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看護師歴36年。 バツイチ。 息子ひとり。

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最近の記事

人生いろいろ。           という程の人生でもないか。その5

 小学校を卒業して、すぐ隣にある中学に入学。  私の中学時代は、武田鉄矢主演のドラマ、金八先生が一斉を風靡していた。ドラマの中の金八先生と現実の先生の姿とのギャップに、子供だった私達は不満を大いに募らせていた。今考えれば、ドラマなんだからいくらでも理想を詰め込む事ができたし、それに乗せられた私達は、ずいぶん素直だったのだと思う。先生方はいい迷惑だったろう。  厨二病という言葉が生まれたのは、多分この頃ではないだろうか。その言葉通り、私も物事を斜に捉えて一人前に反抗期なるものを

    • 人生いろいろ。         という程の人生でもないか。その4

       福岡への引っ越しは、新幹線での移動だった。  荷物を全部トラックに載せ、人間が移動開始出来たのは夕方4時過ぎ。お世話になったご近所さんへの挨拶をして、タクシーで国鉄名古屋駅へ。新幹線が出発したのは6時を回っていたと思う。しかも自由席。当然座れる席などなく、両親は通路に立ったまま、私達姉妹は床に置いたカバンの上に腰掛けて、多分広島くらいまではそのままだったのではないかと思う。母の機嫌はどんどん降下し、父も疲れ切った様子だったのを覚えている。  博多駅に着いたのは夜の11時過

      • 人生いろいろ。      という程の人生でもないか。その3

           小学3年生の10月、名古屋市の公団住宅の抽選に当たって引っ越すことになった。たまは気配を感じたのか、いつの間にか家に戻らなくなった。恐らく野良に戻ったのだろう。  新居は3DKで、5人家族には決して広いとは言えない間取りだが、その頃はそれが当たり前だった。 6畳の部屋ひとつが子供部屋になり、学習机2台と本棚が入れられた。6畳のDKには、母が憧れていたダイニングテーブルが置かれ、4.5畳の洋室には前の家からあったソファが置かれた。お陰で荷物がひしめく家だったが、子供が小

        • 人生いろいろ。   というほどの人生でもないか。その2

           小学校入学の年、2Kでは学習机を2台入れる事が難しいという事で、結構大きな戸建ての借家にお引越し。同じ市内の隣町だった。母屋は藁葺き屋根にトタンを被せた建物で、今で言うところの古民家だ。日当たりの悪い中庭に渡り廊下が通っており、途中にDK、浴室、トイレがあって、建増しした所にリビングと玄関があった。トイレは所謂ぼっとん便所。ここに来る前に住んでいた2Kのアパートは、その時代まだ珍しかった洋式トイレだったため、ぼっとんは却ってある意味新鮮だった記憶がある。トイレの壁が土壁で、

        人生いろいろ。           という程の人生でもないか。その5

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        • 私の青春
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          人生いろいろ。   という程の人生でもないか。その1

           55歳になるこの年。 シネマイオンではいつでも1100円で映画を観れるという。年を重ねて得する事もあるんだと、ちょっと嬉しかったりする。  さて、私のここまでの人生は可もなく不可もなく。しかし人の数だけドラマがあるとも言われるし、一度自分の人生を振り返り、文字に起こしてみようか。 尤も小さい頃の話は、主に母の記憶を擬えたものになりはするが。  1966年広島市で産声をあげた私は、出生時体重なんと3800g。今の時代でも超巨大児だ。小柄な母はさぞかし難産で苦しんだのではと

          人生いろいろ。   という程の人生でもないか。その1

          懐かし木造モルタル造り

          #はじめて借りたあの部屋  30年前に自分で契約したのは、当時働いていた職場から徒歩5分の、木造モルタル造り2階建てアパート。  2DKで家賃34,000円。  それまでは入居期限付きの寮生活だったが、退去期限が近づいてきたため、通勤時間を考慮して近場の賃貸を探しているときだった。知り合いがそのアパートの1階に家族4人で住んでいて、「うちの上が空いてるよ」と教えてくれたのが、そのアパートを選ぶ切欠だった。  契約には当然保証人は必要だが、バブルで世間が沸き立っていたあ

          懐かし木造モルタル造り