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生まれてこないほうが良かったのか?

本を一冊紹介します

「私は生まれてこないほうが良かった」
いつからそう思っていたかは覚えていないけれど、中学生の時に聖書を読んだ中で、ヨブが自身の誕生を嘆く言葉があまりに美しく、自分の中にモヤモヤと存在していた感覚を代弁してくれたような気がして深く安堵したことを覚えています。

なぜ、私は母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか。
せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。
なぜ、膝があって私を抱き、乳房があって乳を飲ませたのか。
それさえなければ、今は黙して伏し、憩いを得て眠りについていたであろうに。
ヨブ記3.11-13(新共同訳)

成人した今もその気持ちは変わらないのですが、森岡正博氏の著書「生まれてこないほうが良かったのか?」(筑摩書房)で、古代ギリシャの時代から綿々と「生まれてこないほうが良かった」と嘆いてきた人々がいることを知り、また深く安堵しました。
この本に興味のある人、あるいは生まれてきたことに引っかかりのある人に向けて、本の紹介をしようと思います。

この本はどういう本か

タイトル : 生まれてこないほうが良かったのか?
著者        : 森岡正博
出版社     : 筑摩書房
価格        : 1800円+税
見た目     : 四六判で黒い表紙に白文字でタイトル(サムネイルの写真)
内容        :
古代から現代まで、数多の哲学者による「生まれてこないほうが良かった」に関する考察を解説したのち、「誕生肯定の哲学」の紹介がなされる。誕生肯定とは、「生まれてきて本当によかったと心の底から思えること」だそう。「生命の哲学」シリーズのうちの一冊となる予定で、続刊は執筆中とのこと。

この本を紹介する理由

はじめに書いたとおり、この本を見つけたときに深い安堵を覚えたためです。「生まれてこないほうが良かった」ことについて、本にしてまで語る人がいるなんて…!
私自身長らく「生まれてこないほうが良かった」と思っていましたが、大きな声で言うことではないと思っていたし、誰かに話せるとも思っていませんでした。自分の誕生を否定するという、ともすれば生物としての在り方に逆らうような考えを持っていることを薄気味悪く思うこともあったし、当然のように妊娠、出産を望み祝福を送る人々の中にいて、疎外感を感じていたことも事実です。

そんな私にとって、過去2500年の間に蓄積されてきた「生まれてこないほうが良かった」という先人の思想をやさしくまとめて解説した本書は、非常にありがたいものでした。
なにより、思っていたより人類に普遍的な嘆きであったこと。
そして古今東西の賢人たちが「生まれてくること」について考察したことを平易な日本語で読めることは、私の中で言語化しづらかった「生まれてこないほうがよかった」にまつわる感覚に、言葉を与えるものでした。

著者は「生まれてこないほうがよかった」を乗り越えて「生まれてきて本当によかった」と思う「誕生肯定」へ行こうとしますが、現時点で著者の考えに賛同できなくても、この本を読むことで自分の中にある「生まれてきたこと」についての考えを深めることができると思います。

この本を紹介する私は何者か

にこらにこらい(@nico_ALCL)と申します。
半年ほど前に血液ガンの一種である、悪性リンパ腫の治療を終えました。治療中のできごとを描いた漫画をnoteで公開しています。

悪性リンパ腫の治療を行う際に、10%の確率で不妊になると告げられましたが、治療が完了して半年ほどで月経が正常になり、妊娠できる体に戻りました。
長らく「生まれてこないほうが良かった」と思っていた身としては子供を産むことは考えていませんでしたが、改めて子供を産むことができるようになったことをきっかけに、自分自身が「生まれてこないほうが良かった」と思っていることや子供を産むということが心を捉えるようになりました。

「私は生まれてこないほうが良かった」と思う理由は、主に二つあるのですが、まずは

私は自分が生まれてくることについて何一つ選べなかった

ということがあります。そもそも生まれてくること自体もそうだし、この性別で、この容貌で、この知能で、この時代のこの家庭に生まれてくこと…気が付いたらそこに、そのように存在させられていたのです。
また、たとえどんなに良い条件がそろっていたとしても、

