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5月19日は雨でした。

5月19日は雨でした。

「月ってさ…………手を伸ばせばのばすほど遠く感じるよね」

高く手を突き上げた彼女を見て、俺は空を見上げた。

満天の星が、ビーズくらいの大きさで輝くのを横目に月はこれ見よがしに輝いて見せた。


「けど、あそこは人が行ったことあるんだぞ?」


それを聴いて口元を緩めた彼女は、口を開いた。

「そうだねぇ、人が行けるくらい近いのに。……なのに私は行くこともないんだろうなぁ。」

その言葉が少し引っかかって思わず抱きしめそうになった。

「どんな景色なんだろぅ、地球って綺麗なんだろうなぁ。」

パソコンで見た動画を思い出して口を開きかけたがやめた。


彼女が言いたいのはきっと『生』で見ることなんだ。


それよりも、月の光が降り注いで夜なのに明るい今、より一層彼女が輝いて見える。


絵画でしか見たことがない美しさに胸が痛くなる。

「いつか行けるんじゃないか?」

根拠もなく思いつきで言葉が出た。


「なぁに?それ、また思いつき?」

月から俺を見やる彼女の笑顔にドキリとする。


久々の同窓会、地元の飲み屋で二次会まで済ませた俺たちは見事にできあがっていた。

三次会はさすがに体力面で、と帰宅の意を吐いたメンツに乗っかって、俺は鞄と帽子を取りに向かった。

するとそこに彼女が立ちはだかった。


『高橋めぐみ』

帽子をかぶって鞄に手をかけるとメグミは俺の手を掴んで呟いた。

「……帰っちゃうの?」

潤む目と赤い顔は酒のせいで、掴んだのはヨロメいたから、台詞に至っては『三次会までいろよ、空気読めや!』の意味が乗せられる。

が、男はそれを勘違いする。


しかし!俺はノセられはしない!


やらせはせんぞ!×2で心を保って優しく言葉を吐いた。

「明日早いから」と。

さらに潤む目を見ないように背中を向けて、同級に軽く謝りながら店の出口に向かう。


もう頭の中は『早く寝よ。』くらいしかない。

昔から俺は洒落っ気がなく、いや、ユーモアとかはあるんだけど、何をするにしても『メンドクサい』と頭が思う。


その思いよりもやりたいことの思いが勝てば行動する。


当たり前のことだが、それを認識するのは難しいことだ。

Tシャツ短パン、キャップにショルダー、まるで夏休みの子供の格好をした23歳の俺は下駄箱に手を伸ばした。


開くと去年買ったブランド物のスニーカーが『待ってました』と姿を現す。


スニーカーのヒモを結び、立ち上がって外にでた。

店員の優しい送り出しの言葉を受けて通りに出て手のひらを体の前で上に向けた。

「雨、やんだんだ。」
この口にした言葉がよもや自分に向けられるとは、誰も未だ思わないでしょう!?

雨がやんだ直後の澄んだ空気は肺にはいると胸に駆け上がるようで、俺は少し胸が締め付けられるようだ。


じっとりと湿気を含んだアスファルトがいつもよりも柔らかく感じてしまい、素手で触りたくなるのは俺だけなのか。

目をつぶり静かに深呼吸をして吐き出した息はアルコールをたっぷりと含んで、甘みをかもしていた。


「雨やんだんだね。」


背中からした声にドキリとして振り向きながら後ずさりをする。

2、3歩目に転けそうになったが、なんとか手をついて持ち直した。

「あぶね!………………あれ?まだ飲んでんじゃないのか?」

声の主に投げかけた言葉は少しのため息と落胆によって打ち返される。

まぁね、誰かさんが退席したから、味も素っ気も無くなっちゃったよ。」


声の主は俺に近づいて頭を軽く小突いた。


「酒は静かに飲んだ方がうまいんだぞ?」
その手を優しく払いながら言う。

「私はどっちにしてもお酒はおいしくないよ。」


言いながら手のひらを上に向けたメグミは何かの匂いを嗅ぐように鼻をひくつかせた。

ひくつかせたのはメグミなのに、なぜか俺が甘い匂いを感じ取った。


「そぉか?……『軒醒め』しか飲んでないからじゃないか?」
「ノキザメ?なにそれ。そんな名前のお酒飲んでないよ?」

クリン。と向き直ったメグミは子供に見間違えそうな雰囲気をかもしだした。

「軒醒めは……なんつーかな。…………つか、お前昔俺の家で『あぶさん』読まなかったか?それに描いてあったけど……。」


「あぶさん?」

「……いや……いい。」

「軒醒めってのは店の軒をでるまでは酔ってるんだけど、軒をでたら醒めてしまうほどしか美味くない酒、軒醒めのほかに『街醒め』『県醒め』があるんだよ。」

「へー。」

微かに香る昔の思い出を思い出すように僕は顔を上に向けた。

「じゃあ、県醒め飲んだことあるの?」


その無為な質問に僕は首を縦に下ろした。

「少し前に親戚のおじさんが来たときに、たしか……『久保田』っつう名前の酒だったかな……。口当たりよくてさ、飲んだんだけど、美味すぎて酔ってることすらわからなくてテンションあがっちゃったよ。」

