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虹の始まる場所

1.もう昨日を探さないように

人生に愛がなければそれは死人と同じだ。
完全なる自己否定の後に残るのは何だろうか。
俺は何時にも増して太陽の光を嫌ってカーテンを閉め切った、ただ時間が過ぎるのと同じ速度で永遠の眠りにつくのを願っていた。
既に過ぎた’’朝’’をあのとき以降、俺が拝まなくなってどのくらいの時間になるだろうか。
無限に感じるこの人生の時間を独りで生きるのは辛い。
君を失って、なお生き続けるほどの傲慢さと狡猾さを俺は持ち合わせていないのだ。
いや、俺は最初から持ち合わせるようなんて考えてないのだ。
君の存在を一度受け入れてしまった俺にはまだ、君を忘れることはできなさそうだ。
俺は布団の中でうずくまって寒さをしのぐ熊のように丸くなった。
目を閉じると俺の目蓋の裏に一様に君の笑顔とともにあの時の事故を思い出してしまう。
そう、俺はかならず涙を流してから夢を見るのだ。

眠りというのは物事を整理する作用があるらしい。
昔、俺は高校の授業で落書きだらけのノートに書いたのを思い出した。
退屈な授業によって訪れる眠りを拒否する為の落書き、そして君の美しい姿。
すぐそこにあったはずなのに消えた現実。
俺と君が初めて話したのはいつだったろうか?
ふと思った。
俺の閉じた瞼にそのときの記憶が甦ってくる。
乾いた空気の匂いに、甘ったるい時間。
高校の制服のワイシャツをだらしなく着てだらしなく生きていた学生の俺。
規則を破るのがたまらなくかっこいいと感じていた俺。
もっぱらバイクとバンドの話しかしないで、世の中で生きていくために通用しないものは学校の勉強だ。と俺は思ってもいた。
いわゆる『不良』
つまりは『良くない学生』
さらには『落伍者』
そんな俺でも恋には落ちる。
退屈な朝礼の空間で、壇上にあがっていた君を見て俺は言葉を失った。
初めて俺は他人に興味を持った。
学年があがるとクラスのメンバーもほとんど替わる。
俺は運がいいのか悪いのか。
君がそこに居たから、俺は舞い上がってしまった。
「自己紹介でもしようかね、みんな初対面の人もいるからね」
学校の先生のナイスな計らいに俺は胸を踊らせた。
(一つ大きいのを当てなきゃ男じゃねぇ!)
「えーっ!俺は『橘楓(たちばなかえで)』、俺は一応バンドで演奏しているから、みんな見に来てくれよな……コホッ!それと!ヘイ!アンタ!……そうアンタだ、俺と付き合ってくれ!」
真っ直ぐに手を差し出して俺は思った。
(ゲットだぜ!)
すると君はスッと静かに立ち上がって答えた。
「私の名前は『椎名恵(しいなめぐみ)』……あなた本当に人と付き合いたければまずはマナーを守りなさい、それに私はあなたのような男は大っ嫌いなの」
俺は頭が真っ白になった。
クラスにざわめきと嘲笑が走った。

次の日から俺は学校が『かなり』つまらなくなった。
俺の席はクラスの中で窓際の一番後ろで、君は廊下側の一番前。
一目見ればこのクラスの構図がわかる。
勉強を頑張る人は廊下側、以外は…………。
俺は窓の外を眺めることが多くなっていった。
授業なんて聞いても意味ないし、俺の将来にその知識を使う予定なんて有りはしない。
俺は頭の中で崇拝するアーティストの楽曲を復唱してギターを弾く気分にだけ浸る。
一年の秋に学園祭で軽音部の人たちと対バンしたライブは気持ちよかった。
その映像が俺の脳裏に浮かぶ。
メンバーのジョー、シゲル、峰田。
中学からのメンバーで組んだバンドは主に洋楽を奏でる。
ちなみに俺たちは学園祭の時に、映画のバック・トゥ・ザ・フューチャーでマイケル・J・フォックスが弾いていたチャック・ベリー原曲の『ジョニー・B・グッド』をやりきった。
……やりきった。
忠実にね。
だから来期の学園祭までライブの予定はないから手持ちぶさたではある。
けれど、さすがに。
授業中にギターをかき鳴らすほど俺の頭は悪くない。

椎名恵は誰から見ても『優等生』なんだろうな。
俺はふと真剣に二次方程式をノートに、正確に写す彼女を眺めた。
すらりと腰まで伸びた艶のある黒い髪。
スレンダーな体つきで透き通るような白い肌。
鼻筋が通っていてミケランジェロが大理石に表すような唇。
そしてメガネに邪魔されはするが深い黒に吸い込まれそうな瞳。
そんな彼女は学級委員でありながらも生徒会長である。
朝礼の壇上で見た彼女に俺は正直に惚れた。
(きっと、一生俺みたいな種類の人間には縁がないんだろうなぁ……)
と、自己紹介で告白を断られたのを思い出してため息が漏れた。
俺が自分の視線を光の射す世界へと向けると雲が美味しそうに漂っていた、まるで手に届かないものを象徴するかのようにその雲は流れて、しばらくすると薄くなって
消えた。
俺は家に帰ったら久々にギターを弾くことに決めた。

俺の家は学校から歩いて30分くらいの場所に在している。
俺は帰る途中、雲行きが気になったがすぐに着くからとそのことを忘れることにした。
ドアを開けて自分の部屋に入るとソフトケースに入っているギターを取り出す。
少しホコリをかぶっていたケースに比べてギター自体は綺麗なものだ。
ESP監修のエドワーズのSGブラック。
ESPとはギターを作ったり、その職人さんを養成する施設、会社?学校?なのだ、そのプロ集団が監修しているはずのエドワーズというブランドのギターを買ったのだ。
かなり高く、定価が二桁諭吉な物に一目惚れして、俺は当時中学生だったから父にお願いして買っていただいた。
いや、正しくは『父親からギターを買う金を借りた』わけだ。
高校生になったらバイト代で月々五千円ずつ返済する約束なので、返済が済むまではこのSGは俺の物ではない。
ちなみに『SG』とは『ソリッドギター』の略で、本当は空洞のないギターの名称なのでほとんどのギターが『SG』ではあるが、このギターの原型を作ったギブソン社がこのギターに『SG』と明記したから主にこれが『SG』と呼ばれているとかいないとか。
くわしくは俺がギブソン社に就職できたら調べるけど。
このギターの好きなところはほかのギターに比べて音が『張っている』んだよな。
ギブソン社が作り上げた『レスポール』というギターのような『粘り』は無いけど、この音とルックスは十二分に俺のハートを鷲掴むんだよな。

ジャック穴にチューナーを挿入して音を調整していく。
ピックで弦を弾く度にギターが俺に歌ってくれる。
一通り音を合わせると適当にコードを押さえて弦を弾いてみる。
『ジャカっ!』というピックと弦のコンタクトの音とともに和音が部屋の中に反響した。
チューナーを外して立ち上がり思い切り曲を弾いてみた。
ベースとドラム、さらにリードギターまでもいないとなんか寂しいが、それでもこのギターの音は俺を掴んで放さない。
(いでっ!)
指先になんか違和感があって俺は弦から指を放した。
指を見ると久々に弾いたからなのか指の先が赤く変色している。
弦に触れるだけで寒気が背中を這うような感覚に一瞬躊躇したが、俺は意を決するように思い切り押さえ込んだ。
悲鳴よりも歌声が口から漏れていた。

すると慌ただしくも何時帰ってきたかわからない義母が部屋をぶち破ってきた。
「あんたギターばかり弾いてないで勉強なさい!」
どうしてこうも大人という生き物は人の楽しみを奪うことに長けているのだろうか。
きっと、大人は人から奪った楽しみを自分の物にできる能力があるに違いない。
だからいつまででも戦争したり、犯罪を犯したり、正義を語った偽善ができるんだよな。
俺は言い返すのも面倒に感じてギターの弦を弛めた。
そして弦を拭いてから、仕舞ってあったギタースタンドにギターを立てかけて勉強机に体を向ける。
乱雑に本や雑誌が散らばっている机をどうするでもなくその上に鞄を置いて広げた。
俺は教科書よりもマンガの占拠率が著しい鞄から重苦しいイメージの湧く教科書を出してみる。
歴史、現国に数学の教科書……って、あれ?数学がない。
鞄をひっくり返して中身をすべて床にぶちまけるが数学はそのお祭りみたいな大騒動に参加してくれなかったようで見かけもしない。
「なんだよ、ないじゃんか」

勉強というとノートにガリガリと書き写すのがすばらしい、とは俺は思わない。
勉強は教科書を読むに限る。
とは思う。
俺はまずまっさらな状態で最後まで読み通す、しかも声を出して。
そして授業では赤線やら蛍光ペンで重要句をマークし、またひたすら内容を読む。
すると声を出して読むことによって脳がうる覚えではあるけど音として覚えてくれる。
あとはマークしたとこを目で見ることによって視覚で覚えられる。
その情報を綺麗に運用、使用するためにまた読み込む。
つまりは教科書があれば大丈夫。
けど、忘れたくないから家でノートに復習しておく。
これならノートに書いた時点で記憶のする内容の約半数は記憶済確実。となる。

だから教科書がないと困るわけだ。
俺は鞄を取り出して背負うと勢いよく家から跳び出した。
すると空色が曇り、今にも泣き出しそうなほど湿気をはらんでいたので鞄に折り畳み傘をしまい込んだまま俺は走り出す。
風に揺れる髪が長く鬱陶しくて早めに切りたいと思った。
この雨が降る直前の匂いは好きだ。
何かが起こりそうな不安定な雰囲気に包まれていてそれでいて好奇心をくすぐられる雰囲気が同時にしていて気持ちが上向きになる。

走る足は滑るように地面を後方に押し流して、景色だけが動いている錯覚に陥っていく。
このまま目標地点がなければ俺はずっと景色を後ろに流していくことだろう。
確かな地面の堅さを感じつつ、乱れる息を必死に押し殺す。
たばこを吸っていなくても運動を怠っていれば体力なんてすぐ消えてしまう。
すでに頭は酸欠で異世界に突入しそうなほど疲れていた。
校門をくぐって校舎に入ると、どこか薄暗く、不気味に音が響いている。
俺は乱れた息を正すためにも少し下駄箱で立ちつくした。
その声もまた校舎を包む雰囲気に少しだけ響いたが、薄暗い闇に飲み込まれて消えた。
少し息が整ってきたところで靴を脱いで靴下で教室に向かう。
一歩一歩の足音が不穏に沈み、足の裏から伝わる廊下の冷たさが背筋も凍らせるみたいだ。
階段をあがり、教室前に着くと明かりがついているのに気が付いた。
窓から中を伺うと椎名が自分の机の中を片づけしている。
少しホッとして俺は扉を開いた。
すると椎名はハッとこちらをむきなおってからため息をつく。
「あなたこんな時間になんでここに?」
「それは俺の台詞でもあるけどな」
と言いながらも俺は椎名を極力見ないように視線を流して自分の机に座る。
椎名はこっちに視線を移しながら何かを考えているようでもあった。
俺は机の中から数学の教科書を取り出すと椎名に『俺はこれをとりにきただけだから』と教科書を見せるジェスチャーして鞄につっこんだ。
交際を断られた相手と仲良く話せるほど俺は大人じゃない。
さっさと教室を出るべく鞄を背負うと軽く手を挙げて『さらば!』と心の中で呟いた。
そのまま教室を出ようとすると、異常に椎名の視線を感じてしまう。
俺は耐えかねて顔を右手人差し指でかきながら口を開いてみる。
「なんだよ」
すると椎名はそっぽを向いて答えた。
「べつに……あなたも勉強するんだなって思っただけ」
その言葉になんか引っかかってまたも俺は口を開いてしまう。
「『勉強は学生の本分』だろ」
「そうね」
「なんだよ」
椎名の視線だけがこっちを向いている。
「だからべつに」
「なら俺は帰るからな」
俺は意を決して扉を開けて歩き始める。
もし交際を断られていなかったならば、俺は色めき立っていただろうか。
もしあの時に良い答えをもらえていたら、俺たちはこの教室でなにをしていたのだろうか。
もし……
三回目の『もし』が俺の頭の中に浮かんだ瞬間、頭を振って考えないようにした。
世の中に『もし』はあってはダメなんだろうな。
ペタペタと靴を履いていない足音だけを鳴らして俺は下駄箱へと足を運ぶ。
その音も冷たい廊下に溶けて消えていく。
下駄箱まで行くと冷たい湿気が俺の鼻を突いて離れなくなった。
「雨が」
降っていた。
椎名と話していたあの一時で降ってきたのか。
俺は靴を履いて雨に濡れないギリギリまで歩いて空を見上げた。
アクリル絵具で灰色に彩られたような空は無尽蔵に雨粒をまき散らして、道ゆく人々を容赦無く濡らしていく。
「雨降るときって空が真っ黒いイメージだよなぁ」
俺は自分の呟いた一言にピンときて鼻歌を歌ってみた。
歌詞もつけるとグチャグチャで聴くに耐えないその歌は、その瞬間だけを切り取った言葉の写真のようだ。
「嗚呼~涙を流すぅ~~黒い空ぁ~」
俺は手でギターをジャン!と鳴らすような仕草をして歌を締めた。
「これは駄作だなぁ」
歌の雰囲気自体は面白くはあるけれど誰かの心に触れる歌にはならないな。
俺は直感でそう感じた。
「そう?」
「だって『ジャンジャカ降るよ~雨ぇ~』とか意味分からないだ…………」
急に割り込んだ声に驚いて、目を見開いた。
それに反応して体があり得ない速度で振り返る。
するとそこに椎名がたっていた。
「私は悪くはないと思うけど」
椎名のその冷たい言い方に疑問がわく。
「ホントにそう思ってるのか?」
すると椎名は空を見上げて口を開いた。
「私は思ったことしか言わない、言っちゃダメなことと思ったら言わない」
「……はぁ、そうですか」
「だからホントにそう思ってる、あなたは意外に子供っぽいのね」
その言葉もなんだか見下されている気がする。
「意外にって、なんだよそれ」
「そうゆう反応が子供」
ホントに悪気がないのか謝るそぶりすらしない。
「つーかなんだよ、帰るならさっさと帰ればいいだろ」
俺は傘を取り出して組み立てる。
「帰るわよ、雨がやんだら」
「は?」
「私、今日傘持ってないから雨がやむまでここにいないと」
こいつはいったいいつまで雨が降ると思ってるんだ。
数日前の天気予報だと確か数日は雨が降る可能性がある、とか言ってなかったか?

