見出し画像

【フランス】シヴォーのネクロポリス

場所:シヴォー(Civaux)、ポワティエ近郊、フランス西部
時代:ローマ末期からメロヴィング朝

シヴォーという小さな町は、ポワティエから南東約35kmのところにあって、すぐ近くに巨大な冷却塔がそびえるシヴォー原子力発電所があります。ここにメロヴィング朝の広い共同墓地(ネクロポリス)があります。メロヴィング朝のネクロポリスは、石棺の蓋を立てて墓地の囲いとして利用されています。墓地内にはおそらく数百の石棺があり、地面に置いたもの、半分埋まっているもの、ほとんど埋まっているもの、そして元の位置にあるものもあれば、移動させられたものもあります。ほとんどの石棺は北東の角にある中世の崩れた礼拝堂跡近くにあります。

石棺の蓋がネクロポリスの塀になっている

石棺の大半はメロヴィング朝時代のもので、西暦500年から800年ごろのものだそうです。石棺の形は台形で、ほとんどの石棺には当時のポワトゥー地方の装飾の特徴であった三本線の十字架が施されています。最も古いものは西暦400年ごろのもので、ローマ時代末期の棺も混じっていると思われます。もともと石棺は浅く埋められており、19世紀から20世紀にかけてこの地にあった地下墓所が発掘され、現在その多くは地上に露出しています。現存する石棺は東西の方向に並んでいて、おそらく故人が昇る太陽を眺められるよう頭部が西になるように置かれていました。蓋のない石棺だけの重さは約800キロにもなるそうです。これらの石棺は、町の東を流れるヴィエンヌ川の対岸にある採石場の石灰岩で作られています。

上:ネクロポリスの石棺、左下:中世の礼拝堂跡、右下:無造作に置かれた石棺

18世紀に描かれた図面によると、石棺の蓋の囲いは1747年にはすでに設置されていましたが、ネクロポリスはかつて北と東に広がり、3ヘクタールを超える広大なものでした。囲いはネクロポリスの大きさを制限するために、15世紀から18世紀の間に作られた可能性が高いそうです。現在の囲いは元の墓地の4分の1しかカバーしておらず、かつては7000~15000個の石棺があったと推定されています。失われた石棺は長い年月の間に、建築資材(石材や敷石)、桶、家畜の水飲み場などとして再生利用されました。石棺がなくなった後の墓地は農地になりました。

ネクロポリスの解説板

おびただしい数の石棺を説明するために、この遺跡にまつわる伝説があります。地元の言い伝えによると、この墓は507年の西ゴート族とのヴイエの戦いで戦死したクロヴィスのフランク人戦士のものだと言われています。戦いの後、石の棺がシヴォーに降り注いだのだそうです。現代の歴史家たちは、この場所をこの地域の中世初期のキリスト教化の観点から見るべきだと考えています。聖ジェルヴェと聖ポルテの教会と洗礼堂がシヴォーに設立され、この二人の重要な初期の聖人の聖遺物があるということで評判が高かったため、大勢のキリスト教徒がここに埋葬されることを選んだのではないかと考えられます。あるいは何か他の理由で、シヴォーでは石棺の製造と埋葬が集中するようになっていたのかもしれません。

メロヴィング朝のネクロポリスが建設される前には、この一部はローマ時代の墓地であり、メロヴィング朝の石棺の蓋には、ローマ時代の円柱を半分に切ったものが再利用されているものがあるそうです。現在に至るまでここは墓地として使われていますが、2000年もの間埋葬地として機能している場所はそう多くはないと思います。

中世 (12世紀)に建てられたシヴォー教会
中世の教会の周囲にある古代の石棺と礼拝堂跡

ここを訪れたのは2003年9月なのでもう20年前になります。このときは見どころといえば、まだ墓地とシヴォー教会だけでした。現在あるシヴォー教会の建物は中世のものですが、周囲にはローマからメロヴィング朝時代の石棺と発掘された当時の教会の土台が残っていました。ネットで検索してみると、2004年3月にはシヴォー考古学博物館がオープンしていました。ネクロポリスがどのように紹介されているのか知りたくて、是非行ってみたいと思っていましたが、年末にポワティエを再訪したときは、残念ながら年末年始だったため休業でした。いつになるかわかりませんが、必ず行きたい場所のひとつです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?