「じゃあさ、じゃあさ!私にも飲ませて!」


腕を引っ張って言うその仕草は酒が入っているからか、昔の要素をにわかに見せていた。


「『久保田』は高いんだよ。すぐに手にはいるのは……度数高くて甘いの大丈夫か?」

それ、おいしい?」


「甘いのが平気なら美味いけど。」
コンビニへの道のりを促しながら、俺は口を開いた。

「ん……わからないけど、たぶん平気。」

考える要素すら見せずにメグミは口を開く。


「じゃあ少し待ってて。」
そう言ってコンビニに入って、目当てを探した。

ほれ、買ってきたぞ。」


手提げをブラツかせながら手渡した、その中身を見てメグミは口を曲げた。

「洋酒じゃん。しかも小瓶。」

手提げを取り上げて責をあげ、俺は説明する。


「これかなり美味いんだぞ!このサイズじゃないと飲み過ぎてマヂに死ぬるから!」


『クアントロー』
・フランスのリキュール
・アルコール度数……40°
・口当たり甘く、喉灼け必至
※お酒は二十歳をすぎてから飲みましょう。

※アルコールは体内の浸透膜関係なく、直接脳まで進行し、脳の著しい成長を阻害、結果、脳が発達しなくなり、脳にゴルフボール程度の空洞を構成させる。

構成場所は脳幹(呼吸など、原始的な作用を司る部位。)付近にでき、早くはアルツハイマーやその他の弊害を促進する。

やる気がない、学習できない、自発性がないなどはここに以上が見受けられるから、という。

※お酒のがぶ飲みは急性的に脳の活動を阻害するため、呼吸困難、脳性麻痺、アル中に陥る。

「ホントに美味しいの?」


疑う要素しかないメグミは僕を上目遣いで見つめた。

それを感じないように口を開く。

「美味いよ、道ばたで飲むのも心苦しいから、どっか行こう。……たしか公園あったよな。」

促した先にある公園へ歩き出しながら考えていた。


酒に酒を煽るこの飲酒は体にかなり悪いんじゃないだろうかと。

太陽が眠りについて、月が代わりに存在感をかもしている時分(じぶん)。


澄んだ空気を吸うと幾分か酔いが醒める気がした。

できるならば酔いが醒めないまま、宵闇(よいやみ)を歩ければどんなにかいいだろうか。

それこそ、県醒めを入れた体なら不思議の国に行けるくらい、軽やかに歩みを進められるのに。


そんなことすら考えさせるこの現(うつつ)は、もはやこの世のものではないのかもしれない。

「あ、星が綺麗!」
指をさす先に光る星は、およそ遙か昔の光ではないような美しさがある。

いったい何を伝えたくて俺たちの星まで光を届けているのだろうか。


何万光年という莫大な時間を費やしてやってきた光を、大多数の人類は「わ、きれい!」だとか、「あれはさそり座だな。」とかしか思わずに人生を過ごす。


「あ、そうか……」
「ん?」


思わず呟いていた。

きっと星は『自分の存在を認識させる』為だけに光を届けているんだ。


なんとも切ない話じゃないか。
「どうしたの?」

星の光に照らされて立ちすくむ俺を、メグミは猫のように見上げた。

「いや、星が綺麗だなって。」

「それ今私が言ったし。」

「え?」


プン!と背中を向ける仕草をしたメグミは、さながら飼い主に逆らう猫。


『自由』を体現する姿。

「ーまた思いつき?」

月から俺を見やる彼女の笑顔にドキリとする。


目の深いところで俺自身を見定めて、俺が俺であることを確認しているようだ。

ベンチに腰をかけるとじんわりとズボンが冷たくなる、まだ湿気を少し含んでいるんだろう。

買ってきた小瓶を取り出して、用済みの袋をひいて促した。

小瓶の蓋を開けてみると中身の匂いが拡散していく。


一口含んで一気に腹の底に押し込んだ。

爽やかさを押しつけられたような感覚が胃から喉、鼻に駆け上がって俺のすべてに威嚇して回る。

これがたまらないのだ。

まるで覚醒するヒーローのように体中が目を覚ますような感覚。


……たまらない

「っぷは!……くぅ~……ん、たまらねぇ!」


「おっさんか!」
ツッコまれた手にそのまま小瓶を渡す。


「ほれ。街醒め、飲めるか?」


バカは死ななきゃ治らない。


俺はきっとずっとバカなんだろうな……。


じゃなきゃこんなところでアルコール度40を飲むことはない。


それに……。

小瓶を渡されたメグミは躊躇いながら少し口に含んだ。


「!!っは!ぶはっ!強っ!」

少し吐き出しながら小瓶を俺に押しつけて遠ざける。


「だからアルコール40だって、これが美味いんだって……っはぁ!たまらん。」


体が温まっていくのがよくわかる。

アルコールのせいだけじゃないけど。


『間接キス』

子供じみてくだらないけれど、ドキドキしてしまう。


男はいつまでたっても男なのか……。

「間接キス。」


「え!?」


その言葉に思わず少し吐き出した。


「なーんて、こんなこと気にする人いないか。」

その言葉にも思わず吐き出した。


「……ってもしかして気にしてた?」

さらに吐き出した。

貴重な小瓶の中身を貴重な言葉で台無しにする。


「っげほ!ぐほ!」


「あら、ホントに気にしてたのか。…………思ったよりもロマンチストなんだ?」


その言葉には無言で中身を口に含む。


「……」


「…………」

アルコールのせいで鼓動が高鳴っていく。

「私ね…………ずっと考えていた…………」

「……何を?」


小瓶を口に運ぶ。

甘みが口に広がって鼻に抜ける。

「なんで、人は人を好きになるのかなぁって……」


「……子孫繁栄の為じゃないか?…………ほら『血を絶やさないようにぃ』とか、『優秀な遺伝子をうんたらかんたら』とか。」


少し考えて吐き出した答えは、的を獲たようで、少しずれたような、モヤモヤした感じが頭をかいていく。


「…………けど、なら。人を好きになる必要はないんじゃない?……その、血を絶やさないことを前提にして…………遺伝子を…………というか、そんな好きとかの感情もないまま……子供を作ればいいんだし…………」


「うー……ん。たしかに……けど、『好きになる』ってことは人として優秀な遺伝子があるって思うからじゃないか?……俺にとって不思議なのは、夜を交わすときになんで快楽を得られるのか……だよ。」


