な時でも元気を取り戻し、生きる喜びを感じられるようになる重要な要素となりました。

7、金継ぎ教室の開設
やがて、裕次郎は金継ぎの技術に磨きをかけ、その出来栄えが評判となりました。そして、自宅で「金継ぎもったいない」という教室をオープンするに至ります。この教室は、多くの人々に金継ぎの技術とその哲学を共有する場となりました。
裕次郎とまき子は、人生の後半においても新たな情熱を見つけ、それを共有することで生きがいと喜びを見出すことができるということを教えてくれました。「遊戯三昧」の智慧は、私たちが日々直面する困難に対しても、心の持ち方次第で乗り越えられることを示していました。

この教室から、裕次郎はただ金継ぎの技術を教えるだけでなく、人々に「遊戯三昧」の精神、つまりどんな状況でも楽しみを見出し、困難を乗り越える心の持ち方を伝えるようになりました。彼は自分の経験を通じて、人生における挑戦や困難は、それをどのように捉え、どのように対処するかによって、大きくその結果が変わると強く感じています。

裕次郎は、金継ぎ教室を開設してから、生徒たちとの交流を通じて多くを学びました。生徒一人ひとりが金継ぎに込める思いは異なり、それぞれが自分の生活や過去の経験に重なる何かを金継ぎから見出していたのです。教室では、技術的な指導だけでなく、作業を行う中での対話や共有が行われ、金継ぎを通じて生じる繋がりが、人々の心に大きな変化をもたらしていきます。

裕次郎自身も、「遊戯三昧」の教えを日々の生活に深く根ざさせることで、以前よりもずっと柔軟な心持ちで日々を過ごすようになりました。彼は、金継ぎを通して傷ついた物を修復し、新たな美を創造する過程で、人生の困難や挫折もまた、新たな可能性や美しさを生み出す機会であると考えるようになりました。

裕次郎とまき子の日々は、金継ぎ教室の運営、日々の坐禅、健康的なライフスタイルを通じて、さらに充実したものになりました。まき子は夫の新たな挑戦を全力でサポートし、二人の間には以前以上に強い絆が生まれました。裕次郎は、人生のどの段階においても新たな発見があり、学び続けることができるということを実感していました。

8、まとめ
裕次郎はパートの更新終了と将来への不安に直面していましたが、「遊戯三昧」の禅語と金継ぎという技術に出会い、人生に新たな意味と喜びを見出します。この技術と禅の教えを通じて、彼は日常の悩みを超え、心の修復と再生を達成しました。妻のまき子と共に、金継ぎ教室を開設し、コミュニティに貢献することで、二人は人生後半において新たな目的と充実感を実感します。

9、ごあいさつ
親愛なる読者の皆様、裕次郎とまき子の物語へようこそ。この物語は、変化を恐れずに新しい挑戦を受け入れることの美しさと、日々を豊かにする禅語の智慧を綴っています。二人の体験が、皆様の心にも新たな光をもたらすことを願っています。

10、柔海 剛山(じゅうかいごうざん)の『禅語の俳句』          

         禅語のお題:「遊戯三昧」(ゆげざんまい)

心静か 無我の境に 遊びながら

「心静か 無我の境に 遊びながら」の俳句の解説
この俳句は、心の平静と無我の境地を遊びを通して体現する、深遠な禅の教えを表しています。

心静か:内面の平和と静けさを象徴しています。日常の喧騒を超え、心の奥底にある静寂の中で真の自己を見つめる瞬間を捉えています。

無我の境に:自己と外界の境界が消失し、全てと一体となる体験を指します。ここでは、自我の束縛から解放され、全存在と調和する至福の状態を描いています。

遊びながら:生活の中での楽しみや遊びが、実は深い精神的な実践であり得ることを示唆しています。日常の遊びの中にも禅の智慧を見出し、それを通じて精神的な成長を遂げることができるのです。

2024年3月30日(土)
柔海 剛山 拝

【追記】
当サイトは個人的な見解や意見に基づいたものでは一切ありません。
多様な文献や資料、そしてインターネット上の情報源を参考にして、可能な限り柔軟かつ包括的な観点から、情報を物語化して提供することを目的としています。

『柔海 剛山流(じゅうかいごうざんりゅう)あるがままの俳句』とは
「あるがまま」という表現は、曹洞宗の開祖である道元禅師が提唱した生き方の哲学から来ています。この言葉は、物事をそのままの姿、自然な状態で受け入れ、現実を直視することの重要性を強調しています。私の詩作において「あるがままの俳句」という名前を用いるのは、この禅の教えに基づき、自然体でありのままの感覚や感情を詩に昇華させるためです。

伝統的な俳句は、その文字数や季語などの厳密なルールによって特徴づけられますが、現代ではこれらのルールに囚われない形式の俳句も存在します。これは「自由律俳れ、従来の5-7-5の音節制限や季語の必須性を取り払った形式です。

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