お返しの繰り返し
慣れることは何度も周りをきょろきょろして、誰も知らずに落ち着いて、そうやって永遠にそこに存在するものだ。バレンタインデーの以降再び訪ねた巣鴨商店街は、私にとってもう慣れているところだった。一方で、慣れた店たちの真ん中についた道だけが、ひときわ真っ白に見えて、正に今日がホワイトデーということを知らせるようだった。
そう、今日はホワイトデーだ。あのバレンタインデーからもう一か月が経ったのだ。時間は振り替えてみてからやっとその速度が実感される。時間という概念にも昔から慣れていたからだろう。バレンタインデーに巣鴨の商店街でチョコレートを配り、暇もなく流れる時間に身を任せ、ホワイトデーにたどり着いた。記念日の名前は変わったとしても、私たちがする行動に変わりはない。つまり、みんなでサンタ帽を被って、甘いものをたくさん用意して、一人一人にそれをあげること。もう慣れているその行動だ。
バレンタインデーにはあげたから、ホワイトデーにはお返しをもらいに行こう。あの日の私たちはそんな話をしながら向き合って笑った。でも、なぜかまたあげる立場としてまた商店街の入口の前に立っていた。私が配り中毒だったせいかもしれない。仕方ないのだ。些細なことをあげて、挨拶して、感謝して、些細な日常会話を交わして、笑いながら別れるその一連の過程に、久々に純粋な楽しさを感じてしまったから。
今回私たちが用意したのはチョコの入ったマシュマロだった。ホワイトデーだから白いものをあげたいという発想から導出された単純な結論に過ぎない。配り方も前回と同じで、一人一人にいきなり声をかけて、マシュマロをあげる。そうするとマシュマロをもらった側はありがたいという一言と一緒に自分の日常を聞かせてくれたり、時には物質的なお返しをくれたりもした。お菓子ももちろんだが、自分の店で売ってる品物をぽんと渡されたのは驚きだった。商品の説明をする彼らの表情や話し方には「好き」が漂っていた。自分の仕事に対する愛情やプライドが感じられる彼らの態度を近くで見ることができるということ。それこそ、申し分ないお返しではないかと、私は思った。何の原理なのか分からないデジタル手相、どこから持ってきたか分からないレトロな雑貨、派手でキラキラする手作りアクセサリー。一見ただのんびりしててまったりしてる巣鴨の商店街は、実は数多くの熱情と好きで形成されたものだな。一つの大きな「商店街」に過ぎなかったそこが細かく分けられて、個人個人の人格の集合体であることに気付いた瞬間だった。ちらっと見ても暖かくて楽しい巣鴨の商店街は、じっくりと見ると益々濃い情熱や親近感を抱いている場所だった。まるで私たちが配ったチョコの入ったマシュマロのように。
そんなふわふわな気持ちになる商店街を歩きながらマシュマロを配る私たちを、商店街の人々はまた迎えてくれて、覚えてくれて、思い出してくれた。「サンタさんがこんな日に何の用だ?」、「頑張ってください」、「バレンタインデーにもチョコもらいました」、「また来たね、サンタたち」など。サンタたちの存在を歓迎してくれて、尊重してくれて、応援してくれるその一言一言には、マシュマロには比べにもならないほどの甘さが込めていた。ちゃんと、対話だった。これこそ、申し分ないお返しではないかと、私は思う。
バレンタインデーの記憶が残っていた商店街のあちこちに、ホワイトデーの思い出が重ねて、商店街のあちこちを彩りに染めていく。サンタたちもまた、商店街の風景の中に誰も知らずに落ち着いて、商店街の人々の頭の中に永遠に存在するだろう。そうやって、慣れていくのだ。
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