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人生いろいろ。         という程の人生でもないか。その4

 福岡への引っ越しは、新幹線での移動だった。

 荷物を全部トラックに載せ、人間が移動開始出来たのは夕方4時過ぎ。お世話になったご近所さんへの挨拶をして、タクシーで国鉄名古屋駅へ。新幹線が出発したのは6時を回っていたと思う。しかも自由席。当然座れる席などなく、両親は通路に立ったまま、私達姉妹は床に置いたカバンの上に腰掛けて、多分広島くらいまではそのままだったのではないかと思う。母の機嫌はどんどん降下し、父も疲れ切った様子だったのを覚えている。
 博多駅に着いたのは夜の11時過ぎ。終電だった。
 博多口を出てもタクシーは停まっておらず、徒歩で大博通り沿いのホテルへ移動。ここで溜まりに溜まった母の苛立ちが爆発。こんな時間に子供達を歩かせるなんて云々。父も、まさか博多駅でタクシーがつかまらないなんて思ってもいなかったのではないかと思われるが、何も言い返す事も出来ないようで、黙々と歩いていたと記憶している。私自身も疲れていたとは思うが、今まで経験したことがない時間の散歩を楽しんでいたし、翌朝ホテルで目が覚めた時は、ワクワクが止まらなかった。



 福岡には小学5年生から過ごす事になった。
 担任の先生は20代の先生で、男性だけど女性的な優しさも持っている先生だった。子供が何か失敗しても、頭ごなしに叱りつけることはなく、まずはなぜそんな事をしたのか、子供の気持ちを聞いてくれる先生だった。その上で公平な態度で接してくれる、本当に良い先生だった。なので子供達の信頼も篤く、今頃に開催される同窓会にも、漏れなく招待・参加されている。


 クラスの中で陰口による虐めが問題になった時、主な虐めの首謀者が誰なのか、被害者は誰なのか、わかったうえで抽象的な言葉と具体的な内容を織り交ぜ、クラス会を開催した事をがある。
はじめの問題提起こそ先生がされたが、あとは子供達だけで討議するようにお膳立てをすると、黙って見守ってくれていた。
 当事者は口を開くことはなかったが、多くのクラスメイトが、時に涙しながら思う事を述べている様子は、虐めていた子の心に強く訴えるものがあったのだと思う。それ以降、クラスの中で虐めが問題になる事はなく、持ち上がりとなった6年生も仲の良いクラスとなった。



 同じクラスの男の子に、仄かな好意をもったのはこの頃だった。
私も小柄だったが、相手の男の子も小柄。ただ、私と違ったのは、勉強も出来てスポーツも出来て、顔も整っているという典型的モテ男の要素を4つのうち3つを兼ね揃えていたのだ。多分私以外にも彼を好きな女子は多かったと思う。その頃の小学生は今ほどませてはいなかったので、表立って騒ぐ事はなかったけども。

 45歳の時に開催された同窓会で、中学卒業振りに合った彼は、見る影なくおデブさんになっていたが、それでも整った顔に面影はあった。




 小学校卒業間近の3学期に、それは起こった。
 先生がお正月に酔って転けた時、ストーブにかけてあったやかんの熱湯を頭に被って緊急入金をしたとの話しが、冬休み明けの私達にもたらされた。
 皆一様にショックを受け、大丈夫なのかと、口々にそれを知られてきた先生(多分教頭先生だったと思う)に質問をしていた。大丈夫だけど暫くはお休みだと言われ、私自身もがっかりした記憶がある。代理の先生の顔なんか覚えていない。
 その後、担任の先生は無事復帰され、私達の卒業を見送ってくれたが、酔って怪我をするような教師に子供達を預ける事は出来ないというPTA からの苦情が殺到したため、その年で転任することとなってしまった。

 どんなオチがあっても、今でもこの先生が大好きで、尊敬するひとの一人となっている。

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