「ヨルヲカワス?」

少し恥ずかしげに小瓶を口に運んでから言った。
「せっくすだよ。」


「あっ。」

メグミはうつむいてしまった。

俺はクアントローを飲みながら空を観た。


「…………」

「……」

この下ネタを挟んだときの気まずさは何なんだろうか。


気まずさに打ち勝つこともなく俺は一口、また一口アルコールを含んでいた。

「ね…………好きな人じゃなくてもつき合える人?」

気まずさを消したのはメグミだった。

「……いんやたぶん無理。」


「……そう……」

「……」
「……」

「お前は?つき合えるの?」


「いや、無理かも……」

「だろ?」
「うん。」

「……」
「……」

「そもそもさ、なんで『好き』なんて考えるんだろうな……。」
「うん……。」

どうやら気まずさを作るのは俺のようだ。


「そういえばさ、今なにやってるん?」


メグミは俺をまっすぐ見上げた、服の隙間からチラリと見えた胸元から目線をそらして空を見上げる。

「私は学校の先生になったよ。」

「へぇ~」

「ほら、玉城先生覚えてる?」
「ああ、巨乳の先生だろ?」

「おほん!……そう、剣道部のね。私あの人に憧れてがんばったんだ。」

「へぇ~、ご立派な。」

興味がないわけじゃない、ただ聞いても何もできないのを知っているだけだ。


「そっちは?」
「……俺?」

コクン。と縦に揺れた頭からシャンプーの香りが漏れた。


「俺は……何もしていない。ただバイトして、ただ生きている。」

「……なんで?」

「『なんで?』?」


当たり前の質問にして希代(きだい)の質問かもしれない。

「そうだなぁ、死にたくないから生きるためには『金』が必要で、『金』を稼ぐのが目標だから仕事のピンキリを考えない。すると何も得られない。」


淡々と言う口はもはや俺のではなかった。


「……やりたいことはないの?」


ある。


かなり。ある。


だけど、やりたいことをやれている人が人口の一部もいないのを知っている。


それに……。

「俺の『やりたいこと』は金にならないからなぁ……」


アルコールのせいか、いつもは呟かないのに……。


「…………なんで?」


「……え?」

メグミは真っ直ぐに俺を見つめた。

「なんで『お金にならない』ってわかるの?」

「なんでって。」

「誰かに言われたの?」


「…………いや。」

メグミは顔を背けない。

誰かに言われたりしていない。

誰かに決められたりしていない。


決めていたのは……


「誰も言ってないなら……だいじょぶなんじゃない?」


社会の風潮として。


大人の世界として。

やりたいことをやっている人はダメで。

一般の意識として。


良い学校に行って、一流企業に入って……。

が、『社会人』として一流で。

社会の一部として生きるのが人間の本質だと、無言の圧力は言っている。


やりたいことを探している人は歯車にはならない人が多く、社会から卑下されている風刺がある。

と、なると。


やりたいことを40年我慢しながら社会になじみ、残り20年以内の人生でやりたいことをやるのが一般であると。


なら、40年以内に命がつきたら?

恐ろしくなって、夜眠れなくなったことを思い出した。


『人間』として生きるには、歯車になっていく、『ヒト』として生きるには歯車にならない。

簡単なことなのに、社会は歯車に金をだしたりするからおかしくなる。

ぶっ飛んだ持論である。


「ねぇ。」

風が止んだ気がする。


「もしかして、傷つくのが……怖い?」

ドキリとした。


怖い……。

そうか。

俺は怖いのか。


やりたいことをやれないのを世界のせい、他人のせいにして、成し遂げられないのが怖いのか?