「あんたニュース見てないのか?数日雨が降るとか言ってたぞ」
「…………ふぅん、なら仕方ないわね」
「?」
すると椎名は雨の中に踏み出そうとした。
「ちょちょちょ!なに考えてんだ!」
「なにって、傘がないから濡れてでも帰ることにしたの」
「はぁ?あんた家どこだよ?」
その言葉に椎名は少し警戒を表した目を向けながらも答えた。
「……駅の少し向こう側」
「結構な距離があるじゃんか……」
道のりにして徒歩40分弱。
その間、仮にも一度惚れた女を雨にさらすわけにもいかない。
冷酷に降り落ちる雨の音を聞きながら考えた。
「じゃあこの傘貸してやるからこれで帰れよ」
俺は折りたたみ傘をグッとさしだす。
「嫌」
「へ?なに?」
思っても見なかった言葉に俺は思わず顎を突き出して聞き直してしまった。
「あなたから傘を借りるのは嫌、借りを作りたくない」
こいつは強情というか、なんというか。
俺はため息をもらした。

「借りとかよくわかんねぇけど、気にしなくて良いから使えよ」
差し出した傘を見ずに椎名は答える。
「私には借りとかわかるから嫌、それにあなたに傘を返さなきゃいけなくなるからめんどくさい」
椎名が学級委員とか生徒会長の活動をしているときのあの洗練された『清楚』なイメージが崩れていく。
「じゃあどうすんだよ」
「だから濡れて帰る」
その響きだけでも風邪をひきそうだ。
「いくらなんでも女の子独りで雨ん中濡らして帰しちゃ男が廃るんだよ」
「そんなことで廃ってしまうなら廃らせとけばいいのに」
「え?」
「そんなことくらいで廃るくらいの男なら廃らせとけばいい」
眼孔強く俺を睨みつける椎名を見て俺は頭をガシガシとかいた。
「そ、そう言えば駅の方で今日は欲しい物が売ってたんだっけな」
「?」
「しかたねぇから俺は駅の方まで買い物にいくかな」
俺は傘をさして一人呟いてみた。
「偶然あんたもそっちに行くんだってな、『動く屋根』とでも思って一緒に行くか?」
「嫌」
「え?」
「『動く屋根』なんてダサいから嫌、『偶然雨が当たらない空間』があなたの隣できるならそこしか雨を避けられないみたいだから仕方なくついて行ってあげる」
俺はため息を少し短くついた。
俺の方から椎名の口元が少し弛んで見えたのはたぶん、雨による冷気で空間が歪んでできた錯覚なんだろうな。

降りしきる雨の粒たちを傘で弾きながら二人で歩き出すと、小さい折りたたみ傘のせいで密着を余儀なくされて、その状態で油断すると鼻の下が伸びそうになる。
制服の上からとはいえ、一度は好いた女の子とこんなに密着すればそれはまぁ……俺は悦に浸りたくなる。
なるべく椎名が濡れないように傘を椎名の方に比重をかける。
雨の湿気のせいか、それとも女の子はみんなそういう風な物なのか、甘いドキドキする匂いが傘の中にたまっていく。
思わず抱きしめてしまいたくなるような、そんな甘い匂いは繊細さを欠くように俺を誘惑してきているみたいに感じて、否応に椎名が好きだという感覚を思い起こさせる。
「ねぇ」
椎名の声に体がビクついた。
「な、なんだよ」(別にやましいことなんか考えてないし)
この密着間の中で椎名は俺を見上げた。
その破壊力のある上目遣いという仕草に打ちのめされて腰が砕けそうになりながらも俺は気にしないそぶりを決め込んだ。

「濡れている」
「え?」
「なんで傘を自分中心にささないの?」
少し優しげに聞こえた椎名の言葉にドキリと心臓が跳ねた。
「あれ?本当だ、まぁ、大丈夫だろ、バカは風邪ひかないらしいし」
できるだけ俺は素っ気なく答えてみる。

「ふーん」
こんなにも素っ気ない椎名の言葉の中になぜか暖かさを感じるのは不思議だ。
「心配してくれてるのか?」
もし椎名が俺の心配をしてくれているなら俺は今すぐにでも滝に打たれて全身水びだしになってもかまわない。
「そんなわけない、それに『バカは風邪ひかない』の真意を知らなそうだなって思っただけだから」
「ああ……そうか」
俺はガックシと肩が落ちてその場に崩れそうになる。
なんでこうも椎名は俺に厳しいんだ?
そりゃ俺は脇目も恥も外聞もなく、あまつさえマナーも守らなかったが、恋とはそうなんじゃないのか?
まわりからみたらバカな行動を取ってしまうようなほど好きだからこそ『恋は盲目』なんじゃないのか?
すると、椎名はこっちを見ずに口を開いた。
「『バカは風邪ひかない』の真意だけど……」
「ああ、知らなくてかまわないよ。俺はバカだからな」
「違う、真意は『バカは風邪をひいたことに気づけない』で、私はあなたがそんなに鈍い人だとは……思わない」
「え?」
「でなければ私に傘を貸そうとは思わないでしょ?」
傘の中という『密閉空間の中』だからか、気が付いたら椎名はよく喋っている。
そりゃ、椎名の態度は相変わらず冷たいけど、学校で見るあの『優等生』が俺なんかとこんなにも長い時間喋るなんて考えてもいなかった。
そう考えると、さっきまでのドキドキとはまた違ったドキドキ感が芽生えそうだ。
水と砂利の混じった少し高い足音が二セットずつ雨の中を歩いている。

「雨って何で降るんだろうね」
椎名の少しトーンの下がった声が俺の耳に入る。
「は?え?」
「考えたこと無い?私は考える、雨が降らなきゃあなたの傘に入ることもなかったのに」
「ああ、そうですか……」
椎名の唐突な質問のような疑問はそれきり切り出されることはなかった。
(なんでなんだろう)
一度も考えたことはなかった、考える必要がなかった。
それは『なんで人類は金を払ってまでうまい物を食うのか』っていう事に似ている。
理由ならいくらでもつけられる。
それこそ最も哲学らしい答えも用意できる。
けど、椎名の言う言葉の意味は違う気がした。
雨に濡れた足下を静かに眺めながら歩いていると、水たまりに干からびて死んでいるトカゲが浮いていた。

「もうこの辺でいい’」
ハッと顔をあげるとすでに駅の近くにきていた。
「ここからなら濡れずに帰れるから」
そう言うと椎名はサッと傘から抜け出して駅へと歩いていく。
その後ろ姿が否応にかわいらしくて、俺は思わず走って抱きしめていた。
きっと男には本能的に愛おしい物を抱きしめる習性が遺伝子に刻まれているのだろう。
少し湿気を含んだ椎名の体は驚くほど柔らかくて、甘い匂いがする。
傘が地面にベチャッと落ちて転がった。

「なに…しているの?」
そのトーンの下がった声に我にかえると飛び退いて傘を拾った。
「ご、ごめん」
椎名はこっちを向くこともなく低いトーンで口を開く。
「本当にそう思うなら最初からしないで、あなたのそうゆうところ、大嫌い」
そう言うと椎名は足音を強く駅構内に消えた。
俺は動くことすらできないで立ち尽くしていた。
俺は今度こそ取り返しのつかないことをしてしまったらしい。

「へっくし!」


次の日俺は風邪をひいてしまったようで、鼻水がナイアガラになりそうなのをティッシュに助けてもらっていた。
雨音がなく、太陽がのぞいてきた今日は雨のすごい昨日とは打って変わっている。
(天気予報はずれたな……)
「だいじょうぶかよ」
顔をあげるとソフトモヒカンを茶色に染め上げているジョーが前の席のイスに足を組んで座っている。
「だいじょうぶだよ」
そう答えるとまたティッシュでナイアガラを吐き出す。
そのゴミを丸めてゴミ箱に投げると、目前に失速して前に落ちた。
それを渋々拾ってちゃんとゴミ箱に落としてから席に戻る。
「ボーカルがそんなんじゃライブは出来ねぇな」
「ライブすんのか?」
「しねぇよ、予定もねぇ」
「んだよ」
俺は顔を窓の方に背けて呟いた。
「というかおまえが曲描かないとできねぇだろうが、さすがに前の時のライブで行った曲をローテ変えてもバレんだろうしな」
そう言うジョーにルーズリーフを一枚差し出した。
「なんだよ、描いてんじゃねぇかって……これバラードだろ?らしくねぇな、どうした?」
「いいたくねぇよ」
するとジョーは『ハハァン』という顔をした。
「言わずともわかる、おまえまたフられたな?今度は誰だ?」

「……言いたくねぇな」
「なるほどな、今のでだいたいわかった。」
「え?」
ジョーを見ると、ジョーは出会った頃のような笑顔を見せた。
「おまえのことは意外に知っているんだよ」
肩をポンっ!と叩いてジョーは立ち上がるとルーズリーフをピラピラさせながら口を開く。
「こんなバラード描くくらいだからな、同じ相手に何回もフられるのはバカか天才かのどちらかだよ」
「てめっ!」
立ち上がりかけた俺にさらに声をかけた。
「おまえは間違いなく後者だよ、これがその証だな」
ジョーが教室を出た瞬間に担任が入ってきて挨拶をすませる。
「んだよ、あいつ」
ジョーはあの太々しい容貌に似て、俺と出会ったときは『誰かと差し違えて死にたい』という目をしていた。
『ただの自殺』ではダメで、『死ななければならない理由』を探しているようにも見えた。
そんなジョーが今では俺のお守りをしている。
「へっくし!」
鼻水をかみながら考えていた。
何であいつは俺といてくれんだ?

俺の名は『ジョー』
正しくはあだ名が『ジョー』なだけの男『城ヶ崎ツトム』。
親の仕事の都合もあって、小学生から転校を繰り返してしまった男。
「なんだてめぇ!」
『目つきが気に入らない』
たいていはただそれだけの理由で不良の的にされる。
俺の目つきの悪さや体の大きさはおやじの遺伝に基づいている。
しかし、そんな強固な肉体に包まれた俺の心はいつも崩れそうなほどに迷走を繰り返していた。
はじめはただ彼らに従い、ただ殴られいじめられ、金を差し出す日もあった。
しかし、不意に抵抗した俺の手が彼らの顔に当たり初めておやじの遺伝子に感謝したのを忘れない。
それからは目に付く人、目が合う人をいたぶる側にいた。
けれど、彼らの肉体や精神が傷つけば傷つくほど、俺の心も傷を深くしていく。
『誰か差し違えてでもいいから俺を殺してくれ』
いつしかそう思いながら他校を一人で敵にする時がきた。
中学一年を終わる頃には名前が売れるようになる。
「城ヶ崎てめぇ!」
心が泣いているのに顔が笑うような俺はこの日を境に喧嘩を控えるようになる。
風の匂いも鉄分に支配されるような泥まみれの死闘。
相手は数十人、下手をしなくても負けは確定。
下手をすれば負けが確変するようになるかもしれない。
最初に殴りつけた男以外は顔もわからないほどモミクチャにされ、口の中も血と泥にまみれていた。
気がつけば俺は利き腕を砕かれた時に警察に助けられたらしいと病院のベッドの上で聞かされた。
そしてさすがにそんな生徒を長い間受け入れるほど世間の学校は懐を深く作っていないのだ。
中学二年が少し過ぎた頃、俺はおやじの仕事の都合という話で他校に捨てられてしまう。

新しい学校はどこも他の学校と変わることなく、この突然の訪問者に冷ややかな視線を配ることで手一杯のようだ。
「どーも城ヶ崎です」
あいさつなんてこんなものだ。
俺はそもそも他人と仲良くするのもあきらめていた。
もし『気にくわない』と食ってかかるやつがいたら、また拳をふるえば良いだけのこと。
なんらかわらないのだ。
奴と逢うまでは。
(ダルいな)
すでに授業を抜け出した俺は、空を眺めるために屋上に逃避した。
床に寝そべるとまるで自分が空に溶けてしまって、すべて存在が消えてしまったように感じて心地よくなる。
目を閉じると風の音が顔をなでるように流れてくる。
「……ガンダ~ラガンダ~ラ!しまったこれじゃあガンダーラになってしまう」
せっかくの良い昼寝を意味の分からない歌がぶちこわしにきた。
(な、なんだ?)
起きあがってあたりを見渡すが誰もいない。
気のせいかと思ってまた寝そべってみるが、しばらくするとまた流れてくる。
「ふんふんふ~ん!ふふふ~ん!ガンダ~ラ……なぜだぁ!」
「誰だごらぁ!」
思わず俺の苛立ちが一瞬にして臨界を越える。
が、声はせしども姿もなく返事もない。
「が……ガン……ガンダ~ラ!ちくしょう!」
その姿を見せぬ異人を探すべくガンダーラを温和しく聞きながら音源をたどる。
すると入ってきたドアの上から聞こえてくる。
裏にまわると梯子らしき物があり、それをゆっくりあがっていく。
ゆっくりと上の様子をうかがうと、鼻歌を歌いながら足をバタバタしている奴がこちらにケツを向けている。
その見事なまでの『子供くささ』がさらに苛立ちを加速させる。
立ち上がって見下ろしてみると男はヘッドフォンをしながら何かを書き込んでいるように見える。
不覚にもこの得体の知れない子供のような奴に興味を示してしまった俺はゆっくりと何を紙に書いているか覗こうとしてみた。
異様に楽しそうに書き込んでいるのだ、どうせラブレターかなんかだろう。
少し楽しくなってきている自分に気がつきながらもゆっくりと首を伸ばす。
「うをぉお!できたぁあ!」
「うをぉ!びっくりしたぁ!」
突然立ち上がった男に驚いて俺も声を上げてしまった。
「ん?」
その音に気がついた男はヘッドフォンを取ってこっちを向いた。
男は見るも優しいほどの所謂一つの『イケメン』で、ムカつくほど良い匂いのする顔立ちのきれいなやつだった。

「お?なんだ?」
むしろ俺の台詞な気もするが男はそんな台詞とはまったく関わることもなく俺を見つめている。
「何を書いていたんだ?」
聞かずにはおれない性分が顔を覗かせてみる。
「ん?あ、これか、これはな次のライブでやる曲だよ」
男はひらひらと俺の前に出して言う。
「ライブ?」
「ああ、ライブ。次の文化祭でやる予定なんだよ、ほら前の時好評だったろ?」
さも自分たちを知っているのが当たり前のように言うこいつはどうも俺を苛立たせる。
「知らねぇよ、俺はこの間転校してきたばかりだからな」
吐いて捨てるように言った台詞に少し悲しい気がした。
「そっか、じゃあ仕方ないな」
そんなことお構いなしに男はさっきの曲をそらんじている。
「おまえ俺が誰か気にならないのか?名前とか、どっからきたとか」
「興味ない」
「は?」
一瞬、こいつは殺しても罪に問われない生き物なんだと感じた。
「名前とか、どっからきたとか、聞いたってどうせ忘れるだろうしな」
「おまえ頭悪いのか?」
すると男は嬉しそうに笑った。
子供のように無邪気に逞しく。

「ははは!おまえ面白いな!」
男は少し考えて答えた。
「もしも『自分の思ったことや感じたことを素直に表す人間』が頭悪いならそうなんだろうな」
俺は呆気にとられた。
「だって俺はやりたいことしかできないしな、他のことはやりたくないし」
世の中にはこんなにも垢抜けてすばらしい人間がいたのか。
「おまえおもしろいな」
そう言った俺はすでにこいつの虜だった。
「そぉか?俺にはおまえの方がおもしれぇけどな」
「俺は城ヶ崎ツトム、よろしくな」
「俺は橘楓」
男はニカッと笑うと何かを思いついたように手を叩いた。
「そうだ!ジョー、おまえギター弾けないか?」
「は?じょー?」
「城ヶ崎だからジョー、常識だろ?で、どうだ?弾けるのか?」
俺はこの阿呆が気に入ってしまった。
「持ってもないし弾けもしない、が、興味があるからおまえが教えてくれんなら今度買ってくるよ」
「そうか!よろしくな!」
男はそういうと風のように去っていった。
空を見上げるとさっきまでと同じ空なのに、まるで違う物のように見えた。
こんなにも明日が待ち遠しいのはいつ以来だろうか。

