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【中国】昭君博物院(匈奴歴史博物館)

場所:フフホト市、内モンゴル自治区
時代:紀元前1世紀ごろ

匈奴人

昭君とは「王昭君(前51年~前15年)」のことで、紀元前1世紀の前漢時代に宮廷に仕えた宮女です。中国四大美人のひとりに数えられていますが、当時の記録が少なく、また後世になってから創作された、自己を犠牲にして辺境の異民族の王に降嫁し、和平のために尽くしたという物語があまりにも有名になってしまったため、どこまでが史実なのか不明だそうです。
古代中国では、戦国時代から秦漢の時代にたびたび北方から侵入し、略奪を行っていた最初の遊牧騎馬民族帝国「匈奴」に悩まされており、幾度となく戦いが繰り返されていました。北方の境界線として万里の長城が建設されたのは、匈奴から続く遊牧民族の侵入を防ぐためであることはよく知られています。王昭君は、漢王朝が匈奴に対する懐柔政策のひとつとして、時の匈奴王(呼韓邪単于)に妻として輿入れさせた公主でした。公主とは本来は天子(皇帝)の娘の称号ですが、実際には皇帝の娘とは限らず、一族や後宮の娘を匈奴や烏孫といった異民族との和平のために和蕃公主として輿入れさせていました。王昭君も、皇帝一族でもなければ貴族階級でもない、数多い後宮の中にいた女性のひとりであったようです。

王昭君降嫁
王昭君降嫁

漢の元帝の時代、匈奴の内部対立で漢の援助を受けて国を支配した呼韓邪単于は、漢王朝との姻戚関係を結ぶために公主を求め、それに応えて元帝が送り出したのが王昭君でした。王昭君について書かれた最も古い記録「漢書(匈奴伝下)」に記された内容からは、匈奴単于に降嫁した後も高い位に就いており、悲劇的なことは何も記録がないにもかかわらず、後の創作の中で、特に元代に書かれた「漢宮秋」という戯曲によって悲劇のヒロインに祭り上げられ、現在でもその内容があたかも史実のように捉えられて、中国国内はもとより日本や欧米でも広く知れ渡っている人物です。

昭君博物院入口
昭君博物院案内図

内モンゴル自治区フフホト市の「王昭君博物院」には、王昭君の墓とともに「匈奴歴史博物館」があります。実は王昭君の墓とされている場所は、いちばん有名なここフフホト以外にもいくつかあるそうです。小野小町の墓が日本全国にあるのと似ていますね。博物院へ行くには、フフホト中心部からはバスで約30分、終点でした。降りるとすぐに噴水のある立派な入口があり、上が平らなピラミッド形の建物が見えますが、これが匈奴歴史博物館です。

王昭君墳墓
青塚の門
王昭君と呼韓邪単于の騎馬像
王昭君墳墓と石碑

匈奴歴史博物館からさらに奥へ歩くと「中国古代和親文化館」や昭君に関する展示館、昭君像や匈奴の石像、そしていちばん奥に青塚と呼ばれるひときわ高い墳丘があります。これが王昭君の墓らしいのですが、青塚の名称は昭君の死後に塚に生える草が匈奴の地の白い草ではなく、漢の地の青い草であったことに由来するそうです。ちなみに墓の頂上には行けませんでした。訪れた7月上旬は、建物の中から一歩出ると強烈な日差しと暑さのため、それほど歩かなくても結構疲れます。ちょうど学校の夏休みも始まっていたためか、王昭君とか匈奴博物館などというちょっとマニアックな場所なのに、子供連れの家族で結構混み合っていました。

左:青銅製装飾品、中:和親単于の瓦、右:匈奴単于の王冠
匈奴の青銅製品 (上:鍑、下:短剣)

匈奴歴史博物館には、中国の戦国時代から漢代にかけての匈奴の考古遺物が展示されています。匈奴などの遊牧民国家は定住することなく、家畜を飼育するために移動を繰り返していたため、都市遺跡のようなものは中国にもモンゴルにもあまりありません。しかし遠征で連行してきた漢人などを農業や手工業に従事させていたため、彼らが住んでいた集落やクルガン(墳丘墓)から出土した青銅器や土器、貴金属の装飾品、瓦など建物の一部が展示されています。匈奴の勢力範囲は今日の中国北西部だけでなく、モンゴルやカザフスタン、ロシアのシベリア地方にまでまたがっていたため、これらの地域でも同じような遺物が発掘されています。匈奴は紀元後1世紀半ばに内紛によって南北に分裂した後、南匈奴は漢(後漢)に降り、漢と対立していた北匈奴は新たに東から進出してきた鮮卑に追われ、西暦158年ごろに西方へ移動していきました。その後の北匈奴の動向については、当時の中国の記録にほとんど現れていないため謎に包まれているそうです。

フン族 (アッチラ)のパネル

4世紀後半に東欧を席巻し、西ローマ帝国滅亡の原動力となったフン族が、実は北匈奴の末裔ではないかという説はすでに200年以上前から発表されているそうですが、まだ定説にまでは至っていないようです。しかし匈奴歴史博物館のパネルを見ると、匈奴フン族同族説を採用しているようで、私個人もハンガリーやモルドバで発掘されたフン族の鍑(青銅器)が、中国新疆で発掘された鍑とほぼ同型であることなどから、同族説を支持しています。


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