「そうか……。」

呟いたことすら気がつかないほど、頭の中が言葉で支配される。

手のひらを見つめた。

手相なんてわからないが、きっと軟弱な線が刻まれているんだろう。

グッと握ってみた。


大事なのは他人がどう想うかじゃない。

俺がどう思うかだ。


名もない抒情詩

『では、もう一度お願いします。』


テレビから無神経な音が騒いでいた。

なんでも『夢は必ず叶う』なんてほざくジジィの特集らしい。

アンプにつながないギターを指で撫でてみた。

なんとも貧相な言葉しか吐かない。

ライブハウスから放り出されて一週間、落胆はギターに任せてある。


客の一言に苛ついて暴力沙汰を起こしてしまったんだ。

テレビに映るジジィはにこやかな顔で語っている。


『やりたいことやりつくすまで死ねないんだよ』

自嘲にも聞こえて、かなり腹立たしい。

それは、夏が近くなっている、そう心に思って太陽を眺めていた日だった。


バンド『ラスノーチェス』

たしかスパニッシュの言葉だったか、大好きなマンガに書いてあった言葉をバンド名につけた。

完全な見切り発車でスタートしたバンド。

自らの思いを告げる歌。

世界を歌で一つに。


……なんて、ホントは思ってすらいなかった。


君と1秒でも長く同じ空間にいたかっただけだ。


ヨーコ、高校の頃からの友人で、バンドの花形ボーカル。

僕が曲を書き、君が歌う。

しなやかなメロディに寄り添って世界観を深める君の音。


この日だって、そうだったはずだ。


最後の曲にはいる前に、楽器の調整をする。


その時間を潰すためにヨーコがいつものように客に話しかけた。

「盛り上がってますかぁ!?」

この鼻にかかる声が僕は好きだ。

しかし、ライブハウスでアルコールをひっかけた客はなぜかヨーコに突っかかった。


どこにでもいる客。
ただそれだけだ。


が、なぜか僕は急に腹立たしくなって、ギターをスタンドにかけた。

気がついたら僕の下で男が血を吹いて謝っていた。


何がなんだかわからなかったが、僕の手は血でべっとりしてどっちの血なのかわからないほど、鮮血に満ちている。

無論、僕はその場から追い出されてしまった。


『誰が悪い』とか言うならば、たぶんあの場にいたみんなが悪いんだろう。


ギターを抱えて1弦からチューニングしていくと、乾いた音が狭い部屋に響く。

反射的にコードを押さえて指で弾いてみた。


なんて悲しい旋律なんだろうか。


こんな音しか鳴らせないから、だめなんだろうか。


アルペジオで弾きながら初めてヨーコと話した日を思い出した。


あれは確か入学したてで部活にすら入ってなかったから、公園でギターを弾いていたときだ。


「ギター弾けるんだ?」
ふいにした声が今でも一番好きだ。

「え、ああ、練習だよ。」
なれないアルペジオで音を見せてあげた。

思えばあれが自分の中で一番の演奏だったに違いない。

誰かのために、僕を想ってくれる人のために弾いた音の螺旋。

その日は暑かったか寒かったかすら思い出せないけど。

小さい公園で弾いたアルペジオはまだ僕の思い出に居続けている。


乾いた世界に放つ乾いた叫び。


僕のような人間が生きていけるほどこの世界は、先鋭的じゃないのだろう。


『鈍感力』がある人だけが生きていける世界。


未来に対しての不安や欲望に気がつかないようにして生き。

やりたいことよりも、平穏をめざし。

それなのに生きた証がほしい。


ほら、僕みたいな人間には生きていけないのさ。


エレキをスタンドにかけて、フォークギターを取り出して誇りを拭った。

兄貴が一度家に来たときにおいていったギター。


『おまえは夢を追いかけていいんだ』

そう言った兄貴の顔が悲しそうで、僕は一度もギターにふれずにいた。

兄貴の夢の欠片や、想い、情熱を僕が塗り替えてはいけない気がしていたからだ。


弦をチューニングしていくと、殊更兄貴の顔を思い出した。


兄貴はあの人生で幸せなんだろうか。

僕もああなるのか。


夢を諦めて、死ぬ少し前まで歯車になって。


…………。


夢ってなんだろう。


コードを押さえた指先に意識を集中するが感覚すらない。

今度のアルペジオは少し潤って聞こえる。

ふいに、昔深夜にやっていたアニメの曲を思い出した。


とても静かなメロディで、でも情熱的で、愛する人のために歌った曲。

『すいみんぐべあー』だかなんかが題名で。


曲の内容しか印象になかった。

口ずさんでみる。


僕の声がアルペジオに乗って美しく世界に色を乗せる。


まるで世界に『僕』という楽器しか存在しないようで、静かで深い世界に身を投じた。

そこにはすべてがあって、すべてがなかった。

気がつくと空が幾分か陰ってきていて、長い間自分だけの世界に閉じこもっていたんだと気がついた。

ギターをその場において立ち上がると、台所にむかって足を運んだ。


冷蔵庫はいつもどおりに空っぽで、その日一日分の食べ物といつも常備している麦茶が並んでいる。

麦茶のパックを手にとって直に口につける。


衛生的でないとか、野蛮だとか、非人間的だとかの言葉は聞き飽きている。


のどをいくら潤しても気持ちが乾いているのが悲しいが、どうやらこの世の物では潤わないのは理解している。

そう、俺は諦めている。


自分らしく生きること。

充実した生活を送ること。


満足してから死ぬことを。

すごく悲観的な意味合いの言葉だが、それなりに生きてはいける。

大金も得られない、満足できない、思った通りに生きれない。

だが、生きている。


ただ、生きている。


それだけだし、すべてだ。


悲しくなってギターをアンプにつないだ。

ゲインと音量のつまみを最大にして思い切り弦を弾いた。

迷惑な音量で歪みを効かせた音が部屋を占領した。

隣の部屋から壁をたたく音がかすかにするが関係なくコードアレンジを加えていく。


名前のない曲が確かに生まれている。

自分の魂が宿ったような音が心をかき鳴らしていく。


その瞬間だけは確かに自分が生きている。

そんな気がした。

「なに迷惑な音立ててるの?」


ヨーコが部屋に入ってきたことすら気がつかないくらいに音をだしていたらしい。


「隣の人怒ってたよ?」

「だろうな。」

「私が謝ったんだよ?」

「だろうな。」

「これ、一緒に食べようと思って買ってきた。」


手にはミスターなドーナツが袋に入ってこっちを見ていた。

「ありがとう。」


「気持ちこもってないよ?」
「言葉に気持ちを乗せるのはおまえの仕事だろ?」


「たしかにね。」

「けど、ありがとうな。」

「ん。」

ギターを置いてキッチンに向かった。

「なに?」

「コーラ。飲みたいだろうと思って買っといた。」

「……ありがと。」

「ほら、おまえのほうが言葉に気持ちが乗る。」