さっそく俺はその日におやじに口を利いて無理を言って金を前借りしてギターを買った。
名前が気に入って買ったムスタング、『初心者にも安心』なんて書いてあるから安心したのもある、なんてアイツには内緒だ。
次の日にギターを背負って教室にはいるとなぜかアイツが俺の席に座ってマンガを読んでいた。
「おまえ何してんだよ」
そういうとコイツは『しっ!』と口の前で指を立てた。
「『静かにしろ』じゃねぇんだよ、そこは俺の席でよ。さらに言わせてもらうと誰のマンガだよ」
コイツは渋々立ち上がると教室の一人に指を指して言った。
「あいつが貸してくれた、読みたかったんだよな」
「……」
「あ!ギター買ったのか?見せろ!見せろ!」
「ちょっ!やめろ!」
こんなとこで見せるために買った訳じゃない。
「ちょっ!見せろって!……チェッ!なんだよケチ!」
なんなんだよコイツ。
すると泣く真似をしながらコイツは廊下まで走るとマンガを持ったまま叫んだ。
「放課後軽音室まで来いよ!?来ないと泣くぞ?」
「おー泣け泣け、行かないかもしれないけどな」
「ケチぃ!変態!」
捨てぜりふにしてはかなりやってくれるな。

いつ以来、というか何でこんなに放課後になるのが待ち遠しいんだ?
と、国語の授業を聞き流しながら考えていた。
小脇に抱えるムスタングを思うと中々にニヤニヤしてしまう。
ソフトケースを見つめてみると中のムスタングが見えるようだ。
ワクワクとウズウズが同時に来るなんて、ちくしょう。
早く放課後にならねぇかな。
こんな気持ちで過ごした一日は思いの外短く感じた。
最後の教科が終わるとワクワクを抑えて、『仕方ねぇから来てやった』感を出して置きたかった。
わざとゆっくりと身支度をすると、軽音部室に向かう。
一歩一歩にやたら違和感がわく。

軽音部に近づけば近づくほど音がしているのかと疑う、校内に響いているのかと思ったが、そうではないみたいで。
重々しい扉が中と外を隔てていて、全く音が聞こえてこない。
(まさか今日はやってねぇんじゃねぇか?)
そんな疑惑を抱えて俺は扉を強く引いてみた。
鉄のこすれる音がしたと思ったら一瞬で中からの音に圧倒された。
こんな爆音がよく外に漏れなかったな。
しかも……
この曲は知っているぞ。
オフスプリングの『オール・アイ・ウォント』だ。
軽快で重低なリズムに聞いたことある声が響く。
この音の主はヤツだ。
橘だ。
俺は驚きを表す前に聞き入ってしまった。
あの、あんな、変なヤツがこんなに上手いなんて。
俺はまた心を鷲掴まれた気分だった。

少し中まで入っていくと、中は広い講堂になっていて、見渡すとかなりの人たちが橘たちを見ていた。
彼らの視線の先にいる橘は角が生えたような黒いギターを弾きながら歌っていた。
汗塗れで雄々しく猛々しく、その迫力は圧巻だった。
すると突然橘がギターをやめた。
「おお!来たか!」
そう言うとギターからシールドを抜いて走ってきた。
他の二人は呆れたようにゆっくりとベースとドラムを片付けてからこっちにくる。
「来ないかと思ったんだよ、ほらツンデレだからなおまえ」
「あ?」
「まぁまぁ待てよ、あいつらにステージ」
「ああそっか」
橘は振り返って叫んだ。
「シンちゃんたち使っていいよ」
すると向こうに居た集団は軽く手を挙げてからステージの準備を始めた。

「じゃあ外で練習するか」
そう言うと橘はギターケースを片手にギターを抱えて講堂の外にでる。
続いて出るとベースもドラムも出てきた。
どうやらこの二人は橘のバンドメンバーらしい。
講堂の外にあるラウンジに腰をかけると橘はギターを丁寧に降ろしてからプリントの束をこっちに投げた。
「なんだ?」
「この間やったライブの曲だよ、他にもあるけど、これ弾いてもらうからな」
「は?」
「そのために来たんだろ?」
そりゃそうだ。
だが物事には順番がある。
まずはバンドメンバーに紹介、で、仲良くなってバンドの方針を確認。
それから曲だろ。
「へぇ、ムスタングだ」
その声に振り返るとベースを弾いてたヤツがいつの間にか俺のムスタングを取り出していた。
「ちょ!てめぇ!なにしてんだごらぁ!」
そう殴りかかるとムスタングを盾にされた。
「ぐっ!てめぇ、卑怯だぞ」
「俺、痛いのやだし」
「まぁまぁ」
「なにやってんだ!」
橘が声を張り上げたから思わずそちらに気が行った。
「俺も混ぜろよ!」
「ちょっ!まて!てめぇらやめやがれ!」

「くくっ」
そんな昔のことを思い出してジョーは思わず笑ってしまった。
いつだってあいつは俺たちをかき回して新しい世界を見せてくれる。
シゲルも峰田もそんなあいつに惹かれたんだろうな。
カエデが書いた曲を見るとさらに驚きを隠せない。
アイツはマヂに天才なんじゃないか?
ジョーはルーズリーフを手に自分の机に着くと音符を眼でおいながら音に変換する作業をしてみる。
それこそ俺がバンドに入りたての頃は音符すら読めなかったが、楽典やら『よい子のギター』を一巻から購入して勉強して、最近では何とか音に変えられる。
だけどカエデのように曲を作るなんて作業はなかなか容易ではない。
だから俺はあいつに対しての尊敬が外れない。
何回か音を頭の中に流すと、少しのフレーズが頭に浮かぶ、それを余った余白に書き記す。
そんなことしかできないけど、あいつは俺のフレーズを最大限に活かしてくれる。
あとはバンドが集まったときに煮詰めていく。
何となく、顔がニヤケてしまう。
「ずいぶんと楽しそうじゃん」
声のする方を向くと俺の髪の色よりも明るい茶髪の女がガムを噛んでいた。
「そぉか?」
「うん」
女は俺の前の席に腰を下ろすと上を向いてガムを膨らませる。
周りを見るとすでに授業が終わってしまったらしく、まばらに人が行き交っている。
「ツトムが喧嘩以外にそんな顔してるのみたこと無かったし」
女は膨らませたガムを割って、また噛み始める。
「まぁな、昔はそれしかなかったしな」
「今のツトムは眼が優しいよ」
「そぉか?」
「うん」
女はジョーを見てニカッと笑った。
「あたしはこっちに来たばっかりのツトムより、今のツトムの方が好き」
それを聴いてジョーもニカッと笑う。
「俺もだよ」
自然に近づいた唇が女との距離を無くしていく。
梅ガムの味が口に広がった。
「……っ、レイラ、カエデのことまだ嫌いか?」
唇を離したレイラはコクンっ、と頷いた。
「ツトムを笑顔にするのはいつもあいつだしね……でも今は感謝の方がデカいかも」
「そぉか」
「ツトムは」
「俺はあいつがいなけりゃ今頃クソみてぇになってたろうからな」
「そう」
「感謝しきれねぇかもな」
窓の外を見るとまだ空がどんよりとくすぶっていた。


レイラとの仲もあいつが居なければ無かったことなのだろうな。
バンドに入ったすぐにでも、俺は喧嘩から離れられなかった。
まぁ、この話はまた後日に日を改めよう。
一言だけ言わせてもらえば、あいつは恩人である。
俺はレイラにカエデのルーズリーフを見せた。
「わかってるよ『あいつは天才だな』でしょ」
「まぁな」
レイラはガムを噛み続けながらバラードを目で追う。
なんでも昔はイギリス人の親父さんの影響でピアノをやっていたらしく、音に関してはやたらに詳しい。
俺が音を理解できたのはこいつといたのもあるだろう。

「次はいつライブ?」
「……わかんねぇな、たぶん学祭かどっかだろうな」
レイラは長い髪をクルクルと回しながらまだ眼で音を追っている。
「ねぇ、この曲」
「ん?」
レイラはいつになく眼を見つめてくる。
「この曲、ううん、『この曲も』ツトムをきっともっと笑顔にしてくれるよ」
「はは、なんだそれ」
「ツトムのフレーズが、存在が……あいつの支えになってる、だから橘も笑顔になるから」
「……だと、いいな」


「へぃっくしっ!……うー……」
なかなか鼻のナイアガラが強すぎて鼻紙が手放せない。
チラリと椎名を見ると『学校の勉強が唯一の使命』かのように美しくペンを走らせる。
俺はまったく集中できずに鼻を何回もかみながらそんな様子を眺めていた。
世の中は自分の思ったとおりには決して進まない。
そんなことは小学生でも知っていることだ。
けど、俺には世の中はツラすぎる。
なぜ、世界は『混沌』なのか。
なんで、みんなが幸せにはなれないのか。
そんな考えが浮かんでは消して、さらに浮かんで、落ち込んでしまう。
頭の中に曲を思い浮かべて並べて弾いてみる。
グランジ、そんなジャンルの曲が今の俺の心情にはよく合う。
校庭では、三年生男子がサッカーをしている。
その男子たちの中でひときわ目立つ金髪の男は『シゲル』
俺のバンドのメンバーでベース、さらにはサッカーやバスケもできる運動神経抜群でイケメンいわゆる人気者だ。
(シゲルはまた、目立つなぁ……)
「へぃっきし!」
思いっきり鼻をかんでいると、担任と眼があった。
手を挙げながらも立ち上がって、担任に口を利く。
「具合悪いから保健室行ってくる」
すると手で追い払うように担任は仕草をした。
生半可に勉強ができて、さらにはシゲルやジョーのようなやつらと一緒にいると、学校では先生たちの意見を聞かないですむ。
俺は教室を怠そうに出る。
何人かが俺を目で追うのがわかったが、別段、話すこともない。
廊下に出るとどこも授業だから人がいなくて静かだった。
俺のすり出す足の音が響いて、世界には、俺独りしかいない気になった。
だが、後ろから歩く音が聞こえた。
俺とは違って、なるべく上履きを削らないように踏み出す足音はなんだか優等生な匂いがする。
振り返ると、一番俺の後に続かないであろう人物がまっすぐこっちを見て歩いてきている。
「なんだ、一番来そうにないのにな」
俺のつい出た言葉にまた椎名の強めの眼が光る。
「来たくはないわよ」
スッと横を抜けたときに、甘い香りが俺の鼻に入る。
「なら来なけりゃいいだろ、っていうかおまえは何しに来たんだ?」
「あなたを保健室に引率するわ」
「……保険委員はたしか綾部だろ?」
綾部のことは覚えている、明らかに保険医に惚れたクチのオタク顔の奴だ。
「私が自分の意思で来たのよ、先生に言って……あなたが風邪をひいたのは明らかに私の責任だし」
階段を降りながら言う後ろ姿を追いながら俺は否定した。
「いやいや、思うに俺が勝手に濡れたのが原因なんだよ」
すると椎名は振り返って言った。
「そんなこと言わないで」
「?」
「あなたが私を気遣わなければそんなことにもならなかったのよ」
そう言いながら階段をゆっくりと降りる椎名のあとに俺はついて行く。
まるで世界に二人だけのような錯覚が入り交じりながらズレた足音が連なるを感じていた。
鼻水を抑えながら俺もゆっくりと階段を降りる。
朝日が昼に向けて流れて行くのを体で感じながら。
保健室は一階の体育館の横にあり、いつだって暇な人間たちがいるイメージがにわかに浮かんでいる。
が、うちの保健室はなぜかそんな人間たちがいないことの方が多い。
みんな暇じゃないのか、それとも学校の怪談か、真意は突き止めないでおこう。
扉を開けると消毒液のかすかなにおいと、差し込む光のにおいが混じって何ともいえない雰囲気だった。
この雰囲気あんまりなじめないんだよなぁ……
と、思いながらズルズルと椎名の後ろについて行く。
椎名はベッドの方へ手を伸ばし、あからさまに『さっさと寝ろ』と促している。
両の掌を天に向けて肩をすくめながらベッドに潜り込むと、上半身だけ外に出してみた。
その様子を一通り眺めた椎名はベッド脇の簡易イスに座った。
頭の後ろに手を入れて何気なく椎名を見ると椎名も俺を見ていた。
「なに?」
「へっ?」
「なんで私を見るの?」
(そりゃ好きだったから)なんて言うわけ無い。
「いや、もう引率終えたのだから帰るのかな?って思ってさ」
「…………そう、ね」
「?」
何かを考えたように立ち上がると椎名は俺に背を向けて足をゆっくりと進めた。
「……ねぇ?」
「ん?なんだよ」
言葉を投げかけた椎名は少し苦しそうな目もこっちにむけた。
「……」
「なんだよ」
「……ねぇ、…………なんで私なんかを好きになってくれたの?」
「へ?」
椎名の苦しそうな目は俺に対して誠実さを表している気がした。
口では言えない何かを言いたげな目。
「……ねぇ、なんで?」
「なんでって……」
一目惚れ。
「一目惚れだよ」
それ以外に合致する感覚はない。
思う言葉なんてたいがいそんなものだ。
どんな言葉を紡げば、どんな音を並べれば、どんな風に言えば、『想い』なんていう不確かなものが相手に伝わるのだろうか。
「……そう、一目惚れ……」
「……何だよ、悪いかよ」
その言葉にかすかな反応しかせずに椎名はカーテンを閉めてその向こう側に消えた。
(なんなんだよ)
軽いダルい気持ちを天井を見つめることでどうにかやりすごそうとして、失敗した。
あの悲しげな顔が頭にこびりついて離れなかったからだ。
俺の見間違いでなければだが。
どんなに言葉を紡いでも、どんなに身を削っても、どうしようもないことで世界はあふれている。
カーテンの隙間からのぞく光の空を眺めてみたが、太陽も見えはしない。
頭にこびり付いたあの悲しい顔を思い浮かべて目を閉じた。
暗闇に浮かんだ洗練された顔はやはり、どこか言葉にならない悲しみを秘めている。
まどろむ意識の中、俺は何か甘い香りが唇に触れた気がしていたが、意識を闇に落としてしまった。
椎名が唇をそっと寄せたとも知らずに。

