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【フランス】カタラウヌム平原

場所:フランス北東部シャロン・アン・シャンパーニュ近郊
時代:西暦451年

フン族の西ヨーロッパ侵入
中央アジアから西方のローマ帝国を目指していたフン族といくつかのゲルマン部族で構成された連合軍は、フン王アッティラに率いられ、ついに451年には西ローマ帝国領のガリア(現在のフランス)に侵攻し各地の都市を攻略した。それに対して西ローマ帝国軍将軍アエティウスと西ゴート王テオドリック1世は、反フン族のゲルマン諸部族とともにカタラウヌムでフン族と激突した。結果、西ローマ帝国はフン族の蹂躙こそ免れたものの、莫大な戦費と皇帝が統治能力を失ったことで国力はみるみる衰え始めた。一方、フン族も多大な犠牲を払うことになり、本拠地のパンノニア(現在のハンガリー)まで撤退した。

ラ・シェップ村

Camp d'Attila入口と案内板
Camp d'Attila

このカタラウヌム平原があるのは、現在のフランス北東部シャロン・アン・シャンパーニュ近郊で、近くにラ・シェップという村がある。ここには「Camp d'Attila (アッティラの野営地)」と呼ばれる、高い土塁に囲まれた楕円形状の要塞跡がある。本来ここはオッピドゥム(oppidum)という古代ケルト人の城塞集落跡であったが、フン族とローマ軍の激戦地カタラウヌム平原にあることから、18世紀にはここでアッティラが陣を敷いていたのではないかと推測してこの名前がついたらしい。
アッティラがここにいた証拠や記録はなく想像にすぎないが、古代から中世に至るまで要塞として使用され、近代では第一次大戦中に弾薬庫として利用されていたのは事実なので、個人的にはこのような戦時に陣地として有利になる場所をアッティラ(またはローマ軍)は見逃さなかったのではないかと考える。現在はどうなっているかというと、高さ約7mに積み上げられた土塁にぐるりと囲まれた楕円形の土地で、面積は30ヘクタールほどとかなりの広さで、土塁の内側の土地は農地として利用されている。土塁の上は遊歩道になっていて、一周20~30分ほどで歩いて回ることができるが、土塁以外の人工物の史跡はほとんど何もない。
すぐ側に地元の人向けにキャンプ場があるが、歴史研究者やアッティラのファンでない限り、私のような外国人が訪れることはほぼないと思う。古代の要塞跡が近代戦争でも利用されたように、このあたり一帯は第一次大戦の激戦地であったため、当時の不発弾などが残っていて危険な場所も多く、また今でも軍用地として利用されていることもあり、立入禁止の土地が多いという。

クルティゾル村

左:宿泊したペンション、中:ピザショップ、右:サン・マルタン・ド・クルティゾル教会
クルティゾル村周囲 (カタラウヌム平原)

またラ・シェップの少し南には、クルティゾルという道路に沿って長い集落を形成している小さな村がある。2016年8月に現地へ行ってみたが、現在のクルティゾルには9世紀にはすでに記録があるという中世の古い教会もあるにはあるが、全くモダンな住宅が建ち並んでいるのどかな村だった。ここで予め予約していた1軒のペンションに泊まり、夕食時になったが、疲れているので車は運転したくないし…。さて村にレストランはというと、これまた1軒の、開いているのかどうかわからないような小さなピザ屋さんがあるだけだったが、ここでなんとか食事することができた。
このクルティゾル村の起源は、フランスの歴史学者によるとカタラウヌムの戦いの後、フン族の末裔が定住した村だという。アッティラが退却する際に数千人と言われる兵士らがここに残り、その後農民としてこの地で住み続けていると言われている。この地を研究してきた学者は、19世紀から20世紀の現代においても、クルティゾルの村人は他のフランス人が理解しがたい言語、おそらくフン族のものと思われる方言を語っていたという。また冠婚葬祭も独特の方法で行われており、周辺のシャンパーニュの農村との共通性はほとんどなかったらしい。また決定的と言えるフン族の痕跡は、なんと東アジア系の特徴である、蒙古斑(幼児の臀部にある青あざ)が多くみられたそうだ。
現在では交通の便がよくなり、教育やメディアの普及に伴ってこの特殊な言語もほぼ消滅してしまったらしいが、いずれにせよまだ十分な研究はなされていない。

Camp d'Attilaとクルティゾル (教会)の位置


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