ニカッと笑って見せてからグラスを水で濯いで軽く振った。

水気を切るとグラスは光を乱反射させていく。

そのグラスを小さなちゃぶ台に乗せてコーラを注ぐ。


「俺の前途多難にかんぱーい!」

「何でそんなときには気持ちが乗るの?」


「知ってるだろ?癖なんだよ。」

「これからどうするの?」


ヨーコはコーラをひと飲みすると口を拭って言った。
それを『おやじ臭いな』と思いながらも愛おしさを感じる。

「どうするっても、いきなりだしなぁ。」

「あんたがね。」
「そう、俺が。」


「なんであんなことしたの?」


「…………わかんねぇ。」

コーラをまたグラスに注いで答えた。

「……なにそれ?」

「なんだろうな。」

「ドーナツ食っていい?」

「ん、いいよ。」


袋からエンゼルなクリームを取り出して口いっぱい、力一杯ほおばってみる。

こぼれる白い粉を気にしないでほおばると幸せな味が口に広がった。


「まったく、あんたはこども?」

「ああ、それでいい。」


幸せを噛みしめていくと脳が痺れてしまいそうになるのがたまらない。


「ぜんぜんこたえてないんだ?」
「いや、かなりこたえてる。」

「そんななのに?」
「ドーナツは別だしょ。」

「語尾が変だよ。」
「タイプミスだろ?」


「え?」

「こっちの話だよ。」


一個目を平らげて指についた白い幸せを舐めた。

「行儀悪いよ?」
「いつも通りさ。」


「そうなんだけどさ。」


2個目を手に取り両手をあわせた。

「なに?」
「感謝の意をダブルなチョコさんに。」


「意味が分からない。」
「俺もだよ。」


「そうだ。決めた。」


「なに?何を決めたの?」

「俺、外国行ってくる。」
「は?」

「外国だよ。海の向こうの。」

「場所の問題じゃない。」


「カネは今からバイトして貯めればいいや。」
「だから。」

「持ってくものは何がいいかな。」
「聴いてよ。」


「おまえがいればいいや。」
「え?」


「一緒にくるか?」
「え?」


「どうせ一緒に行くならライブしながら世界を回ろう。」


「ええ?」

コーラをグラスに注いで一気に飲み干す。


「ぐわぁああ!っくぅ!たまらない!」

呆然と口を開けているヨーコの額にデコピンをして馬鹿笑いをした。


夢は見るからいいんだ。

夢は自分でしか決められないからいいんだ。

生きていても死にたくても、夢を見ようとすれば何だってできる。


せっかく生まれてきたんだからやりたいことをして死んでいく。


ケロ4

ギターを拾った。


ホコリだらけで、所々壊れたギターを拾った。

深い青とメタリックブラックのグラデーションボディに貼られた外国のバンドのシンボルのシールが、昔いたバンドのギタリストのギターに似ていたから拾った。


僕は映像でしか見たことがないそのギタリストが好きだったから拾った。


拾えば彼のようになれるかもしれないと思って拾った。


彼のように自分に正直になれるかもしれないと思って拾った。


嫌いな自分を好きになるチャンスだと思ったから拾った。


この出会いは自分の世界を変えてくれると思った。

高鳴る鼓動に任せてギターを背負って走って家に向かった。


家についてすぐにソフトケースからギターやその部品を取り出して部屋に広げてみた。


今までの生活には無かった異様な雰囲気が胸を高鳴らせる。

まずは雑巾を濡らしてボディを隅から隅まで丁寧に拭いていく。


ペグ、ネック……壊れたハムバッカー。

シールド、ギタースタンド。

一度拭いてもホコリの匂いがしたからもう一度ペグから拭いていく。


それだけでも一時間以上かかった。

次に一度ネジをはずしてギターを解体するコードを差し込む箇所、ハムバッカー……中からホコリを掻きだして少し拭く。


電子ボード、コードがきちんとつながってるか確認してネジ穴にボンドを少し流す。


半乾きになってからネジを止める。

もう一度軽く全体を拭いて弦を張ってみる。

何とも新品のように見えるではないか。

気がつけばすでに三時間がすぎており、真夜中になってしまっていた。


(ちゃんと鳴るかは明日……今日か、起きてからにしよう。)


そう心に思ってギターをスタンドに立てかけた。

異質な存在感が胸を騒がす。

少年はなかなか寝付けなかった毎日のことを忘れるように深く眠った。

ギターが弾けるようになったからと言って何かが劇的に変わることはない、と少年は知っていた。


けれど、そんなことにすら頼らないといけないほど少年は毎日に飽きていた。

朝早く起きて学校へ行き、およそ『生きる』ために役に立たないことを学んで、帰ってくる。

それが『普通』。

それに吐き気を催すほど飽きていた。

飽きすぎて死にたいほどに。

だから今日、ギターを拾ったときに『何か変わるのでは』とか細い期待に胸を躍らせてしまったんだ。


『生きるために生きる』のではなく『楽しむために生きる』となれるように。


少年はある日考えたことがあった。


『生きるために必要なことは何だろうか』


考えてみた。

気がつかない問題もあるものかと思った。

しかし答えはそこにあった。


目が覚めるとすでに時間は昼を過ぎていて。

気怠い気分を鼻からだそうと息を思いっきり吸ってみた。

頭がボーッとしている。


それがわかるまでこの世界の時間で10分はかかっていただろう。

が、いつもよりも早く意識がはっきりした。


『そうだ、ギター!』

飛び起きて体をギタースタンドに向けた、すると昨日の出来事が夢でなかったと認識した。


うれしくてギターのネックをつかんで引き寄せた。


確かな感触が体の真ん中で心に触れる。


相変わらずハムバッカーは壊れていたが、分解してコイルをまき直してみた。

それを弛まないように粘着シールで固定した。


手作りハムバッカーをギターにつけて、弦を張り直す。

チューニングして軽く引いてみた。


乾いた音が響いて気持ちよかった。


今度は少し強く引いてみた。


不協和音が耳を着いた。

うれしくて財布を片手に家を飛び出していた。

あのギターに合うアンプとそれに繋ぐコード(シールド)を買いに電車に乗り込む。

こんなにわくわくしたのはいつ以来だろうか。

早く買いたくて仕方がなかった。


楽器屋につくと一目散にアンプを見て回った。


高くてデカいのから、小さくてやすいのまで様々なものがあって迷ってしまう。

が、ふと目線を左に流すと一つ異彩を放ったのがあった。


『ARIA』


そう本体にエンブレムがついているアンプ。

好きなマンガの名前だから買った。


数年の保証書だかなんだかの説明を聞けないくらい興奮して気がついたら手に持ってたコードも買った。


意気揚々と電車に乗り込んで地元の駅に着いたときに感じた。


(あれ?アンプって重い。)