2.GAMMON

この世は神様が作った双六で、俺たちは駒。

賽子を振るう権利も与えられない。

ジョーは高らかにファミレスで宣言していた。
「俺たちは絶対ビッグになれる」
その真意すらわからないが、なぜかジョーがおごってくれることになってるからおいしくいただこう。
油の弾ける音とともに拡散する肉の焼ける匂いが胃を活発に動かす。
思わず生唾を飲んでしまう。
「ジョー、ビッグだかなんだかわからんけど、なんでその女がいる」
シゲルがフォークでレイラを指すとジョーは左手の中指をたてて反論した。
「レイラの親父さんがピアニストなんだよ」
すると峰田が珍しく会話に参加する。
「……けどプロドゥースするわけじゃない」
やけに発音が良いのは奴の家庭が問題だろう。
さらに右手の中指をたてたジョーは口を開く。
「そりゃそうだがよ、うちらを、うちらの音を聞いてもらってよ、知人に口添えくらいはしてもらえるんだってよ、なぁ?」
レイラを見るとパフェを食いながらレイラはうなずいた。
「昨日パパに話をしたら『おもしろそうだ』ってさ」
峰田が味噌汁をすすってからつぶやいた。
「……口添えでもないし」
シゲルもうなずいた。
ジョーは立てる指もなく座り込んだ。
ハンバーグはたまらなくうまく、これとセットで米とスープがついて680円は安い、と思っていたらみんなが俺を見ていることに気がついた。
「なに?」
「いやだから、どうすんだってはなしだよ」
シゲルがコーラを飲みながら言う。
「……ライブもしないバンドの意味は?」
峰田も口を開く。
「いんじゃない?その親父さんに聴いてもらってから考えてもさ」
言うと峰田はまた口を開く。
「……そんな感じで?」

シゲルもまた口を挟む。
「そうだぜ、俺は今年で卒業だし、大学に行くか就職か、どちらにしろ方向性いかんでは何かを諦めなきゃならんし」
「諦める?なんであきらめんだよ、一度しかない人生なのだから全部ゲットしようぜ」
「……なら悠長に構えてる場合じゃない」
峰田はなぜか良くしゃべる。
「そうだぜ、とりあえずの方向性くらい欲しい」
シゲルは冷たい目で見つめてくる。
「とりあえずは曲を作って、園田の親父さんに聴いてもらう」
ジョーはうれしそうに笑った。
「で、大学に行く人は行く、プロにもなる、ライブをする」
見る見るみんなが暗くなる。
「そんなことできるわけねぇだろ」
シゲルは何かを諦めたように呟いた。
「……人生……そんなに甘くないし」
峰田の発言もかなり厳しい。
「甘くないだとか、できねぇとか、なんだよ、なさけねぇな」
「ンだと!てめぇ!」
シゲルが立ち上がる。
峰田もため息を付いて携帯をいじり始めた。
「らしくねぇよ、シゲル、峰田、『できるできない』『甘いかどうか』なんてバンドを組むときに話しただろ。『あきらめたりするくらいならハナから夢見るなよ』ってよ、『できるまでやらなきゃ何事もできねぇ』『甘いのは考え方で、方向性じゃない』やりたいことをやるためにバンドを組んだんだろ」
するとシゲルは胸ぐらをつかんできた。
「だったらできるまでやるためのせめてもの方向性をみせろや!」
「それがわかってたら苦労はねぇよ」
「てめぇ……いい加減にしろよ……てめぇが作ったバンドだろ!!てめぇが舵とらねぇでどうすんだよ!」
シゲルは今にも殴りかからんばかりの勢いだ。
「シゲル、おまえは俺になにを期待しているんだ?」
「はぁ?」
「峰田も、ジョーもだ。俺にどうしろと?これは映画でもない現実だぞ?俺になにかできるとでも?」
「なに言って……」
「諦めることはないが、キリストでもモーゼでもない俺にはできることに限界がある」
「前と言ってることが矛盾してる」
園田が言う。
「たしかにな、けどよ、矛盾してねぇとつまんねぇんだよ」
俺はコーラを飲みながら言う。
「俺たちは、ハナから『プロになろう』なんて考えてバンドを組んだわけじゃねぇ。けど『ライブがしてぇ』『より多くの人に俺たちの紡いだ音を聞いて欲しい』と考えれば当然プロになった方がいいに決まってる」
みんなは静かに俺の言葉を聴いてくれている。
「だからと言ってプロだけで生きてくなんて俺には考えられねぇし、楽しいことはすべて経験したい、学びたいこともまだまだある、知りたいことも、だから一つには絞れねぇよ。
おまえたちを引き入れたのは確かに俺だ、けど、それは『プロになるため』じゃない、『こいつらといつまでもいれば楽しい』と感じたからだ」
氷が溶けてコップの中で遊ぶ。
「今、確実に言えるのは将来の事じゃない、今だと思う。園田の親父さんに音を聞いてもらってもどうにもならないかもしんない、ライブだって楽しいこともどうにもなんないかもしれん、だからこそ、早急に事を運びたくはないんだ」

「……意味わかんない」
峰田は呟いてストローをすすった。
「たしかにな」
シゲルも頭を抱えた。
「結局は俺におまえらを束縛する力はねぇよ、バンドを離れるのも止めねぇよ」
「おい!カエデ!」
ジョーが口を挟む。
「わかった」
シゲルは席を立った。
「シゲル!」
ジョーは慌ててシゲルの腕をつかんだ。
「……慌てんなよ、ドリンクバーに行くだけだ」
フッとみんなが笑う。
「ハナから決めていたんだ、俺はやりたいようにやるってな。だから飽きるまでバンドはヌケねぇ、それに大学も行く、俺はここ以外に居場所がねぇしな」
シゲルの発言を聞いて峰田が口を開く。
「……俺も、なんだかんだ言ってここ好きだし、あ、俺コーラね」
シゲルにコップを渡す。
「自分で行けや」
「……めんどいからヤだ」
「んだよ、ビビらせんなよおめーら」
ジョーは肩をなで下ろした。
「ジョー、俺も峰田もハナからヌケらんねぇよ、お前が早計なことを考えるから暑くなっただけだ、それにこんなバカなリーダーを放っておけるかよ」
ジョーは笑いながら答える。
「たしかに!」
「おいおい、おまえら、本人に聞こえるように言うなよな、曲かかねぇぞ?」
「……とか言いながら笑顔だし」
「うっせ!」
「で?レイラの親父さんにはどんな曲をきかせんだ?」
ジョーは紙を用意している、多分、忘れないようにだと思うが。
なんともかわいらしい。
まるで宿題に目覚めた悪ガキが宿題を待ち望んでいるみたいに見える。
「……一曲だけ?」
峰田も携帯を『カチカチ』鳴らしている。
「いや、せっかくだから文化祭にお呼びしたいねぇ」
そのほうがおもしろくなりそうだからだ。
「レコーディングで聴かせんじゃねぇの?」
「なんの話だよ」
シゲルがジョーの後に続く。
「園田の親父さんに聴かせる曲さ、わざわざレコーディングしても俺たちの経済力だと1、2曲しか録音できないだろうし、ライブもハウスでは無いし、なら文化祭に呼んで文化祭と同時に楽しんでもらおうぜって。あ、俺もコーラおかわり」
コップを突き出すとシゲルは明らかに顔をゆがめてしまったが、渋々入れてきてくれるようだ。

「……でも、やる曲が決まって無いじゃん」
峰田は携帯の画面を見せた。
そこには日付と曲名が細かく記されていた。
俺たちが弾いた曲と弾いた日だ。
「相変わらず細かいなぁ」
「……性格だよ」
「なんの話だよ」
またシゲルがおかわりをして戻ってきた。
「弾く曲さ、峰田が細かくチェックしてくれていて助かるって」
それを聴くとシゲルは、やっと落ち着いて席に腰を沈める。
「この間カエデが描いたバラードはどうすんだ?」
ジョーはルーズリーフを差し出した。
そこには細かくフレーズなりが追加してある。
ジョーのアクセントだ。
「……細かいし、俺のパートどうする?」
「バラードみたいなパンクにすればいんじゃねぇ?」
シゲルが峰田に呟く。
「文化祭まで時間あるし、これも入れるか、で、あと3曲はほしいとこだよなぁ」
俺はテーブルを指でたたきながら呟いた。
ジョーもシゲルも峰田も、頭の中で曲の全容を考えているようだ。
『曲』なんてものが作ろうとしてすぐに作れたらどんなに世界は音を生み出せる価値観にあふれるだろうか。
昔、ポール・マッカートニーだかジョン・レノンだか、リンゴ・スターだか、とにかく、カブトムシの名前をもじったバンドの誰かが、夢から覚めてすぐに曲を書いたという話をちらほら耳に入れた時期があったが。
みんながみんなそんな才能に溢れてないから世界は楽しいのかもしれない。
と、時々想う俺は椎名の言うとおりにバカじゃないのだろうか。
すでに夏に片足をつっこんだ季節なのに、どこか湿気じみた今日はなんとなく何かが起こりそうな気がしてならない。
カラン。
コップの中の氷が少しおどけた。
『アイス・ブラッド・サーカス』
不意に思いついた題名だが、歌詞の雰囲気までは掴めずに終わることが多い。
たいがい俺は曲のフレーズよりも先に歌詞を作る派で、それに音を作る方が多い。
時々、有名なアーティストの『物の見方』を自分で体感してみたいと思う。
そうすればあんなに感慨深い歌詞や内容、フレーズを思いつくきっかけを自分で知れるからだ。
きっと彼らにはこの世界は俺らよりも刺激的に見えているのだろうな。
なんてことしか考えつかない。
なんて低脳なんだ、とも考えついた。
「なんだよカエデ、もしかして曲が浮かんだのか?」
ジョーたちが羨望の眼差しをむける。
「残念、だめだ。今は浮かばない」
ふと、椎名のことを思った。
顔や仕草が目の前に浮かぶのに反応して心臓が鼓動を荒げていく。
甘い香りが鼻の中で漂っている。
唇になぜか優しい感触が浮かんだ。
「降りてきた……」
つい呟いた。
鞄からルーズリーフをとりだすと雑にペンで音の高低、拍を書き出す。
その書き出された物はまるで折れ線グラフのようだ。
グラフの先端に始まりの音名を記す。
これがメロディの『種火』だ。
「おぉー、また一曲生まれたか」
シゲルやジョーが口をそろえる。
「まだ完全な音にはしてねぇから、これから帰ってギターで確かめる」
俺は鞄を持ち上げると財布をとりだして夏目漱石先生を一人、机に置きだした。

外気との温度差を作り上げている重いファミレスの扉を叩き開けると、『ムァっ』とした空気が顔に触れた。
蝉が寝床から這いだして短い『生』を謳歌する。
感じずにはいられないが、日差しを受けて夏を謳歌できる蝉になれれば『生きている』実感が否応なく湧く。
必要ないのに俺は家まで走っていた。
待ち遠しい。
早くギターに触りたい。
口元はやはり、ニヤツいていた。
ワイシャツに肌が張り付くような違和感。
それさえも何とも感じないほど高揚感は俺を天井の気持ちに持ち上げている。
よく、テレビやドラマなどで音楽をやってる人に『なにがそんなに楽しいの?』と訊く人が居る。
俺の耳によく入るフレーズでは『そこに音楽があるから』とか『音楽が人間の生み出した至上の幸福だから』とか『焼き肉定食は四文字熟語にはなりません』とか……
『バナナはおやつにはいりません』と同じくらいにくだらない質問に感じてしまう。
まず、バナナは23度前後で放置が一番バナナらしい味になる。
フィリピンが生産地だからって必ずしも暑いところに置くのがベストじゃない。
それにバナナは食後のデザートだ。
……
…………
とにかく、ギターを弾いてる人に『ギターのなにが楽しいので?』と訊いてはならない。
それはあなたが飯を食うことを『楽しい?』と訊かれるようなものだ。
ギターや何かをやってる人は『それをやらないとイライラする』わけだ。
下手をしたら死んでしまう。
と、思う。
鼻に、かすかに地面で蒸発した水蒸気の匂いが入る。
(あぁ、また今年も夏がくるのか……)とにやけてしまう匂いだ。
弾む息を飲み込んで走る俺は、ようやく家に着いた。
玄関を開けて部屋に入るとギターをケースから出してスタンドに立てかける。
いつも磨きヌいている黒光りする自慢の逸物だ。
ルーズリーフを掻きだしてギターの弦を少しシャープ気味にしてみた。
『route5』と書かれたピックで一弦から弾いていくと、音が頭の奥で共鳴している。
さっそくルーズリーフに書かれたフレーズをなぞって弾いてみた。
甘い、甘い音の羅列が微かに脳の一部を揺さぶる。
「もう少し何かほしいな」
書かれているフレーズを基盤にして、少し遊んでみると、何気なく良い感触である。
だが、決定的に『音遊び』程度にとどまりを見せている。
目を閉じて音をゆっくり並べてみた。
暗い世界のあちこちに一瞬だけど光が灯る……
頭のどこかがこの『作業』とは違うことを一瞬考えた。
ふっと、『また』降りてきた。
イメージが湧いた。
また。
あいつのことが浮かんだ。
なぜかイメージが湧くと微かに甘い匂いが脳をとろけさせる。
動悸がして、気持ちが高ぶるのも感じる。
まるで、シェイクスピアを飼い慣らしたようなペン使いで歌詞を殴り書き、シューベルトを弟に持ったように音符を重ねていく。
そしてB・B・キングよろしくなほどにピックを弾けさせる。
ツーン。というほどクリアな音が走り始め、七つの階段を駆け上がったりしている。
否応にラブソング。
切実にバラード。
リズムを200と書き伏せて目を閉じると、不正確なドラムのリズムを感じあわせてギターを弾いてみた。
妄想と虚構の音楽が織りなす空白なる愛は、見事に姿を現し始めていた。
ブルル……ブルル……
ポケットの震えが現実に引き戻す。
見ると、ジョーからだった。
「どうだ?」
単純に明快な質問。
俺もジョーなら同じ言葉をかけているだろう。
携帯の時計を見て驚いた。
家に帰ってきてからすでに数時間たっている。
俺はどうやら起きてすぐに曲がかけるアーティストにはなれなさそうだ。

「なんとか形が見えてきたぞ」
単純にして明快、になれば良いメール。
あとはジョーにフレーズを考えてもらったりすればこいつは形になる。
最低でも最高の曲にはなる。
ギターをいったんスタンドに立てかけて、部屋に寝ころんでみた。
規則的な天井の模様を、なるともなく眺めながらぼんやりしてみる。
気がつく頃には闇に溶けそうなくらい意識が離れている。
虚構と現実の狭間の、ほんの少しの緩さみたいなものがへばりつくのがわかった。
(そういえば……)
起きあがって再び鞄の中を漁る。
ジョーに渡していたルーズリーフを取り出して餌を見つめる犬のように凝視をする。
そこにはいくつものフレーズが描かれており、どれも描かれるだけではもったいない物ばかりに感じた。
ジョーにしか生み出せないジョーだけのフレーズ。
音の並びだけで人の存在意義を生み出せるすばらしい能力のようにも見えた。

音が、音の羅列が価値を見いだせなかったとすると。
あのベートーヴェンも、ビートルズも、ただの髪が長い中年になってしまう。
そして、世界自体の価値ももしかしたら地べたを這い蹲るような価値観しか生み出せなかったかも知れない。
俺はそんな世界なんかクソ食らえだし、価値のない人間なんかいないと思っている。
俺だって音楽がなかったらただのクソになってしまう。
それくらい音は良い。
ジョーもシゲルも峰田も、ある意味での存在意義を音に求めている。
そんな気がした。

