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芸術論(?)
多分1ヶ月以上投稿をサボっておりました……。これ以上この記事を書くことを放置するともう一生書かない気がしたので、とりあえず書き切ってしまいました。今回もよければお付き合いください。
9月末に大阪中之島美術館で開催していた岡本太郎展に行ってきました。珍しくも展示物の写真撮影がOKな展覧会だったので、バンバン撮影してきました。
1.キッカケ
岡本太郎といえば、「太陽の塔」くらいのイメージしかありませんでした。今回この展覧会に行こうと思ったきっかけは、京都大学の2022年度の入試問題で、岡本太郎の「日本の芸術」を読んだからです。
「失われたものが大きいなら、ならばこそ、それを十分に穴埋めすることはもちろん、その悔いと空虚を逆の力に作用させて、それよりもっとすぐれたものを作る。そう決意すればなんでもない。そしてそれを伝統におしあげたらよいのです。」
「今までの登録商標付きの伝統はもうたくさんだし、誰だって面倒臭くて、そっぽを向くに決まっています。戦争と敗北によって、あきらかな断絶がおこなわれ、いい気な伝統主義にピシリと終止符が打たれたとしたら、一時的な空白、教養の低下なんぞ、お安い御用です。」
この激しさが大変好ましい。既存の価値を見透かして、消し炭になるまで、いやなってからでさえも、命を燃やし何かを生み出そうとする姿勢に大変共感を覚えました。それこそ私がnoteで何かを書かなければと追い立てられたのと同じです。そうしたら、丁度、行ける場所・行ける日程で岡本太郎の作品を観れるということで、行ってきました。
2.お気に入り
芸術に造詣があるわけでもない私ですが、意外と美術館は好きでして、2ヶ月1回くらいは行きたいと思っています。芸術の鑑賞のお作法は知らないですが、太郎氏はむしろ「素人の目で見よ」と叫んでくれると思うので、抽象画ど素人の視点から,いいなぁ,と何故か思った作品をご紹介します。
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この中では,作品Cが一番好きです。実はコチラはつい最近フランスの田舎の村のゴミ捨て場に見つかった作品です。太郎氏は若い時分にフランスで長いこと生活をしていました。その時代の作品である可能性が非常に高いそうです(現在検証中)。
この絵は、鑑賞者によってかなり見方が変わってくるのではないかと思います。私には、ナニカが祈るように目を伏せながら接吻しているように見えます。愛欲からというよりは、畏敬の念が込められた接吻のようです。この絵からは哀切と畏怖の念が入り混じる魂が描かれているのかなぁ…と感じてみたり。
絵画の抽象度が高いがゆえに、自主的に「こういうことかな?」「ああいうことかな?」と解釈しようとしてみたり、「よく分からん」と突き放してみたり、そういう過程を要求される作品鑑賞でした。普段よく接する芸術(私の場合は寺社仏閣と仏像)とは全く趣が違い、大変刺激的でした。(作品の解説文には、そもそもそういう解釈過程すらも拒絶する、という趣旨で描かれた作品です、というのもありましたが…。)
岡本太郎氏は、作品に下された社会的・専門的評価ではなく、作品に接した際の鑑賞者の内部で生じる反応こそ、より大事にしてほしい、と主張したかったんじゃないかなぁと思いました。
4.もう一つの鑑賞:正倉院展
岡本太郎氏は、『日本の芸術』の中で、「古来から良いモノ」とされてきたモノに対する色眼鏡を厳しく批判し、そんなものをありがたがる前に、素人の目で作品の良さを感じ取れ!(意訳)と激しく主張しています。
岡本太郎氏の指摘も尤もだな、と思う反面、ちょっと反論したい気持ちもあります。
私は幼い頃から、ほぼ毎年、奈良国立博物館で開かれる正倉院展に行っています。忌憚なく感想を述べるならば、数多くの展示品の中で思わず魅入ってしまうようなものにであるのは数年に一度あればいい方で、大半は見ていてそんなに楽しいモノでもありません。それでもわざわざ観に行く私の心の目には、「正倉院の宝物だから、きっとすごいんだろう」という“色眼鏡”がかかっていることも認めます。
でもやはり、過去それが宝物として扱われていたということを知ってこそ、むしろ“色眼鏡”を受け入れてこそ、本当の意味で“自分の眼鏡”が手に入るんじゃないかとも思うのです。
正倉院展の宝物を見ていると、私たちの感覚と連続している部分や非連続している部分を発見したり、また当時の色鮮やかな衣装に思いを馳せたり、当時の美的感覚に思いを馳せたりします。
本当にただ、自分の内側から湧き出る感覚のみで、作品を批評したり作品を作成したりしても、それは本当に良い作品になるのでしょうか。岡本太郎氏の主張には、良い作品を見抜く力というものが、人間には生来的に完備されているという前提がないと成り立たないのかな、とも思います。私は、それは【無い】と思うんですよね。あっても、ものすごく個人差がある。事後的に獲得できるモノでもあるとは思いますが、その獲得の過程には、「何がみんなから評価されているのか」と「自分の感覚はそれと合致するか、合致しないのか」を知るという作業がやっぱり要るかなぁ、と。
5.芸術の鑑賞
今年は、岡本太郎展に行った1ヶ月後くらいに正倉院展に行きました。二つのかなり性格を異なる芸術鑑賞を通して、作品は彼我によって完成する、ということを感じました。作成者の意図と鑑賞者の意図がぶつかり合って、やっと意味や価値が生まれる。これは芸術作品に限らない。居合道の演武や短歌の場合も同じです。
作品(絵画、演武、短歌、etc)の意味と価値(作品に対する社会的評価、居合道の試合の勝ち負け、短歌の良し悪し)を決めるものは、作成者だけでもなければ鑑賞者だけでもありません。両者が向かい合って、しかも、両者の間に越えがたい隔たりがあるからこそ、そこに余白が生まれて、余白から新しい意味や価値が生み出されます。
もっと具体的にいうと、例えば、先ほどの「作品C」をじっと見つめていても、作成者の意図は正直見えてきません。作成者が何を思い、何を表現しようとしたかったのかを本当に理解し尽くすことは不可能です。またそれを仮に理解できたとしても、それを鑑賞者が必然受け入れるわけでも無いわけです。鑑賞者ごとに作品Cを通して様々なことを感じ、またそれを下敷きに何かを表現して、その過程でまた新しい意味や価値が生み出されていく。新たに生まれた価値や意味が、社会の多くの人に支持されたなら、それが新しい「伝統」として受けいられていくんでしょうね。
その作品それ自体というよりは、その営みこそ、「芸術」だ、と岡本太郎氏は言いたかったんでは無いかな、と、また私も勝手に思ったりした次第です。
芸術作品に触れる機会が欲しいのは、自分の中にない感覚を注入したいからだったんですが、今回は二つの鑑賞体験を通じて、創作作業過程(私の場合は主に居合道と作歌)の整理が思いがけずできました。今後も、芸術鑑賞に限らず、未知の世界と接点を持つ機会を定期的に設けていきたいです。
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