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【モンゴル】オルホン碑文

場所:オルホン渓谷、ハラホリン郊外
時代:8世紀初頭

ホショー・ツァイダム博物館

モンゴルのほぼ中央にある古都カラコルム(ハラホリン)から北へ約50km、車で30分くらいのところに、ホショー・ツァイダム博物館がポツンと草原の中に建てられています。このあたりは「オルホン渓谷自然歴史保護区」としてユネスコ世界遺産に登録されており、歴史的遺産である古代碑文だけでなく、古来より遊牧民の聖地として崇められてきたハンガイ山脈の美しい山々があります。この小さな博物館には、8世紀初めに当時の遊牧帝国を築いていた突厥第二可汗国の第3代ビルゲ・カガン(在位716~734年)とその弟キョル・ティギンを称えた高さ3.5mほどの2つの石碑が展示されています。碑文は1889年にロシアの調査隊によって発見され、デンマークの文献学者によって解読されました。

博物館入り口の石人と
石人に彫られた鹿の形のタムガ

突厥は歴代中国王朝の北方に君臨し、国境を脅かした遊牧民族国家のひとつで、匈奴、鮮卑、柔然のあとに興り、突厥の後、ウイグル、契丹、女真、モンゴルと続いています。遊牧民族は中国北方の辺境の地で遊牧生活をおくっていただけでなく、北魏や隋、唐、遼、金などのように、度々中国華北地方を攻めて独自の王朝を建てた民族もたくさんいました。突厥はもとは柔然に隷属していた製鉄を得意とする部族でしたが、552年に独立して一大帝国を築きました。しかし583年には内紛によって、モンゴル高原の東突厥と天山地方の西突厥に分裂し、東突厥は630年に唐に敗れて支配下に入り、西突厥は658年に唐によって滅亡させられました。残っていた東突厥は682年に唐から独立し、新たな可汗によって突厥第二可汗国として再び勢力を拡大しました。

博物館内部
石人の展示
亀趺などの展示

展示されている2つの碑文のうち、731年に死去したキョル・ティギンの碑文は、死の翌年に唐から贈られたもので、もともと太宗皇帝による漢文碑だったものに、突厥文も加えて刻まれたものです。兄ビルゲ・カガンの碑文にも同内容のものが記されており、これらの碑文が古代テュルク語で遊牧民最初の文字とされている、突厥文字解読の鍵になりました。また2001年から始まったモンゴルとトルコ共和国による合同発掘調査によって、734年に死去したビルゲ・カガンの墓廟遺跡から、黄金の王冠など貴金属製品の副葬品などが発見されました。
モンゴルの歴史や文化の調査では、トルコがかなり援助や協力を行っていますが、これは現在アナトリアに住むトルコ人の出自がモンゴルやバイカル湖周辺にあるからだそうで、突厥もテュルク(トルコ)人の国とされており、フン族をはじめとして次々に西遷してきた古代遊牧民族が先祖だと考えていることによります。Googleマップでこの辺りの遺跡をサーチすると、トルコ人観光客のコメントがいっぱい載っていて、関心の高さが窺えます。

ビルゲ・カガンの王冠 (複製)
オルホン碑文 (実物)

実際に博物館へ入った様子ですが、入口からすぐのところで、早速石人が出迎えてくれます。この石人、よく見ると腰の辺りに記号が彫られています。この記号は「タムガ」と呼ばれ、遊牧民が所有者を識別するための烙印に用いた固有の記号で、すでに匈奴の時代から使用されていました。鹿の形を模したこのタムガは、突厥の代々の可汗を輩出した阿史那氏のものです。博物館のメインの展示室に入ると、付近から発掘された石人、亀趺、狛犬?などがあり、そしてビルゲ・カガンの王冠(複製品)と2つの大きな石碑があります。

キョル・ティギン碑 (突厥文)
キョル・ティギン碑 (漢文)
碑額には「故闕特勤之碑」とある
碑額部分に阿史那氏の鹿のタムガが彫られている

碑はどちらも損傷していますが、キョル・ティギン碑のほうが破損が少なく、特に漢文の彫られた面はかなりきれいに残っています。碑の上部(碑額)には「故闕特勤之碑(闕特勤はキョル・ティギンの漢文名)」とあり、碑身に彫られた小さい文字の本文が隷書なのに、こちらは楷書っぽいですね。ビルゲ・カガン碑のほうは大きく4つに割れていたのを復元していますが、碑文は欠落部分が多くかなり読みにくいです。どちらも突厥文のほうには碑額のところに、阿史那氏の鹿のタムガが彫られています。

ビルゲ・カガン碑 (突厥文)
ビルゲ・カガン碑に見える鹿のタムガ
碑に彫られた突厥文字

ちなみにウランバートルの国立博物館にはキョル・ティギン碑の複製品がありますが、ハラホリンのは田舎の小さな博物館なのにこちらのが実物です。なお、国立博物館にはここで発掘されたキョル・ティギンの石像の頭部が展示されていましたが、これは複製品とのことで、実物はチンギス・ハーン国立博物館のほうで見ることができました。博物館の外に出ると、当時の墓廟を復元した場所があり中に入ると、台座に建てられた石碑(複製品)が寂しく建っているだけでした。とは言え、こんな田舎町のしかも人里離れた博物館だと、さぞかし訪れる人は少ないかと思いきや、家族連れなど結構いました。トルコ人っぽい人は見かけませんでしたが、おそらくナーダム祭で帰省したとおぼしき地元の人が多かったようです。普段はもしかしたら日本の地方にある小さい博物館同様、人はほとんどいないかもしれません。

墓廟復元模型
門をくぐると亀趺に載せられた石碑がある
墓廟入口
トルコとモンゴルの共同研究を示す看板がある
復元された石碑
石碑と記念に
モンゴル国立博物館 (ウランバートル)のキョルティギン碑複製
モンゴル国立博物館 (ウランバートル)のビルゲ・カガン石像頭部複製
チンギス・ハーン国立博物館 (ウランバートル)のビルゲ・カガン石像頭部 (左側)

実は今回モンゴルを訪ねた最大の目的は、このホショー・ツァイダム碑文を見たかったためだったので、ハラホリンへ来る途中の渋滞や来てからの長距離の徒歩などの苦労も吹っ飛びました。2023年9月に行ったカザフスタンやキルギスタンに続く3カ国目の遊牧民族国でしたが、なかなか情報が少ないので調べていくうちに、また行きたい場所とか出てきて悩ましいところです。


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