コンポのスイッチを入れる。
入ってたCDはjamiroquaiで、ポップなナンバーが部屋の空気に刻まれていく。
jamiroquaiも、音がなければ世間から落ちこぼれてしまっていたに違いない。
彼の曲を耳に入れながら、新しいルーズリーフにバラードを仕上げていく。
鼻歌を歌いながら。
頭の中では音の羅列が色をかもしながら弾けては消え、組み合わさっては崩れていく。
溢れ出る旋律は一見することもできない刹那に消えていってしまう。
その端々を捕まえ、その一部を刻み込む。
言の葉も、大樹のように様々な解釈に枝分かれしていく。
つい、さっきまで真っ白だったルーズリーフが黒い模様を走らせて一枚の絵画のように雰囲気を持ち始めた。
こんな落書き、一葉にすぎないのだけど。
落書きに埋め尽くされた紙を地面に捨ててまたギターを抱えた。
適当に歌いながらコードを押さえてみる。
何とも不協和音だ。
ふと、あいつの声が聞こえた。
『私はいいと思うけどな』
あの雨の日に俺が口ずさんだクソ歌を聴いたあいつの、椎名の言葉である。
胸が締め付けられるような感覚に襲われながら気がついた。
(俺はとことんあいつが好きなんだな……)
他人を好きになるのは、生物として当然の摂理だと。
ドラマか何かで聞いた気がするが。
そんなことはどうでも良い気がする。
歌詞ではいつでも愛の枕詞であるのに、なんか上っ面だけ描かれた下手な油彩のように見えて仕方ない。
実際、世の中の仕組みがそうであるように。
インチキくさい感情の上に鎮座しているのが、歌詞なんかで歌われる綺麗な『人を好きになる』ことなんだろう。
なんて、こんなにも忘れられない感情を皮肉ってみたところで、俺があいつとそんな関係になることはないのだろう。
美しい不協和音を奏でるギターに耳を傾けていると、ふと懐かしい音が頭に響いた。
それは、今の母ではない母の、ひいては俺を産んでこの世を去った母の子守歌なのだろう。
顔さえ知らない実母の子守歌をその体内で聴いていたのを思い出したことによるのか。
とてつもなく、安堵感と喪失感があふれてくる。
今の母は、とてもいい母だが、やはりどこか他人行儀な気がしてならない。
なんて、少し失礼なのかもしれない。
誰かの心に残るような音を紡げるように、誰かの心を動かせるような音楽がやりたかった。
それが、こんなこと考えてる俺にはとうてい無理なのかもしれないな。
…。
ふと、何かがわかった気がした。
いや、わかっていたことが理解できたのかもしれない。
俺の音楽の方向性の明暗。
考えすぎていたのかもしれない。
動機が激しくなって身を締め付ける。
目の前が白くなるにつれて頭の中にフレーズが浮かぶ。
俺の音楽はこうでなきゃ。
その音は後に俺の運命をどん底に落とすことになる。
次の日、俺はジョーにメールを打った。
『スタジオ5に集合、曲二つ完成。』
オモシロいのが、こんな単純な文だけでメンバーは必ず期待の時間に現れる。
まるで、俺のことを理解しているかのように。
家をでると、さすがに四季のある日本に住んでいることを感じる陽気だった。
「今日はまた、暑くなるな」
スタジオ前にはすでにジョーと園田がいた。
「まっていたぜ、さっそく確認させてくれよ」
がっつくジョーにルーズリーフを見せた。
「バラードが一枚に、もう一枚はパンクだな」
「ああ、みんな集まったらフレーズ弾くからよ、そん時に多分イメージ作れるぜ」
ジョーは熱心にルーズリーフを見ている。
すると、峰田とシゲルがノタノタとやってきた。
「…お待たせ」
「さ、お楽しみの時間だな」

3 priority seat

俺はハズれ者だ…だから人と相容れない。

だから俺は最高なのさ。

雑多な音で、世界の喧騒が表される。
その中の一部で、今日文化祭が催される。
学生最後の楽しみとする者、そんなことすら考えない者。
大人からしたら中途半端なクオリティのセットで客引きする女子生徒に、鼻の下をのばしている他校の生徒。
うちのクラスは真面目な椎名やその他の生徒のおかげで、そこそこなクオリティの物ができた。
焼鳥屋さん。
やすい肉を規定道理の数だけ買ってきて、串に刺して……。
これだと、店番も準備も楽にできて俺や他のやつのように、クラス以外の催し物に参加する奴にとってありがたい。
さすがは委員長様。
生徒会長様。
ジョーやシゲル、峰田も色々難癖を付けて抜け出してくるにちがいない。
人で溢れている中庭を教室から眺めた。
昼を少し過ぎた頃だからだろうか。
人がわんさかいて、なんとも滑稽に見える。
「……なにしてるの?」
「それはオマエだよ、クラスの代表なんだからみんなの所にいろよな」
「私はあなたみたいにさぼる人がいないか見回っているのよ」
艶のある長い髪をなびかせようともせずに椎名は答えた。
雑多な世界からの阻害された世界。
「つまらないの?」
そんなことはない。
「いや、楽しいさ」
もう一度中庭に目をやるが、少しまえとまったくかわらない景色。
まるで、テレビを見ているかのような無関係の世界に見える。
椎名がこなければ、まさに世界でただ独り、閉鎖された空間に取り残されたただの命として佇んでいただろう。
「オマエは楽しくないのか?」
視線を椎名に向けると椎名はすでにさっきの場所にはおらず、俺と同じように中庭を見下ろしていた。
「……楽しくない」
なんとなくそう言う気がしていた。
「いいんじゃね?そういうやつが1人いても」
言いながら、俺も中庭に視線を落とした。
やはり雑多な景観は変わることなくただ流れていた。
「……優しいのね」
泣きそうなその声に驚いて顔を向けると、椎名は眉間にしわを寄せて中庭を睨んでいた。
「なんだ?いきなり」
「………あなたならもっと恥知らずな言葉を吐くかと思ってたから……」
「……褒めてねぇな……」
すると椎名が勢いよくこっちに振り向いた。
その目には熱い物が溢れている気がする。
一瞬、その勢いのまま口を開きかけた椎名はその明らかにならない思いを飲み込むように一息のんだ。
「……なんだよ、なんか言いたいことでもあったのか?」
「…………なんでもない」
再び視線を中庭に落とした椎名は、まだ眉間にしわが寄っていて、今すぐにも泣き出してしまいそうな、そんな顔だった。
俺はそんな椎名を見つめていた。
外界の雑多な音すら届かないくらいに美しい絵画を見ている気分だった。
「……ねぇ?」
「……ん?」
「……………私……この世界が嫌い」
その言葉とは裏腹に、この世界に好かれたいと願うように椎名は外の世界を見つめているように見えた。
「……そうだな」
少なからず、椎名は俺なんかよりも、この世界が好きなんだろうな。
だって、椎名は涙を流しながらそう言ったんだから。
「あなたは……どう?」
椎名の顔はクシャクシャに涙で濡れていた。
「俺は少なくても、いつ死んでも良いくらいにこの世界が嫌いだな」
その言葉を飲み込むように椎名は下を向いた。
この華奢な体や心に何があったかは想像すら付かないが、俺は何も感じていなかった。
それが、せめてもの優しさのつもりだった。
「俺は、母の命と引き替えに生まれたんだ。……父は、そんな俺に恨みを持って許せずにいたんだろうな、俺を施設に棄てたらしい、名前すら付けずにな」
どうしてこんなことを喋っているんだろう。
どうして、俺はこんなに他人事のように喋れるのだろう。
「小学生になるころに、今の父と母に引き取られたんだ。今にして思えば両親にとっての最大の失敗だろうな……’
「……なぜ?」
椎名はうつむいたまま言葉を紡いだ。
俺はそんな椎名の前に座って顔を見上げながら答えた。
まるで、いたずらをする直前の子供みたいに笑いながら。
「だってよ、こんな頭悪い奴を拾っちまったんだからさ!」
すると、椎名はキョトンとした。
そして、泣きながら笑った。
「あなた……ほんとに頭悪いのね」
「ほっとけ」
しばらく安堵の沈黙が流れた。
雑多な音に惑わされることなく、椎名はまた外下を見下ろした。
涙で濡れた頬を少し拭って。
鼻を軽く啜りながら。
少し、にこやかに。
思えば、こんなに穏やかな空気になったことはなかった。
すると、椎名は名残惜しそうにこちらに踵を返した。
ゆっくりと歩き。
教室を後にしようと。
俺は見送るでもなく椎名と同じように中庭を見下ろしたままだった。
やっと声が聞こえた。
「今日のライブ……楽しみにしてる」
ハッとして顔を向けたがそこに椎名の姿はなかった。
幻聴だったのか、確かめる術はない。
突然、携帯電話が震えた。
俺は話し合いの余韻に浸りたかったが、仕方なく携帯電話の画面を開いた。
すると、ジョーからライブ出番のための準備催促メールだった。
軽く気怠さを覚えた体を引きずって教室を後にした。
いつものたまり場、校舎の屋上に行くとすでにギターケースを抱えたジョーが園田と話していた。
その様子を少し眺めていると後ろからシゲルが肩をたたきながらしゃべりかけてくる。
「覗き見なんてらしくねぇじゃん?」
どこからか峰田の声もする。
「……たしかに」
その二人に背中を押されるようにジョーの元に歩き始める。
「らしくねぇことをするのが、俺の俺らしさだろ?」
顔がニヤツいているのに気が付いていた。
「……たしかに」
いつのまにかジョーたちの元に居座っていた峰田が言うと、ジョーがみんなの顔を見渡しながら口を開く。
「ん?なんだ?!何を話していたんだオマエら!!」
「なんでもねぇよ、ほら支度すんぞ。今回のライブは特別な物になんだからな」
「おまえのその根拠はいつもどこからくんだよ」
シゲルが用具室に置いていたベースを取り出して担いだ。
俺もギターを抱えると、みんなにホザいてみた。
「お前らと違って俺は天才だからな、わかるんだ!」
言うまでもなく、みんなから叩かれたのだ。
このメンバーといると寂しくない。
そして、いつまでもパワフルでいられる。
そんな気がする。
空を見上げると、今日が特別な日になっているように思えた。
「さぁ、中庭で青春している青臭い奴らに本物の青春を教えてやろうぜ」
また、仲間に頭を叩かれたのは言うまでもない。
日が暮れる気配が近づいてくるころ。


学園祭の最高なイベントが始まる。
各部活の紹介のため、ステージにて、各部員などがその存在をアピールする。
たとえば、バスケ部なら音楽に合わせてドリブルやら何やらで技術の高さをアピールしたり、漫才を織り交ぜながらアピールしたりする。
そして、この発表の順番は必ずと言っていいほど毎年変動しない。
なぜなら、ラストに軽音部がアピールのためのライブをし、それを合図に後夜祭に突入するのだ。そこから約三時間は取っ替え引っ替えでバンドが出てきてライブを披露する。
彼らのバンドはこの後夜祭の最後の方でライブをする。
このバンドの順番は代表者の名前、あいうえお順で決まる。
彼らのバンドの代表者は一年生の峰田くん。
構内で見かけたときはあんまり目立つ子じゃなかった気がする。
あの城ヶ崎ツトムも、あの人の前以外じゃとても近づけない雰囲気がある。
三年のシゲル先輩も、見た目とは裏腹にすごく他人と距離を置いていて、ファンの子も笑いかけられたことがない。
なのに、みんなあの人の前じゃ嬉しそうに笑う。
小さい子供のように屈託なく。
なにか、あの人にはそうさせる魅力があるのだろうか。
もしかしたら私も……そんな事を考えてしまう自分に気が付いてしまった。
(いけない……私は……)
考えちゃダメなんだ。
凛として、私は誰も頼らない。
誰にも素顔を知られちゃダメなんだ。
弱い私なんか…知られちゃダメ………
ふと、気が付いたら私は教室の前にいた。
(……すこし、休んでいこう)
すると、あの人がいた。
見たことないくらい悲しい顔で中庭を見つめていた。
「……なにしてるの?」
あの人は私の話を静かに聴いてくれた。
私の弱いところが思わず出てしまった。
なのに、あの人は変わらない優しい瞳で見てくれる。
……だめ。
私が私を保てなくなる。
「ライブ楽しみにしてる」
私は……きっと、橘君に救って欲しいんだ。
だけど、私の中で声がする。
『また、棄てられるよ?』
『私なんかいらない子なのよ』
『あの人もきっと、私からいなくなるわ』
そうよ、私は。
私は。
ワタシハイラナイカラ、ステラレタンダ。
私は、誰も信じちゃいけないんだった。
もう、傷つくのはイヤなの。
私の心の中はいつまでも、あの寒い日の女の子のまま。
離された手を握りしめて、凍える空に叫んだあの日。
『わたしはいらないこなんかじゃないよね!!パパ!ママ??はやくむかえにきてよぉ!』
死にかけた幼い私を救ったのは、巡回中の警察官だった。
今では、顔も覚えていないけど、その警察官は私を優しく抱きしめてくれた。
その温もりの中、幼い私は意識を失い、気が付いたときには病院のベッドの上で点滴につながれていた。
はっきりとしない視界の中に映った看護士さんや医師の視線で、幼いながらに気が付いてしまった。
『……ああ…、パパたちはわたしがいらなかったんだ』
『わたしがわるいこだから?』
『わたしがなにかしたのかな』
悲しむよりも、ただ漠然と理解した。
私はすぐに退院し、警察の手配した施設に送られた。
孤児や虐待を受けた子が入る施設のようで、みんな、私を含めどこか冷めた目をしていた。
そんな中、私は1人の男の子に出会った。
「きみ、だれ?」
うつむいていた私にその子は声をかけた。
見ると、まるで何もかも映し出す水晶のように美しい目をした子が私をじぃっと見つめていた。
「わたし?」
「うん、だれ?」
その子は私に指を指してまた聞いてきた。
私もその子の目を見つめた。
黒い世界に私が浮かない顔で映っている。
「わたしは……いらない子」
「いらない子って、なまえ??」
「ちがう、わたしはめぐみ」
「めぐみ?いらないこ?」
「わたしはめぐみ」
「いらないこ?」
「ちがう!わたしはいらないこじゃない!!」
そう言って泣き出すとその子は私の頭に手を置いて頭を撫でた。
「なんで泣いているの?」
「うるさい!」
「なんでおこるの?いらないこじゃないならおこらないでよ」
その子は涙で濡れた私の瞳をまたじぃっと見つめた。
泣き顔の私が映っている。
「わたしはいらない子じゃない」
「うん、きみはめぐみ」
そういうとその子は、今度は自分自身に指を指して口を開けた。
「ぼくはだれ?」
「あなた、じぶんのなまえがわからないの?」
思わず手をつかんだことを覚えている。
「ううん、わからないんじゃないよ。ぼくにはなまえがないんだってさ」
「なんで?」
「わからない、みんなカーくんってよぶけど、あれはぼくのことなのかな」
そのこはまた私の目を見た。
その子の瞳にはなにも映って無かった。
「パパとママはなんてよんでたの?」
「しらない、パパもママもいないから」
その子は私を見つめた。
「え?」
その子はニコリと笑った。
「かーくん、ここにいたの?」
施設の人がこのカー君と呼ばれる少年の手を取った。
「ぼくはいらないこ?」
カー君はその人にきいた。
その人は満面の笑みで答えた。
「そんなことはないよ、ほらすぐに新しいお父さんとお母さんがくるからね」
今考えてもゾッとする言葉だ。
その数日後カー君は新しいお父さんたちに連れられて施設から去った。
私はまた独りぼっちになったのだと知った。
なぜだろう。
彼を思うと昔のことを思い出す。
だから、私は彼を思うのがイヤなんだ。
彼らが壇上に上がったようで、聴き慣れた音がスピーカーから漏れた。
「やべ、音でてんじゃん!」
彼の一言で会場が一瞬にして安堵に包まれた。
そして、一瞬の間の後、轟音が空間を支配する。
尖ったギターの旋律。
静かに強く響くドラムの地鳴り。
優しく重いベースの導き。
そして、弾けるようにすべてを包み込む彼のギターと声量。
すべてが本気の遊び、そのような雰囲気を醸し出して、聴いている人が気の抜けない危うさ。
魂を揺さぶり、余計な物を洗いざらいして人を『素』にしてしまう魅力。
私が『わたし』に戻されてしまう圧倒的な求心力。
だからわたしは彼が好きなのだ。
私が笑顔で『わたし』としていられる少しの時間を与えてくれる。
どうしたら彼のようになれるんだろう。
私は目の前で繰り広げられる圧倒的なパフォーマンスに打ちのめされながら考えていた。
きっと私なんかじゃダメなんだろうな。
また、私は『わたし』を押さえ込もうとした。
でも、彼は歌いながら指を指した、『私』にか、前で飛び跳ねている子にか、それとも『わたし』にか。
『君はきっと大丈夫、君がそう望めば』
どんなに無神経で、どんなに考えなして、どんなに根拠不足で……どんなに私を励ましてくれることだろうか。
『わたし』が声を上げるのが聞こえた。
『きっと大丈夫』
そう、彼と『わたし』が言うように。
「……きっと大丈夫。」
まるで私が呟いたのを聴いたかのように、汗だくになってみんなを励ましていた彼が笑った。

