選手引退→「電通」に飛び込む

競技選手を引退した2016年12月末、引退直後に大学時代に活動した「早稲田スポーツ新聞会」の後輩f君から、東京オリンピック・パラリンピックの仕事の募集をFacebookメッセンジャー通じて紹介を受けました。早稲田関連のスポーツに卒業後も愛が深いOBOGが多く、ありがたいことに私の競技活動を応援、案じてくださった方が多数おり・・・足掛け19年も頭から滑り続け、納得してほっとし、先のことなどまったく考えずにいた私でしたが、とりあえず、世の中に戻らないと・・・と、JOCの制度も活用し(アスナビNEXT)、オリパラ用の契約社員として2017年の6月に電通に入社しました。

オリパラの仕事と一言で言っても多岐にわたってあるわけで、組織委員会へでの業務もあったようですが、日本で最大の広告代理店のスポーツビジネスとはいかがな世界かということにも興味があったこともあり、何をするかは漠然としたまま飛び込みました。

記者は一見、いろいろ世の中のことを知っているように見え、経済活動と自分自身が仕事で結びついていない面があるため、ある種世間知らずな面があるのは弱点だと、競技選手をしていて強く感じていたので、修行の気持ちでした。私が入社する前年には「高橋まつりさん過労死事件」が話題になっていました。自分の緊張のポイントは会社の評判よりも電通がどんなことを具体的にしている企業なのか、自分のこれまでの経験の中ではイメージが漠然としかわからなかったこと、そんな中で「元新聞記者」「オリンピアン」は好奇の目で見られ、即戦力当然の年齢だったので、勝手にプレッシャーを感じ「?」の中で毎日、全力投球するしかなかったです。

私がまず割り当てられた仕事は、オリパラ時に要望、縁がある海外競技団体の時差調整等の場所となる事前キャンプ地を決め、競技団体や連盟側のニーズをヒアリングし、例えば施設面や宿泊など含めていくつかの候補自治体を割り出し、自治体と交渉して海外の関係者と一緒に下見に回ることでした。選手をしていたので、感覚的に調整必要なことはつかめていたのと、オリンピアンということで競技団体の人からは信用されやすかったかもしれません。そして、自治体と交渉して、海外チームに有利な状況を引き出しました。この場合のクライアントは海外でしたが、レガシーが残るよう自治体にもメリットが出るようにというベクトルもありました。

入社直後にすでに始まっていたのは、イタリアのオリンピック委員会(CONI)の代理として私の属すチームが活動することで、所沢の早稲田大学スポーツ科学部キャンパスに招致するという交渉が始まっていたところでした。

イタリアという国は、若いころに一番インスピレーションを受け、20代前半~中盤、まだ通貨がリラの時代、一人でふらふら旅していた国でした。オペラなど音楽、美術、ファッション、食、すべてに魅了され、なぜ、自分がイタリア人に生まれなかったのか残念に思っていました。トリノオリンピックが決まった時、まだ、私ははスケルトンはしていなかったけど、ここで何か仕事でもできないかな?と思っていました。2006年に選手として目指すことになった、など、私にとっては縁が深い国だったことを思い出すと不思議な気分になりました。
また、母校である早稲田大学と再び、スポーツで関わるというのも縁だなと。偶然の繋がりに人生無駄はないんだなと思え、うれしかったです。

2021年8月にCONIの事前キャンプを無事終えたのですが、こちらの記録記事を共同通信のサイトに「躍進イタリア 五輪代表を支えたおもてなし」との題で書き残したので記録します。
①「早大紺碧寮から金メダル5個」



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