だけどその重量感もよけいにうれしさをかき立てるには十分で。

すっかり気分はギタリストだった。


一顧解決


「うるせぇなぁ。」


男は舌打ちをした。

上手くもないギターの騒音が昼間から流れていればそうなるのは仕方ない気がしていた。

つい最近から鳴り始めたこの音は、80年代の洋楽ロックの触りだけを何回も繰り返していてイライラする。


「弾くなら全部弾けよ。」


呟いた男は伸び曝したヒゲをなでながら布団から起き抜けるとリビングに降りて冷蔵庫を開けた。


二日前に担当者が差し入れてくれた飲み物が底をつきそうで飲むのをためらったが、それでもノドの苦い乾きには勝てずに飲み干してしまう。

「買いに行かなきゃな。」

時計の短針が二時を表しているのを確認してから風呂場に入った。


シャワーで汗を流さなければどこにも行けない。


それは男のささやかなプライドだった。

男の絞られた体つきは同年代の体と比べてもすばらしいもので、色の白さと合致してかなり神聖なものに感じられる。

肌に弾かれて体の縁取りを承る水の筋は、艶めかしく彩ることすらできずに男の魅力に食われてしまった。


男はため息をつきながら鏡に映っている自分の愛想のない目を見つめていた。

作品を生み出す人間はみんなこんな懐疑心に溢れた目をしているんだろうか。


ひたすらにすべてを疑ってきた男はいつしか信じることを忘れていた。

人だけじゃなく。


すべてを。


世の中のすべてを。


誰と会話をしていても一枚壁を挟んだような感覚に身をおいているために、客観的にすべてを把握し、客観的にすべてを疑えている。

それが男のすべてを形作っていた。


ある意味人間の作り上げた人らしい、文明人らしい感覚の負の究極系だ。


だからこそ、あんな作品が生み出せるんだ。


シャワーの蛇口をひねって水を止めると美しい水の短音が床に弾けた。


男はしばらく目をつむっていると色々な粗筋が浮かんでくる頭を憎んでいた。


それは妄想の世界が現実を支配する恐怖との戦いである。

自らが作り出した世界観がやがて自分の頭を支配していく。

それは男にとって苦痛であった。


空を思えば空の話が、土を見れば土の話、空気の話、雨、山、掃除機、すべてが男の才能という鎖にさらなる物語を付与していく。

男は思っていた。


『どんなに自分が物語を綴っても、世界が幸せになることはない』

それは明白な真理であった。

この世に存在しない自分の希望事を綴るのだから、自分が幸せな青春や恋愛を書くのであれば、それは自分にとっての『存在しないこと』になってしまう。


二日前に担当に渡した物語は確か世界をより良い方向に導く英雄の話。


世界は救われないのかもしれない。

風呂場から出て体を拭きながら感じていた。

モーゼのように民を救うユダヤもいなければ、奇跡を起こすキリストも復活しない。


音楽で世界を変えたマイケルもこの世を去った。

残されたのは戦争と欲望になってしまった気もする。

かつてあんなに生まれた神様ラッシュは、現代においては一人も生まれていない。

世界は救われないのか。


頭を軽く拭いて頭を振る。

水滴が床に落ちたが気にしないことにした。

腰にタオルを巻いて部屋の中を歩いているとケイタイが誰かが連絡してきた痕跡を伝えていた。

それを確認しないまま下着と短パンを履いてTシャツを捜す。

畳んである洗濯物から引っ張り出した黒いバンドTシャツは体にフィットして着心地が良い。


前にやっていたバンドのだが、解散したら着てはいけないとは言われていないので着てみた。

ケイタイをポケットにしまい込んで財布を捜してみた。

洗濯物以外はどこかに行ってしまっている私物はその日その気分で捜さないと見つからない。


ようやくソファのしたから財布を見つけて玄関に向かう。


コンビニに行くにはこれくらいでいいだろう、とサンダルを擦り履いて玄関をでた。

『そういえば』


隣のギターの音がやんでいる。

『あきるなら弾くんじゃない。』

心の俺は穏やかじゃなく叫んでいた。

外は熱気が迎えてくれて、意識がもうろうとなる。


毎年感じる熱気。

いつだったか外国の大統領が歴史的に入れ替わるのを夜中にテレビで見ていたときは、何かが画期的に変わって、夢を得られるのではとも思っていた。


が、結果的に音楽を諦めなければならないということになった。


かなり前に捨てたギターのことを思った。

青くて黒い、名前のわからないギター。

ジャックがあんまりよろしくないのに、独特の音をのぞかせるギター。


いつの間にか心を奪われていたギター。


音楽を諦めたときに投げ捨てたギターは今どこにいるだろうか。


どこに捨てたかも覚えていないほど酔っていたことは覚えている。


後日探し回ったのに見あたらなかった。


もしかしたら川に投げたのか、それともすでに誰かに拾われたのか。

諦めて新しくギターを買って趣味程度に弾くことに落ち着いた。


買ったのはSG、ソリッドギターと呼ばれているギターで、堅い乾いた音がどこか、捨ててしまったギターを思い起こさせたからだ。


赤みのはげかかった、いやはげちらかした色合いが哀愁を誘ったからだ。


しかしそのギターも最近……ここ何年か弾いていない。

ケースにしまって部屋の隅でホコリを食べているのだ。


コンビニに着くと、ヒンヤリとした空気が体を一気に冷やしていく。


きっと飲み物や冷凍食品もこんな気持ちなんだろうな。


と店内を一視すると雑誌コーナーにギターケースを背負った若者が雑誌を入念に見ていた。

あんな時代があったのになぁ……


左手の指先を見るとすっかり柔らかくなった四本の指と親指が優しく迎えてくれる。

悲しい気持ちと現実になじんでしまった自分に対する空虚な気持ちでしばらく立ちすくんでしまっていた。


「あれ、あなたは」


目の前からした声に顔を向けた。


先ほどまで雑誌を読んでたギターケースを背負った少年が目の前で顔をのぞき込んでいる。

見覚えがあった。

「隣の坊主だったのか」


思わず声に出ていた。

顔もそこそこにギターケースを見ると懐かしさがこみ上げた、それを察知してか隣の坊主は口を開いた。

「やっぱり隣の……あ、ギター好きなんですか?」


「ああ、昔弾いてた。」


扉から離れて休憩スペースに身を寄せた。
「へぇ!でも、何で今は弾かないんですか?」
ギターをおろした坊主は先ほど買ったアイスを食べながらきいてくる。


「ギターを無くしたんだ、それでやる気がなくなった」

ホントは捨てた、なんて言いたくはない。


言っても見つかることはないギターは今どこにいるんだろうか。


「それは……悲しいですね」

「坊主は今からスタジオか?」

「ええ、バンドを組んだんですけどみんな初心者で」

「だいたい初めはそんなもんだろ」