(……いつもながらだけど、この人……すごいな)
勝手にドラムを操作する手足の感覚を楽しみながら目の前で声を荒げている男に見惚れていた。
あふれ出る個性を発して、誰にも追いつけない境地にいるかのようで。
時代が時代ならカリスマとして宗教でも創ってそうだな。
などと考えた自分がおもしろく感じた。
すると、彼はふいにこっちを向いて笑った。
まるで、自分の心の中を読まれたような不思議な感覚、だけど、俺も笑っていた。
思い返していた。
あの憂鬱な日々から救ってくれた彼の一言を。
『おまえ、もしかしてドラム叩くの好きだったりしない?』
あと少し踏み出せば自由になれる。
体を空に投げようと心を決めた瞬間だった。
入学してすぐに虐められた。
原因は『物静か』だから。
何もかもがどうでも良かった。
『おまえみたいな物静かな奴はさ、ドラムに向いてるんだよ』
聞いたこともなかった。
そのヒトは俺が心を決めて乗り越えた柵を軽く乗り越えた。
そして横に座ると空を眺めた。
『どうせ死ぬ覚悟決めたんならさ、楽しいことしてから死のうぜ』
その人は俺の目を見つめた。
深く薄い茶色の眼が、俺の心を見据えた。
どうでもよかった。
死ぬことも虐めも。
楽しいこと、それがどんだけ楽しいのか。
その疑問と期待が心に入り込んだ。
『放課後、軽音の部室前で待ってるよ、せっかくだからな』
せっかくの意味すら分からないが、恐る恐る放課後、軽音部の部室を探し回った。
元々縁のないところ。
容易に捜し当てられはしなかったが、不意に音が聞こえた。
テレビで聴いたことがあるようなギターの音とあともう一つ深い音が響いていた。
その音に誘われて、一つの部屋を捜し当てた。
「軽音、ホントにあった」
呟いてから少し躊躇した。
もしかしたら怖い人たちがいて、虐められるかもしれない。
そうだ、あの人だってボクを虐めるために。
そんな考えが頭を過ぎる。
「あれ?おまえ、あまりにも遅いから来ないかと思ってたよ」
昼間の彼が扉から『ひょいっ』と顔を出していた。
「うわっ!」
思わずしりもちを付いて驚いてしまった。
「よく来たな」
彼の瞳が好奇心で輝いていく。
「あ、いや、その…」
口吃るボクを気にもせずに彼は部屋に招いた。
さっきまでの余韻なのか、少し緊張したような雰囲気が流れている気がする。
見渡すとガランとした部屋に色褪せたソファーが二つ、その遙か前にアンプという物が三個ほどコードに繋がれていた。
その先には黒い、角の生えたようなギターとそれよりも少し長い赤茶けたベースがスタンドに掲げられていた。
思わず駆け寄ってそのギターたちを眺めた。
生まれて初めてギターとベースを間近で見た。
すこし使い込まれたような傷と、光を反射して艶めかしく彩られたボディ。
なんだかワクワクしてしまう。
すると、部屋の隅に鎮座しているシートをかぶった巨大な物が目に入った。
「これは?」
思わず手をふれてしまった。
めくれ上がったシートから顔を出したのは。
「ドラムだよ」
さっきの彼とは違う派手な頭の色をした背の高い人がボクを見てそう呟いた。
「あ、すみません、触るつもりはなかったんです!すみません!」
その容姿では彼は『暴力者』だった。
だけど、いままでの人たちとは違った。
「ああ、べつにかまわねぇよ、俺のじゃないし」
そういうと、彼はソファに腰掛けて立てかけてあったベースを握った。
とたんにアンプから何かが切れたような『ブッ』という音の後にすぐ太い音色が遊び始めた。
「カエデは忘れ物を取ってくるって教室にむかったよ、すぐに戻ってくるからソレで遊んでな」
アゴでドラムを指しながらも指は軽快に重低音を響かせる。
その音色を聴きながらドラムのシートを完全にはがしてみた。
少し古めかしい感じがしたが、ボクにはこのくらいがいいのだろう。
備え付けのイスに腰掛けると気分が高揚する。
目の前のドラムの腹にスティックが二つ置いてあった、それを掴んで恐る恐る一番近い太鼓を叩いてみた。
すこし弾力のある反発が手首に響いた。
「うひっ」
気持ち悪い笑いが漏れた。
ベースの人の音に合わせて右手のスティックで単音だけでだけどリズムをとってみる。
音のリズムが合っているのか合っていないのかはわからないけれど、なんだか、楽しい気持ちになっていくのを感じた。
すると、彼が少し疲れたように戻ってきた。
「なんだよシゲル、もうやらせちゃったのかよ!」
「ちげぇよ、こいつが勝手に始めたんだ、俺のせいじゃねぇよ」
それを聴いた彼は嬉しそうにボクに何かを投げた。
『猿でもできる初めてのドラム』
「ボクは猿じゃない」
それを聴いているのか聴いていないのかわからないが、彼はさっきの人に話しかけている。
「で!どんな感じだ?」
「さぁね、俺はベース以外はわからねぇよ」
「んだよ」
そう呟くと彼はギターを抱えた。
「俺らは好きに弾くからおまえはその本を見ながら練習しといてくれ」
「は?いや」
ボクの言葉を聞く気すらないようで、彼はいきなり弾き始める。
それを追うようにさっきの人も弾き始める。
不覚にも、今朝までの陰鬱な気持ちすらなくしている自分に気が付かなかった。
いや、それどころかボクは自分がすでにドラムを叩いていることすら気が付いていなかった。
すでにボクは、いや「俺」はこのめちゃくちゃな男の虜になっていたんだ。
思い出すだけでも吹き出しそうな出会いだ。
ボク、いや、俺もこんな人間になりたいと。
そう思わせてくれた。
目の前で狂喜乱舞する彼を見ながらアッパーに煽ってみる。
彼の神がかった魅力が増していく。
俺はこの人とならどんな自分にもなれる気がする。


曲が静かに沈み、不思議な沈黙があたりを包んだ。
彼がゆっくりとマイクに言葉を囁く。
「残念ながら…そろそろ終わりが近いです」
「えー」と叫ぶものや口笛を吹く者がいた。
その様子を優しく見守ると彼はまた口を開いた。
「キセキ」
呟いたのと同時に静かな旋律を奏でる。
明らかなバラード、なのにロック。
彼以外のすべての人がその姿に魅入っている。
そして、ワンフレーズを彼独りの声が走ると、思い出したかのようにバンドのメンバーが楽器を鳴らし始めた。
神聖でいて、砕けていて、明らかにフザケた曲。
想い人への賛歌。
英語の歌詞に彩られた音の連鎖が、私たちの心の中に入っていく。
上手く聞き取れなくてもわかってしまう。
これは、ラブレターだ。
愛の詩よりも甘ったるく。
恋の唄よりもさわやかで。
全ての人の鼓動を早めていく。
誰かのために創られた曲。
誰かのために生まれた愛。
早くなる鼓動を抑えるように彼は胸に手をあてた。
そして、呟くように言葉をマイクに乗せた。
「俺は、いつまでも君といたい」
数人の女子が黄色い声を上げた。
私も彼の言葉に酔いしれていた。
『わたし』も彼を好いていた。
曲が終わるまでの数分の間だけでも私は『わたし』として彼を好いていていいのだ。
彼はおもむろに観客の中に飛び降りると、まっすぐに歩いていく。
いや、歩いてくる。
私のところへ。
そして、目の前でひざまづくと、こう言った。
「俺には恥も外聞もないが、これだけはある。俺は椎名、おまえが好きだ」
落胆と期待の悲鳴が上がると、ライトが私に当たった。
胸の鼓動が抑えきれなくて思わず胸の前で手を組んでいた。
「わ、私…」
彼を見据えると、彼は教室で見たような優しい目をしていた。
一瞬、息をのむと私は、『わたし』は口を開いていた。
「私も、あなたが好きみたい」
この日の一番の歓声が体育館を包んでいく。
私は、彼となら『わたし』として居て良いのかもしれない。

4 juge夢
願わくば死を、さもなくば……愛を

夢なんだ。
夢に違いない。
軽く頬をつねってみたが痛みが走った。
その痛みの軽快さにさらに疑いの目を向けようと試みるが、ことさら無駄であることを知った。
朝日の輝きすら嘘であった。
暗黒の月の微笑みすら本当になった。
椎名が答えたのだ。
俺の想いに。
声に。
態度に。
この事は一気に校内を駆けめぐり。
誰の目からも好奇の視線をいただく運びになった。
そして、良いことはかならず呼び水となる。
園田の父親が俺たちのライブを見て音を欲しがったのだ。
それに付随してインディーズではあるがライブハウスデビューを果たすことにもなった。
これが世に言う『有頂天』である。
「ねぇ、橘君」
椎名が話しかけてくることすら夢である。
「お、何?どうしたいきなり」
「いきなり話しかけちゃいけない道理があるの?」
相変わらずの冷たさは変わらないが。
「いや、ねぇけど、どうした」
「次のライブいつだっけ?」
教室で好奇の視線に耐えながらもこの瞬間の事を疑ってしまう。
「年末に駅前の利ZARDっていうライブハウスでやるよ」
「私、行ってもいいんだよ…ね?」
どこか椎名もこの関係に戸惑っているようだ。
その含みのある言葉にドギマギした。
「も、もちろん、だっておまえは俺のか……」
言うほど言葉が恥ずかしすぎる。
しかし、目の前の椎名は何かを確かめたそうにこちらを見つめている。
「彼女…なんだから」
教室でまたあの日のライブのような声が飛び交う。
俺はとっさにまわりを睨みつけたが、効果はなかった。
「そう、だよね。私あんたの彼女になったんだよね」
確かめるように、噛みしめるように言う椎名は殊更美しかった。
「今日、これからは?」
言葉に冷たさが無い気がする。
「そうだなぁ、特にない、バンドも今のところは放課後の練習のみでまかなえてるし」
「今日は練習ある日?」
なんてこった、ここまで言われないと気がつかないなんて。
「今日はない日だから、せっかくだし、一緒に帰ろうか」
この言葉が言える日が来るなんて!
と内心感動してしまう。
『生きているだけで世界は美しい』などと、のたまった先人がいる。
俺はそんなことすら気にしないように生きてきた。
そうしないと生きていけないからだ。
だけど、今この瞬間は、限りなく先人が正しいと言える。
放課後の約束それを待つ俺。
勉強も手について離れないくらいの出来事。
今度聞いてみよう、椎名はどうして俺で良かったのか。
「なぁよう、こんなときってどうするのが正解なんだ?」
二人きりである。
椎名と。
俺で。
「知らないわよ、私だって初めてなんだから」
トボトボと、微妙な空気感で歩いている。
普通の恋人同士なら、どんな感じで二人ならんで歩くのだろうか。
ジョーと園田はどんな感じで歩くのだろう。
まさかこんな感じではあるまい。
「な、なぁ…その、椎名は楽器とかやらないのか?