生まれてきたからには、苦しみを経験することだけは間違いない

というのが二つ目の理由です。

今まで人生いろいろあったし、ガンになっていっそう思うのですが、私はこの世に強い執着があります。この世には美しいものや素晴らしいものがたくさんあるのに、いつか必ず、否応なく別れを告げなければなりません。そのタイミングも選べません。「最後にこれだけはやっておきたい」といった切なる願いも叶ったり叶わなかったりするのでしょう。

これほど手放しがたく、「死にたくない、死にたくない」という思いをするくらいなら、いっそこの世を知らないほうが、生まれてこないほうがよかった。今はその思いが強くあります。

そのため、私にとって子供を産むことは苦悩の再生産です。

さあ、これがあなたに与えられた人生だ。私はできるだけサポートするけど、生きていくのはあなただよ。望んでいようがいるまいが、人生の喜びも苦しみも、全て引き受けるのはあなたなんだ…

私には、そう言って他者に人生を押し付けることなんてできない。私はそこに暴力のようなものを感じます。

ただ、私自身はそう思って子供を産まない選択をするけれど、子供を産む(産んだ)人を非難する意図はないし、この世に生まれてきた命に対してはできるだけ良いものに触れられるようなサポートはしたいと思っています。

そしてこの世にやってきた私自身も、生まれてきたからにはできるだけ良い人生を送りたいとも思っています。

この本を読んで思ったこと

本書は「生まれてこないほうが良かった」にまつわる古今東西の思想の紹介や解説が大部分で、著者の誕生肯定への哲学は入口の紹介で、詳しくは続刊にて語られるのだと思います。

そのためか、大きく考えていることは変わりませんでした。
ただ、今まで自分になかった視点だと思ったことがあります。その内容を私なりにまとめると下記のようになります。

私は「私が生まれてこなかった」状態を正しく想像することはできない。

なぜなら、もし私が生まれてこなかったなら、私はここにいないはずであり、「私が生まれてこなかったなら」という問いを立てること自体が不可能であるから。
「私が生まれてこなかったなら」と想像することは、そのことを判断する「私」を抹消してしまうため、私は「私が生まれてこなかった」状態を正しく想像することはできない。
そして、想像すらできないものに対して価値判断を行うことは不可能である。
そのため、「私が生まれてきたこと」は「私が生まれてこなかったこと」と比べて良いか悪いか、などど判断をすることはできない。
つまり「私は生まれてこないほうが良かった」というのは、(そう言っちゃう気持ちはわかるけど)論理的には正しくない。

書いてあることは理解したと思ったのですが、納得には至っていない、という感覚があります。

先日両親になぜ子供を産んだのか、子供を産むことは良いことなのか考えたことはあるのかと質問をしました。
回答としては二人とも「そんなこと深く考えたことなかった」というものでした。「そんなこと言ったって、もうお前は生まれてきたんだから」とも。

さらに母からは「お前がどんなふうに生まれてくるか、生まれてきてからどういう人生を送ることになるか、ガンになったことだって、私には予知もコントロールもできないことだから、子供を産むことを良いとか悪いとかは思わない」とも言われました。

この話を聞いたときに、「私が生まれてきたこと」は善悪の判断軸にはない、という先の理論を思い出して、なるほど子供を産むことを当然と思う人たちは、これが基本的な認識なのか、と思いました。
しかし、「私が生まれてきたこと」自体は良くも悪くもないとしても、「私が生まれてきたこと」によっていずれ私は死んでしまう、そのために私自身が苦しむことは私としては「悪いこと」と言いたくなる気持ちがあります。

私は常に「生まれてこないほうがよかった」と思っているわけではないし、この世が素晴らしいものであることも知っています。この素晴らしい世をいずれ必ず、自身のコントロールできないタイミングで去ることの苦痛を補って余りある「生まれてきてよかった良かった」と思うできごとや人やモノや境地が、いずれ私に訪れるのでしょうか。

今まではガンになったことを契機に、死ぬことから生きることを考えていましたが、死亡の対極である出生から生きることを考えることも私には必要だと思い、「生命の哲学」シリーズの続刊を楽しみにしています。

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