「え?なんで初めてだって知ってるんです?」

「チャックベリーをあんなに独創的に弾くのは初心者だよ」

「知ってるんですか?」

「ああ、昔弾いてた曲だ」

「え?……じゃあ!教えてください!上手く弾くコツを!」


「習うより慣れろだよ」

「そんなぁ……」

懐かしさを押し殺して言ったはずだったのに、俺の口元は緩んでいるらしい。


「でもうれしそうに言いますね」

「は?」

「なんのギターつかってるんですか?」

「SGのカスタムさ、チェリーレッドで少しハゲてる」


「へぇ!かっこよさそうですね」

屈託のない、世の中の理不尽に身をおいていないその顔は希望に満ちている。

「かっこいいさ、俺が買ったんだからな」

「じゃあ一緒にスタジオ行きましょうよ?」


「いや、いい」

「なんでですか?」

理由はいろいろある、が一番の理由が『また夢を見るのはイヤだ』から。

「いろいろあんのさ。それに仕事も残ってる」


「……仕事って大変ですか?」


あからさまに明るい時間にこんなかっこうして『仕事』なんて誰も信じないな。


「いや、じつは大変でもない。来週までに原稿をあげれば良いだけだからな」


「漫画家さんですか?」


「いや、小説家さ」


「……すごいですね!」
なにが凄いのかもわからないし、凄いものを作った覚えもない。


「なにをかいてるんですか!?」


「『遙か空の天国』って知ってるか?」

すると隣の坊主は身を乗り出して口からツバを飛ばしながら声を上げた。


「知ってますよ!というか知らない人いないですよ!あの文明司が主演を張ってドラマ化されたヤツですよね?」

「ドラマのキャストとかは全部任せたから知らないが、そこそこ売れたらしい」
オカシな話だ。


夢見た職では売れず。

適当に書いていた小説が売れてしまうという。

世の中はオカシなものだ。

希望を持ったものは中々成就しない。


だから未だに初恋や、夢が叶う『話』が書かれ続けるんだな。

「なんであんなに泣ける恋愛小説が書けるんですか?」

一つは『絶対に叶わない夢』を書いているから。


叶ってしまう物語なんて誰も感動しやしない。

だからこそ、ゲームや小説が売れて、歌で人は感動するんだ。


「坊主は泣いたのか?」


「…え…ええ、恥ずかしながら」

「恥ずかしがる必要はない、泣いたのならお前は感受性が高いってことだからな」

「そぉ、なんですかね」


「じゃなきゃバンド組んだりしねぇだろ」


「あ、そっか」


坊主は頭をガシガシとかいた。


「ほら、もう時間なんじゃないのか?」

「え?あ!ホントだ!」


坊主は立ち上がると一礼した。

「今日はありがとうございました!今度はぜひギター教えてください!」


まっすぐな瞳に見つめられて少し恥ずかしくなって手の甲で坊主を促した。

「ありがとうございました」

坊主が去った後、おもむろに立ち上がって買い物かごを手に店内をうろついた。

もうすでに頭の中はギターでいっぱいだった。


「ちくしょう。良い曲が書けそうじゃねぇか」

雑誌に飲み物と少しのお菓子、おにぎりを三個ほどカゴに入れてレジに出した。


「お客さん、そのTシャツ……」

レジにいる丸顔の女の子がシャツを指さした。

「わかる?もしかしたら来年、復活するかもしんないぜ」


その声で察したのか女の子は手を差し伸べてきた。

その手を握って軽く力を込める。


「あの!ファンだったんです!」

「おい、訊いてたか?なら過去形はやめな、また会いに来るからよ」


耳元で囁いて店を出た。

携帯を取り出すと三通のメールが来ていた。

(そおいえば見るのを忘れてたな)

内容を見てさらにフレーズが増えていく。

三通とも、なんともひねりのない内容だな。


『バンド、またやらねぇか?』


Sainthood Ruger

これは今までになかった『アタリ』かもしれない。


幽玄にして独特。

まわりには俺くらいの子が何十人も席を取っていた。


訳も分からずその軍勢の後方で様子をうかがっていた。


人生初のフェス。

洋楽好きの俺は、毎月発行される雑誌を読み込んで『今年こそは!』と意気込んでみたのだ。

そう、当初は好きな洋楽バンドだけを楽しもうと。

だけど、チケットが届くとある思いに駆られてしまった。


『……もったいなくね?』

つまりはフェスの期間、許された時間、すべてを網羅しようじゃないか。


そう意気込んでしまったのだ。


それが俺の価値観を大きく揺さぶってしまう。

我が国には四大フェスという四天王を象ったフェスが存在する。

洋パンク中心、和ロック中心、洋ロック中心、ポップ。


今回俺が馳せ散じてしまったのは、洋ロック。


つまりは海外のアーティストを主に扱うフェスである。

異様な雰囲気の会場はすでに『コア』なファンによって指定席が作られていたが、独り身の俺はブラブラとさまよっていた。

手にはマップとタイムテーブルが書いてある紙。


俺の好きなバンドは大トリ、それまではぶらりと他のバンドを『調査』することで時間をつぶす作戦だ。

すると、一番小さなブースに何人か駆けていく、


その中の一人が携帯で何かを聞いていた。

「え?マヂ?『ルガー』来てんの!?だってテーブルにかいてねぇじゃ……わかった!今向かってるよ」


その焦った口調でしゃべる男は電話を切るとまわりの仲間に言った。


「マヂで『ルガー』らしいぞ!今、音合わせてるって!」

それを聞いた仲間たちは歓声をあげて走っていく。


俺はその流れに沿ってみた。

ま、章の始めに言った『アタリ』ってのは、この『ルガー』ってバンド。


ともかく、俺はそのファンの後ろに居座ってみた。

みるとファンはステージで音を合わせてる人たちに声をかけていた。

(この人たちが『るがー』か)

そんな程度でみていたが、音合わせが終わると彼らは舞台袖に引っ込んだ。

ステージにはまだライトがついていないからわからないが、ボーカルっぽい人はなんかスラリとしてたな。


するとファンの人たちがいきなり『コール』し始めた。


『るっがっあ!るっがっあ!るっがっあ!』

ともすると、それを聞いた人たちが集まってきた。

何人かはファンに話しかけている。

俺はさりげなくその会話を聞いてみた。


「ルガーってあのルガー?」


「はい、あの『ルガー』ですよ」
ファンの女の子は声を裏がえらせて言っている。

「けど解散してなかったっけ?」
「なんか、二年前に復活したらしくて!」


「マヂかよ!俺訊いてねぇよ!」


男性は鼻息も荒く口を開いている。

「私も、友達がバイト先でユキヒトさんに逢ったときに『復活するかもよ』って言われたらしくて、それを教えてくれたんですよ!」


ユキヒト?
というか、このオッサ……この人もファンなのか?