精一杯である。
精一杯導きだした言葉である。
情けないだろうが、俺だって人間である。
「私は、楽器とか興味ない」
「ああ、そうですか…」
「…」
「…………」
精一杯である。
そして、精一杯はいつだってこんな結末である。
「私は、楽器にどう接していいかわからないの」
ゆっくりと呟いた。
そして、その言葉には色々な意味がある気もした。
「なんか他のものにもそう言っているみたいに聞こえるな」
「…………たしかにね」
「でも、俺には心を開いてくれたんだよな」
「え?」
「そういう風に解釈しているんだよ、俺は」
ニッと微笑むと椎名は顔を背けた。
「……っ」
「?」
「私はあなたのそうゆうところが苦手よ」
「…へいへい」
「でも……」
「ん?」
「なんでもない」
「……はいはい」
不思議に会話はテンポがいい。
空を見上げると少し切ない香りがした。
横には黒髪の彼女。
こんな気持ちは初めてだ。
橘楓は心穏やかに椎名を見た。
風になびく美しい彼女。
その姿こそがまるで絵画のようにも感じていた。
「なぁ?」
「なに?」
「手をつないでもいいか?」
精一杯である。
椎名の前に立ち、手のひらを見せるように差し伸べた手を椎名はしばらく観察していた。
一瞬の時間が永遠に感じ、鼓動は鼓筒をふるわせるほどに高鳴っている。
「……うん」
少し俯いたようにしながら椎名はその手を優しく握った。
甘い、美しい時間が互いの胸に去来していた。


儚い夢の残像。
「……ん…」
重たいまぶたが少しだけ開いて、光を脳内に映し出す。
少しして、音がする事に気がついた。
何かを強くたたく音、それに共鳴して頭の奥が鈍く痛む。
「………なんだ…?」
久しぶりに出す声に自分の頭も驚いているようでさらに頭が痛みを享受した。
                ガン!ガンガン!ガン!!!!
「開けろ!!!カエデ!!!いるんだろうが!!!」
この声はジョーか……
どうやら美しくも儚い「あの頃」の夢に逃げ込む事すら許されないようだ。
ガチャガチャ!
今度は鍵穴から音がする。
がちゃり!
扉が重く開く音がして、部屋の重苦しい空気が少し動いた。
「うわ!真っ暗じゃねぇか!」
ジョーは気兼ねもなく部屋に上がり込んできた。
その音すら頭に響く。
ジョーはさらに入り込んできているようだ。
俺はまぶたを閉じて再び逃避する事につとめた。
寝室に入る音が意識の遠くで聞こえたが、動きたくもなかった。
「居た居た……カエデ…いつまでも逃げてんなよ、おい!聞いてんのか!」
言うなりジョーは布団をはぎ取ってからカーテンを開けた。
まぶしいくらいの光が痛い。
「おい!」
「……」
「いい加減にしろよ、お前はこんな人間じゃないだろ」
なにが「こんな人間」なのかわからないが、そんな場合でもない。
「おい!行くぞ!」
「……俺が…行ってどうなる……」
カスカスの声にジョーは驚いた。
「カエデ…」
俺は上半身を無理矢理起こしてジョーを見た。
ジョーの顔は曇っていた。
「お前だって『知ってる』だろ?俺が行ってどうなる……」
「だけどな……お前を待っているんだぞ?」
「……」
「いいから!いくぞ!!」
ジョーに促されてシャワーを浴び、そこらへんに落ちていた服に袖を通して外に出た。
「あの頃」のように冬が近づいていた。
マンションのエレベーターに乗って一階におりるまでジョーは何も言わなかった。
一階に着くとクラクションが聞こえた。
重たい頭を向けると、派手なワゴンの助手席に園田が乗っていた。
「……乗れ」
短く言うジョー、仕方なく後部座席に乗るとすぐに車は「目的地」に向かって走り出した。
流れ行く景色、夢の中の高校時代からどのくらいの時間が流れたのか想像もできないくらい、俺たちは大人になった。
車も運転できるようになったし、タバコも遠慮なく吸える。
しかし、心の中は晴れ晴れとしていない。
「橘くん、大丈夫?」
久しぶりに聞く園田の声に軽くうなずく事しかしなかった。
大丈夫でもない。
できるなら、今すぐにでも帰りたい。
今から行く所には死んでも行きたくない。
絶対に。
車はグングンと山の方へと進んでいく。
海が眺められるマンションから車で30分弱。
必死で調べた道順だ。
忘れようもない。
俺は。俺だけは絶対に。
「ほら……ついたぞ……」
ジョーと園田に続いて車を降りる。
「ジョー……お前は、最悪だな」
俺は、もう見たくないのだ。
どんなに、どんな事が起きても。
だから目を瞑り、祈り、憎み、夢の中に微睡んでいる事を望んでいたのだ。
目線の先には、立派な建物が建っている。
表札には「県立病院」の文字が痛々しくも立派に、重重しく光っている。
「面会です、204号室、椎名恵さんに」
園田が受付にそう言いながら三人の名前と面会用の「来院者バッチ」のナンバーを記帳している。
そのバッチを受け取ってエレベーターに乗って「2階」を押した。
ジョーが一言つぶやいた。
「避けては通れねぇだろ…」
「……」
俺たちの運命なんてものがあるとして、それは一体誰が決めているのだろうか。
その決めている者がいるのなら、俺はどうしてでもそいつをぶん殴りたい。
少し肌寒い廊下を三人は無言で歩いて、一つの部屋の前で足を止めた。
204号室
「…」
園田が軽くノックして先に入る。
「…ヤッホー、来たよ」
少ししてからジョーに引っ張られて俺も中に入った。
白く味気ない病室。
乾燥した空気。
薄いカーテンが光を通して人影を二つ映している。
二つの陰が動いている。
一つは園田、もう一つは……
カーテンをめくってジョーが奥に行く。
俺もあとに続いた。
「城ヶ崎さん、いつもありがとうございます。あら?今日は一人多いのね……」
俺は恐る恐る顔を上げた。
「あなたは……えっと……どなたですか?」
「橘、橘楓……です、椎名さん、はじめまして」
彼女は……俺の事を覚えていない。
いや、忘れてしまったのだ。
「あの日」の事故で。
俺とともに作った思い出ごと、俺の事を。
好きな人に忘れられる。
好きな人に……もうあの頃の用に笑いかけられない。
彼女の中にもう俺は、あの頃の俺はもういない。
「どうかしたんですか?」
その顔で、その声で。
もう俺を好きになってはくれないのだ。
「いや、ちょっと」
するとジョーが椎名に言った。
「こいつ具合悪くて寝込んでたものだから…」
「大丈夫なんですか?」
声が胸に突き刺さった。
「悪い……ちょっと外の空気吸ってくる……」
これ以上は耐えられない。
涙腺が緩くなっていた。
重い足を引きずって階段を一歩ずつ踏みしめた。
上に一歩一歩、意を決しておかないと上る事もできない。
一歩一歩が走馬灯のように椎名との会話を思い出させる。
だから、俺はここに来たくなかった。
だから………
…………
         会いたくなかった……
逢わなければよかった。
屋上へと続く階段。
重苦しい身体。
心。
扉がさらに俺を拒絶しているようにも感じる。
取手を握って、捻る。
重苦しい音をかき消し風が入り込んできた。
俺は空の下、人の上に、立った。
思ったよりも広い屋上は所々にシミが浮かぶコンクリートで、しんみりとしている。
空気もなんだか冷たい。
鼻いっぱいに空気を吸い込む。
パキパキと胸骨が鳴りながら広がる。
あの日、その時から、俺は何もできなくなった。
物理的にも、抽象的な意味でも。
精神的に何かを亡くした。
落とした。
失った。
ギターを持っても、何をしていいかわからなくなった。
音符の意味すら理解できなくなった。
目を閉じると浮かんでいた音も、いまは亡い。
少し湿っているコンクリートに寝転んで空を見上げた。
昨日、雨でも降ったのか。
どうでも良い。
離れがたい湿気の独特のにおいが周りに立ちこめている。
今度は軽く呼吸してみた。
じゃりじゃりと背中越しにコンクリートが唸る。
「外」は椎名との匂いが残っているように感じてしまう。
こんな関係ない場所でも………
これは罰だ。
俺が椎名と逢った罰で、罪。
俺なんかといなければ、俺と出会わなければ、椎名は……
「『俺なんかと会わなければ……』とか思ってんのか?」
ジョーの声がした。
「いや……惜しいな……『逢わなければ』が正解だ」
見るとジョーが落下防止用のフェンス越しに下を見ていた。
「もしかして活字が違うとかいいてえのか?」
「……そうだ」
「引きこもっている間にずいぶんと捻くれちまったな」
「その前からさ…」
「天下のバンドのボーカルが今や見る影も無いな」
「昔の話さ……」
「昔……ねぇ……」
ジョーはタバコに火をつけていた。
「ここは、いいのか」’
「ああ、事前に確認は取ってあるよ」
「それこそ昔のお前じゃ考えられない周到さだな」
「…………吸うか?」
ジョーは箱から一本滑り出して促した。
一本を指でつまんで引き抜くとそのまま口に咥えてライターを受け取る。
風に背をむけて2、3回目でようやく火をつけた。
軽く吸い込んだ。
「うぇっ!げほっ!!げほ!」
久々に吸い込んだ「異物」を身体は受け付けなかった。
その様子もジョーは黙ってみていた。
「ゲホッ………ぺっ!……うぇ……」
少し落ち着いてから、ゆっくりと吸った。
苦みと煙が口と鼻に抜ける。
「……ふぅ……なさけねぇな…タバコすらまともに吸えなくなっちまったぜ」
吸いかけの吸い殻を地面に落として踏みつけた。
「あー……気持ち悪い…………」
「なぁ、カエデ……」
「ん?」
「もう一度バンド……やらないか?」
「……ないね」
「どうしてもか?」
「どうしても…だ。見たろ?俺の情けなさを。あいつをあんなにしちまったのも俺がバンドにいたからでもある。俺は駄目なんだ……不幸をまき散らす」
「あの事故はお前の所為じゃないだろ?」
「結果として、俺の所為だ」
「極論だろ」
「でも、そうだろ」
思う事もないように、考えていた。
『あの日』のこと。
それまでの事。
君との甘い人生。
まだ、あの狭い部屋に有って、捨てられない君と俺の思い出のアクセサリー。
タバコの匂いだけを認識して、俺はまたうなだれた。
この世にいて、君と結ばれた印の過去。
そして、俺の事をほんのちょっとも記憶していなかった愛おしい人。
「あれは事故だ!犯人も捕まった!」
「守れなかった」
「ひき逃げだぞ!?とっさに守れるやつなんかいないだろ!」
「俺は……いや、わかってるさ。お前の言いたい事が、真実だってことも…………でも、俺は俺が許せない」
ジョーは俺の胸ぐらを思い切りつかんだ。
「っざけんなよ!いい加減にしろよ!?過去に縛られてんじゃネェよ!椎名はそんなこと考えてるお前をみたくねぇんだろ!だかお前のことを忘れたんじゃないのか!」
「どっちにしても、俺との過去を覚えていない」
ジョーに思い切り殴られた。
「がっかりだ、ガッカリだぜカエデ…………椎名の顔を見てなにか感じるかと思ったが、ふぬけはなおらねぇんだな!」
「…………」
「『守れなかった』?てめぇは神か!?ただの人間だろうが!!」
「……」
「キリストでもモーゼでもない俺には限界がある」
「……」
「昔、俺を救った人間の言葉だ。そいつは……馬鹿でアホで、子供で考えたらずで、馬鹿で、それなのに人生を楽しく変える力を持っているように感じた、自分のじゃない、そいつに関わる人間の人生をだ。馬鹿なのに魅力があって………いつか、俺もそいつみたいに、誰かを救って、幸せにして、人生が楽しいんだって思わせてやりたい、って思っていた。けどどうやらそいつはただのネガティブ野郎のようだな…………しばらく頭冷やしていろ」
そう言うとジョーは屋上をあとにした。
取り残された俺は、頬の痛みと心の空白を気にしないように空を見上げた。
一つ、一つと………空からも涙が頬を伝った。

5.フォント
すべての出来事は想像した者にだけ訪れる

「ハックション!」
鼻水が止まらない。
先日の屋上に長い事いたためか、風邪をひいたようだ。
けど、それでいい。
これが拗れて悪化して、命に支障が出れば御の字だ。
そうはならないとしても、これを理由に誰にも会わなくてすむ。
(あいつは……どうしているんだろう)
「椎名……」
目を閉じると、あのときの事がフラッシュバックした。
椎名と二人、雨の道の上にいた。
『付き合った日記念日』
すごく照れくさそうに椎名が言った。
はにかむように笑って手を握った。
少し肌寒くなっていた季節の匂い。
俺たちのバンドがメジャーに出て数ヶ月の事だ。
『知る人ぞ知る』という、バンド。
一気にブレイクしていった。
椎名も自分のやりたい事が見つかった。
そう言ってまた少し強く手を握った。
二人はもう子供でもない。
少し奮発して、高い店に行って、優雅に語って。
頬を赤らめて、笑って。
『もうバカばかり言って、でもそんなあなたが好き』
それが俺の心の支えだった。
店を出ると、少し降り始めていた。
送るよ。
そう言いながらポケットの奥に大事に暖めていた小箱を握った。
二人の付き合った記念日が、二人がずっと一緒にいると約束した記念日になるための指輪。
家に着くまでには勝負しないといけない。
そう意気込んでいた。
すべてが完璧な日。
すべてが壊れた日。
「椎名……少し、良いかな?」
ポケットの小箱を強く握った。
「ん?なに?」
黒い髪がふわりと舞い、白い顔がこちらを向く。
すこし赤らんでいる。
さっきの店で飲んだお酒の所為だろうか。
口元があがって、とてもきれいに笑っている。
「あのさ…………」
…………あと少し。
あと少し俺が呼び止めるのが早ければ。
あと少し、店にいたら。
あと少し…………俺が、決心していれば。
あと少し。
まわりに気を配っていたら………
彼女が壊れる音を聞かずにすんでいたのだ。
目の前で、椎名は白い乗用車に撥ねられた。
信号無視・飲酒運転・ひき逃げ。
歩道に乗り上げた車の運転手は、一言法廷でこう呟いた。
「わかりません」
心の底から叫んだ。
コロシテヤル
のどが引き裂かれるほどに。
声が消えるまで。
血に染まった麗しい彼女をこの手にしながら。
法廷で車を運転していた犯罪者につかみかかりながら。
もはや、俺の心はあそこで死んだのだ。
彼女からの答えを聴く前にして。
渡せずに残った指輪を部屋のどこかに捨てて。
彼女に付き添って病院に行き。
三日三晩寝る事もできずに佇んでいた。
集中治療室の看板が光り続け、そして俺の希望は消え去ってしまった。
「……あなたは?」
事故による一時的な記憶障害なのだろうと言うのが医者の見解だった。
俺もそう考えていた。
「たちばな……かえで…さん?」
しかし、ジョーや園田たち、学校時代の友人たちがくるたびに疑問は確信にかわった。
     ………・・・彼女は俺の事だけ覚えていない・・・……
ポケットの小箱は二度と使う事がなくなった。
そして、俺は表舞台から姿を消して引きこもった。
椎名の入院費はジョーたちからという事にしてもらって、俺の口座から引き落としてもらっている。
そして椎名は、骨を骨折したときの後遺症で、脊髄を損傷してしまったらしく、リハビリも含め数年は入院する事になった。
だから俺は外に出ない。
朝が嫌いになった。
明日が来なければ良いのにと思うようになった。
俺に笑いかけかけてくれる愛おしい人はもう俺の世界にはいないのだ。
俺はいらなくなった。
良いんだ。
そう思う。
彼女が俺を忘れたのは、きっと必然なんだ。
俺ははじめからこの世の中にいらない子なんだから。
昔、あの文化祭の日、二人の記念日。
椎名に言った事が浮かぶ。
実母が俺と引き換えに死んで、実父は俺を捨てた。
簡単な事だ。
実の父ですら俺がいらないのだから、一番愛している相手に、忘れられる事も有るのだろう。
二人の事実は消え。
俺の、本当の俺を知っている人がこの世から消えた。
いや、消えたのは彼女の中にいた、本当の俺。
また朝が来ていた。
布団すらはがさずにまた目を閉じる。
朝が嫌いだ。
明日が嫌いだ。
このまま俺の存在が彼女の心の中のように消えてしまえ。
からからに乾いている喉が、唯一自分がまだ生きているのだと教えてくれていた。
もやもやしている。
椎名の顔を見たからだ。
俺を知らない、俺の最愛の人。
ゆっくりと起き上がって、冷蔵庫まで身体を引きずっていく。
扉を開けて、麦茶をコップに半分だけ入れて飲み干した。
喉が鳴り、腹の底に冷たい物が通るのを感じた。
大好きな映画でキャラクターが言っていた。
「こんな俺に人の心が動かせるのかよ……」
今、まさに、そう。
世界で一番の人間の心すら離れている。
そんな俺に何ができるのかな。
一番、見ていてほしい人。
「……ふ、女々しいな……」
しゃがれた声で言うと、悲しみが倍増した。
まだ半分も開いていない目を擦るようにした。
「あんたはいつもそんなに自信にあふれているの?」
昔聞いた、椎名の台詞だ。
呆れたように彼女が呟いた。
(いつだったろうか……)
桜が咲いた頃のような気もする。
そうだ。
俺たちのデビューするときが決まって、それを祝すように二人で近くの桜並木を歩いていたときだ。
「俺たちなら大丈夫だよ、すぐに有名になるだろうし」
そう言った俺に言ってきたのだ。
「自信、というか、そう思わないと、な?」
そう言う俺に「こくん」とうなずいた君。
桜の匂いが少し甘く感じた。
目頭を強く押さえてから部屋を見た。
おぼろげな視界の中に映るのは二人の幸せが詰まった部屋。
少しホコリのかかったギターケース。
ヨロヨロと近寄って、ケースを掴んで引き寄せる。
ホコリに少し咽せてケースを開けた。
「SG……」
黒く、歪であり、美しいギターが久々に姿を現す。
布団の上に腰を下ろして、チューナーをジャックに押し込んでスイッチを入れた。
細かい点滅のあとに弦を少しずつ弾いていく。
ハリのない音が搾られていき、チューナーのセンターに光が止まる。
ここまで、何の感慨もなく身体が動いた。
まるでそうなるようになっていたように。
「………C……」
左手を思い出すかのように恐る恐るあてて弾く。
ほんの少しの間弾かなかっただけなのに、もうこんなに離れてしまっている。
乾いた音が部屋の中に響いて行く。
「なに?新しい曲?」
驚いて顔を上げた。
椎名がそう言ってこっちにくる残像が浮かんだ。
その残像は俺のすぐ近くに座って微笑んで消えた。
思わず涙ぐむ自分を振り切るように弦を弾いて声を出した。
お世辞にも歌とも呼べないような音が響いて時を忘れさせた。
この歌にもならない声に名前を付けるとしたら何が良いだろうか。
椎名の声が聞こえた気がした。
               ‘虹の始まる場所’
この声をどうしようか。
長い事の引きこもりで、無駄な段階を踏む事を覚えてしまったようだ。
ノートに乱雑に書き写した。
所々がシミと紙がちぎれていたり、貼付けているノート。
隅には椎名が描いた落書きもある。
「……へたくそ……」
呟いて笑ってしまった。
風邪をこじらせているのに無理をしてしまった。
外の音を聞きながら、布団に戻った。
意識が朦朧としてはいないが、気のせいなのか、唇に甘い香りがする気がする。
久しぶりに安らかな気持ちになった。
明日が来てもいい気もする。
自分の中で何かが変わったのかもしれない。
深い微睡みの中に意識を沈めながらそう思っていた。
「相変わらず風邪をひきやすいやつだな」
「性格とかなんじゃない?」
二つの聴いたことがある声に目が覚めた。
「……ん」
「あ、起きたみたいだけど」
「峯田、水をもってきてやれよ」
「やだ、シゲルが持ってきた方が早いし」
「てめぇ、相変わらず良い度胸だな」
そんなやり取りが俺を挟んで行われている。
「……しっかし、まぁ、ホントに子供だなこいつは…」
「だからこそ椎名さんが必要なんだよ」
「たしかに…」
「……良いから、どっちか…水を持ってきてくれるんじゃないのか?」
そんな俺の言葉に反応するのはいつもシゲルだ。
「おう、待っとけ」
「カエデ、大丈夫?」
「見た目以上にはな…」
そういうと、体を起こした。
シゲルの持ってきた水を少しずつ飲んでから口を開いた。
「で…俺はもう…歌わねぇよ」
その言葉も彼らには通じない事も知っている。
だが、言わないと、俺の心が「決意」にケツを向けるのも知っている。
「ジョーから話は来てるし」
峰田が言う。
それに同調するようにシゲルも口を開く。
「無理に連れ出す気はネェよ」
「……なら、何の用で?」
俯いているカエデを静かに見つめながら峰田が答えた。
「椎名さんが、退院するよ。来週にでも」
「……え?…」
椎名は「ここ」で俺と生きていた。
病院を退院するという事は、「ここ」に戻るという事だ。
「けど、椎名さんはここには戻れない」
シゲルが言う。
「何?」
「今のお前と椎名さんの二人きりでは暮らせないからな、園田が、一緒に住むと言ってくれた」
「なんだ……そうか………」
残っていた水をゆっくりと飲み干した。
「…………お前、もしかして、ほっとしてないか?」
シゲルは太い声を出した。
「お前、そんなんで良いのか?」
「お前はそんなくだらないやつだったのか」
「お前。ほんとにいいのか?」
この世の中で「本当の意味」で「良い事」はあるのだろうか。
知る由もない。
知りたくもない。
「ホッとなんか……してねぇよ」
した。
心のどこかでホッとしていた。
「……まぁいい、おそらくお前と椎名さんが一緒にいる事はない、もう」
「…………」
「それで……お前たちはそれだけのために?」
「…………まぁな」
「うん」
「そうか…」
すこし寂しい気もする。
おもむろにシゲルがノートの切れ端をおいた。
「?なんだ?」
「なんでもねぇよ、あとで見とけ」
そう言うと俺を布団にくるませた。
「今度は調子が良くなってからくる」
「俺も」
峰田も呟いた。
二人に促されるままに布団にくるまれると、急に眠気が増してきた。
そして二人が部屋を出るよりもはやく眠りについた。
眠る事が少し惜しいような気もしたが覆す事はできそうもなかった。
夢の中でかき鳴らされるメロディー。
夢の中の夢へと誘うメロディー。
雨を見上げる高校生が歌う、つたない歌。
想いがつながる。
歌にして、それでいて切ないラブレター

6.Haruka

僕がそばにいる。

そんな言葉が聴こえた気がした。


外は雨が降っている。


気がつけば、ここにいた気がした。
白いシーツにくるまれていて。
近くにはいろいろな人が立っていた。
(そうか……)
これは生まれたときの記憶なのかな。
「大丈夫?」
レイラちゃんがベットの脇に座っていた。
「……うん」
高校のときからの友達で、美しい顔がうらやましい美人さん。
「なんかうなされてたみたいだけど?」
水をコップについで渡してくれた。
彼女は優しい。
「……ありがと、なんか……昔の夢見ていたみたい」
「そう」
そう言うとさらに深くまで聞く事もなく彼女は私が飲み干したコップを洗って水を切る。
「具合悪い?」
「ううん、大丈夫」
けど足は動かない。
事故で脊髄を損傷したという。
まるで他人事のように医者は淡々と言っていた。
私とレイラちゃん、レイラちゃんの彼氏で私とも高校からの友人の城ヶ崎くん、そして城ヶ崎くんの友達という橘さんがその説明を受けた。
自分の足では歩けないだろうという「死亡宣告」は私にとってもなぜか他人事のようだった。
脊髄損傷は確かにものすごく大変な事だ。
足の感覚がない事が物語る。
しかし、私は他になにか失った物が有ると感じていた。
それの正体も掴めないのだけれども。
こう、心の一部がかけたような。
暖かい何かが感じれない感覚。
そしてそれのために、みんなが何かを感じている事も知った。
「ねぇ……」
レイラちゃんが何か言いにくいように口を開いた。
「なに?」
ベッドの脇に座るレイラちゃんは何を言おうか選んでいるようでも有った。
「どうしたの?」
「……うん…あのね、退院しない?…それで、私と一緒に住まない?……あ、もちろんツトムも一緒になるんだけどね……」
「え?」
「今のままここにいてもさ、なんか、息詰まらない?と思って…」
「いいの?その……………城ヶ崎くんとせっかく一緒にいるのに?」
「大丈夫、二人でいるって言ってもツトム仕事で忙しくてなかなか家にいないし……ね?どう?」
「…」
ニッと笑うレイラちゃんは何か悲しそうだ。
きっと私に身内がいない事を思っているのだろう。
「……うん。うれしい」
私は幸せ者だ。
こんなにも、私を思ってくれている人がいるのだから。
嬉しそうに笑うレイラちゃんを見てそう思った。
ここまで私の事を思ってくれている人が他にいるのだろうか。
「あ……」
「え……?」
「雨……」
美しい雨。
胸がざらつく。
どこかで声が聴こえた気がした。
私に優しく呟く声。
思い出せない。
その声。
その声の音に導かれるように私はレイラちゃんの家に居候する事になった。
「遠慮する事ないからね」
レイラちゃんは思いっきり扉を開いた。
城ヶ崎くんがバンドで成功してたてた一軒家。
しっかりとバリアフリーになっているところを見ると、最初から私を呼ぶ気だったのかもしれない。
そう思うとまた目頭が熱くなった。
「うん」
車いす。
自分の眼で見た事もあった。
しかし、まさか自分が乗る事になるとは思ってなかった。
(思ったよりもしんどいのね)
手のひらが鈍く痛む。
広い豪邸の中は随所にレイラちゃんの芸術的な側面が垣間見えていた。
「綺麗なお家ね」
「うん、私たちの努力の結晶」
はにかむレイラちゃんはとても愛おしい。
「今、何か飲むもの淹れてくるから適当にくつろいでいてね」
そういって彼女は奥に消えた。
その姿を眼で追ったあと、視線は自然に部屋の中を見渡した。
机の高さが少し高いが、よく磨かれている。
椅子も。
本棚も。
すべてが私の目線に近いところにある。
(そっか、私が座っているからだよね)
これが車いすに座っている人の目線なのか。
一人で勝手に納得しながらさらに進む。
すると。
視線の先に光が降り注ぐ場所があった。
白いピアノが置かれた一角がまるで教会のように神々しく光に満ちていた。
「………綺麗」
近づいて、近づいて、近くで見たかった。
あまりにも夢中になっていた。
私は近くに有った物に気がつかなかった。
ガンっ!!
車いすの一部がそれにあたり、作動した。
コンポが無為に作動し、中に内蔵されていた曲が爆音で流れ始めた。
遥か昔に聞いたような気がする音。
切なくて、苦しくて、愛おしい気持ちになる。
誰かのために歌った愛の歌。
誰かのために生み出した傑作。
聞く人が聞いたのならばそれはラブレター。
「……」
するといつからそこにいたのだろうか、レイラちゃんが呟いた。
「やっぱり、運命ってあるんだな」
「え?」
「だって、メグちゃん、泣いてるもん」
「え?」
気がつかなかった。
頬を指でなぞると涙で手が濡れた。
それはもう止まらない涙であった。
声にならない。
そんな悲しみ。
私はレイラちゃんに呟いた。
「私は……いったいどうしちゃったの?」
「私からは……言えないの…」
そう呟いたレイラちゃんは曲のボリュウムを少しあげた。
「私はね、本当は、何にも知らない方が良いのかもって思ってしまう」
「え?」
「でもきっと知ってしまう。メグちゃんはどうしてもあいつと巡り会うようになってるんだもん」
「どうゆうこと?」
「この曲は、この声はメグちゃんにとって大事な曲なの」
「え?」
「私はそうだって知っているから」
そう言うとニカっと笑った。
「今度、ツトムのライブに行こう?」
「うん?」
「私じゃとても駄目なんだけど、大丈夫な人がいるから、きっとみんな笑っていれるようになるから」
「レイラちゃん」
「あの白いピアノね、この家ができたときに、ある人がくれたの」
「え?」
「すてきでしょ?私は今でもあいつが嫌いなんだけどね、けどみんなを笑顔にするのはあいつなの」
「あいつ………」
「さ、紅茶淹れたの忘れてた…冷めないうちに飲も?」
「うん」

雨は、その粒は、自分が落ちている事に気がついているのだろうか。
その先になにが待ち受けているか知っているのだろうか。
自分がどう思われているか気がついているのだろうか。
また目が覚めた。
「クソ……」
できる事ならば……と、思う事も億劫になってきた。
布団の上に目をやると書きなぐった紙が落ちている。
それを無視してゆっくりと起き上がる。
外にはもう陽はなかった。
月が人々を眺めているような気になる静かな夜。
ジョーもシゲルも峰田も、なんで俺にこんなに期待しているのだろうか。
俺はこんなに情けない人間なのに。
よたよたとしながらも窓を開けた。
澄んだ空気が一気に室内に流れ込み部屋を少し冷やした。
なんだか気持ちが良い。
不意にそう思った。
鼻いっぱいに空気を吸い込み、ゆっくりと吐いた。
それだけで何か、変わった気がした。
「雨……やんだんだな……」
届かない言葉を紡ぎだすことはできない。
思いのない言葉なんてなにもならない。
例え君が僕を忘れても、前を向こうと心に決めた。
ギターを手にして、改めてそう感じた。
吐き出したい。
そんな思いに駆られて。
指が音を奏で始めた。
「ジョー……今更だけど、俺、やるよ。逃げるのにも飽きた」
そうメールしてから心も落ち着いた。
指の痛みすら感じないほどひたすらに、ひたすらに弾きまくった。
枯れた愛の音。
「ふう」
俺は、もう迷わない。
「なんで急にやる気になった?」
「……べつに、お前らがしつこいからってのもある。それに……」
「それに?」
ジョーが言葉を向けた。
「やるだけやって駄目なら、お前らも俺に対して諦めがつくだろう?」
それを聞いてジョーは少し悲しい顔をした。
昼の込み合った時間。
俺はジョーとファミレスにいる。
周りには俺たちの事も知らないような主婦が旦那の悪口をスパイスにしてパスタを平らげている。
「で、『どこから』やるんだ?」
「決まっている。ライブからだ。ぶっつけ本番、やり直しなし」
「そんなんで誰が納得するんだよ」
「俺だよ」
「くだらねえな」
そう言ってジョーは立ち上がると俺から渡された紙を持って言った。
「下らねえが、昔のおまえの姿が見えるようだ」
「どういう意味だよ」
そう言うとジョーは笑った。
「無鉄砲、無計画、マナーのないやつ」
「うるせぇ」
「ま、何にせよ、お前がやる気を出したんだ、俺もやる気出して練習するか。俺は一旦帰るぜ」
「ああ。ありがとな」
「いや、いい。じゃあな」
ジョーはそう言って店を出た。

ジョーがいなくなってから改めて店内を見渡してみた。
雑多な音、下品な笑い声、食器の重なる音、人の動く音。
自分のいる世界の本当の姿。
朝なんて来なければ良い。
その気持ちは変わらない。
けど。
朝は変わらずやってきて。
自分を否応なく責め続けるんだ。
なら。
やるだけの事をするしかないのだろう。
それだけ事なのだ。
眼を閉じると、情景は霧散し、音もその役割を忘れた。
あの日、あのとき、君が言った言葉が心に去来する。
「わたしは良いと思うけどな」
君の声が聞こえる。
雨粒の匂い。
濁った空気。
君のいる空間の広さ。
すべてが洗い出される。
雨を知る二人がいた。
それだけの季節。
遥か昔の。
澄んでいた時間の元。
俺は知っている。
君が愛おしい。
たとえ君が俺を失っていても。
俺は君が…………愛おしい。
大体、世の中ってのは金になりそうなのと、話題性に飛び付いて、その真意なんて図らないんだ。
俺たちのバンドの『再結成』なんてのはその『話題性』でしかなく。
数多の夢多き者たちがそうだったように。
一瞬にして燃え尽きて、消える定め。
そうであると、願っている。
場所は我らが母校の高校。
文化祭。
そう、夢が叶い、始まった場所。
俺たちがはじめて心を魅せた場所。

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