と、思ったら。

黄色い声援がうなりをあげた。

ぞろぞろと、暗がりのステージの中で人らしき影が動いていく。


するといきなり地響きのような音がスピーカーから漏れた。

ドラムだ。


と、思う瞬間にギターの破壊的なサウンドで空気を引き裂いていく。

ベースがそれを引きつけて一つの『音』にした。


俺はもう、この瞬間に『ヤられていた』

まるで神話の中のような楽器の音。


目を瞑ってしまいそうなほど幽玄で寛大で、破壊的な。


ライトがバンドを表に駆り立てて姿を露わにさせると、ボーカルがゆっくりと口を開いた。


俺は、今まで自分が聴いてきていたものが、改めて『音楽』であると知った。

『音楽』は『音を楽しむ』

それは演技者も、聴衆も。


だからはっきりと言おう。

このバンドのは『音楽』ではない。


その次元では捕らえられない、どこか本能的な……『叫び』

もはや呑み込まれていた。


圧倒的なアイデンティティ。

あっと言う間に一曲を終えると、ボーカルが口開いた。

『どうも!セントフットルガーです!』

するといつの間にか会場を埋め尽くしていた群衆は声を上げた。


あんなにまばらにいた人たちは、もうこの人たちに酔っていた。

『えーっと、すぐに次の曲にいきますが、一つ言わせてください。実は、俺は数年前、というかこのバンドを組む前に、ここに来たことがあって、そんで、懐かしくて、次の曲はそんときに作った曲です。聞いてください『いつかそこに』です』

スローなグルーヴで歌い始めたボーカルは、とても楽しそうだ。


そしてその雰囲気は時間なんて概念がないかのように歌い上げている。


『いつかそこへ』


『必ずそこへ』


『俺がいるべき世界』


『俺がいるべき場所』

この胸の奥深くに突き刺さる歌は、一人一人のアイデンティティを呼び起こす賛美歌のように。


そしてボーカルはさらに口を開く。


『そこから這い上がれ』

『絶望の民』

おそらくなんの意味もないのだろうが。


ボーカルは。


俺を指さした。


とても寛容で清廉な笑顔を向けて。


鳥肌が立って、すべての皮膚の穴から蒸気がたったみたいに体が熱くなる。


その瞬間に曲のテンポが上がっていく。

俺の頭から思考が飛んだ。


「うをぉおお!」


人の肩に手をかけて飛び上がって、俺は人の波に飛び込んでいた。


いわゆるモッシュダイブ。

それだけ俺は魅了されていた。

人の上でモミクチャになりながらも目線は絶えず『ルガー』に向いている。


ボーカルのユキヒトがマイクを抱えて英語らしき言葉を続けざまに吐き散らしていく。


「うぉおおお!!」

もはや地響きにも似たような観客の叫びも彼ら『ルガー』の音の一部にしかすぎなかった。

おそらく俺以外にもモッシュしている人がいるのだろう。


あちこちで悲鳴が轟っている。

曲が終わるのと同時に俺は黒服のセキュリティの人に、人の上から引きずり落とされた。


彼らのムキムキに鍛えられた体をみただけでも抵抗する気は起きないのだが、オルタモント事件の知識もある。

渋々と引きずられるようにして俺は舞台袖に運ばれていった。

しかし、俺の意識はまだ彼らの音に支配されていて、高揚感に包まれている。


袖の隅っこから見える彼らの音ですら、さらにテンションを掻き立てるものがあった。

三曲目も終わり、ユキヒトが口を開いた。

「次がラストだ、みんな楽しんで!」


軽快なギターソロから始まり、ベースの下添えを経て、ドラムの破壊力が耳を貫く。

袖にいながらも体疼いてしかたがない。


気がつくと俺は袖から飛び出してステージにあがっていた。


そしてプロレスラーよろしく、人のゴミの上に飛んだ。


後先考えずにブットんだ。


果てしない高揚感が俺に理性を失わせていた。

気がついたときには俺は、救護室に運ばれていたらしい。

目を開けると、先生らしき人間と黒服のおじ……お兄さんたち、それに……


「おにぃさん、かなりの無茶するね」


ドキリとした。

「なかなかこんなになるほど暴れる人いないよ」


この声、響きが俺の鼓動を高鳴らせる。


聴き惚れた声。

「あ、ユキヒト……さん?」


「お?まだあんましゃべんないほうがいいよ?」

彼は俺の額に手を乗せると人差し指をたてて「シィーっ」と言った。

ユキヒトさんが、ルガーの面々が俺の前に。


「しっかし、すごいね、おにぃさんは」
ユキヒトさんがメンバーに視線を送る。

「ああ、今までこんなになったのはユキヒトを挑発した奴くらいなもんだ」


「やめろよ、過去の話だ」


「つい最近じゃん」

俺は夢を見ているのか、それとも俺自身が夢なのか。


「あ、あの……俺……ルガーのファンです、あ、いや……今日ファンになりました」


するとメンバーは顔を見合わせて笑った。


「おにぃさん素直だねぇ、『今日』とかいらないのに」


「え?あ、すみません」

「いや、いいよいいよ、今日からで、素直な人は嫌いじゃない」

ユキヒトさんは俺をジッとみた。

「訊いて良いかい?」

「はい?」

「なんで『今日俺たちのファンになってくれた』?」


「え?」


「……ちょっと訊きたくてね、無理に答えなくていいよ?」


「あ、いや、今まで聴いてたのが音楽だったからです」


「ん?」


「ユキヒトさんたちのは、ルガーのはなんか『音楽』じゃなくて、思いを乗せた『叫び』な感じがして」


「ふーん」


そう言うとユキヒトさんは立ち上がった。


「おにぃさん、おもしろいこと言うね。気に入った」

「え?」


立ち上がるとユキヒトさんはおそらく自分のバックを漁っている。


そして、何かの紙切れを取り出すと俺の顔の前に投げた。


「それあげる、怪我が治った頃に気が向いたらそこに書いてある場所にきなよ」


「へ?」

それだけ言うとユキヒトさんたちは踵を返した。


「それと、今度からダイブするときは着地点をよく確かめた方がいいよ」


あとで聞いた話だけど、俺はステージに人が上らないように観客席に設けられたフェンスに頭から突っ込んだらしい。


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