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シニフィエ『ひとえに』観劇メモ3日目

「こまばアゴラ劇場」で行われた劇『ひとえに』の感想です。気になったら2回以上観劇することを是とするスタンスです(1回じゃダメというつもりは全くないのです)。
1回目2回目では気づかなかったことや思わなかったことがメインです。


2024年1月19日(日)18:30~ 晴

表情が良く見える

入口がある方が本来の客席。今回は奥側(写真では手前)にさらに客席が追加

1回目と2回目は本来の客席側で観覧したのだが、今回は劇作家のすすめもあり、逆側で観た。
不思議なことに、こちらの方が役者の表情が良く見える。
以前までは役者の表情よりも物語の内容性に目が行きがちだった。しかし、役者の表情が良く見えることで、こちら側から見ると役者が役の中で「彼らがどんなことを考えているか」と「配役にどう向き合っているか」が自然と主眼になった。

細かい変更がなされている

奇しくも、1回目(初日)や2回目(2日目)とは細かい演出の変更がはっきりと分かった。
1回目で食い気味でズレていた主役のやりとりは、かなりスムーズになり、きちんと会話をしているように見えた。
「都」が「肖像」を訪ねるシーン、そのあと「記者」が訪ねるシーンも細かい変更がある。動きも違う。中には照明の当て方まで違うところもあった。
ここまで行くと、役者の中だけにとどまっていないことから、演出家を交えた変更であることがわかる。
アフタートークに参加したゲスト(今井朋彦氏・中島梓織氏)のアドバイスでもあったのだろうか。もしくは外部の人が一度入ったことで、仲間内だけでは言いにくかったことが言えるようになり、それを演出家が受け入れて変更されたのかもしれない。

役がハマっている

その演出の変更や外からの風が奏功したのかはわからないが、以前よりも「役にハマっている」という感じがあった。これは逆側から観劇したことで役者の表情がよく見えるからだけでは説明がつかないくらいだった。
もしかしたら、最初に見た「思恵」と「とまり」の会話のちぐはぐさも、役者がその役にそこまで入り切れていなかった可能性もなくはない。
とくに「とまり」は他に充てられた「施工」(劇内での殺し屋役」)役に少し引っ張られていた感がある。あるいは、事件後の「とまり」に。言葉のニュアンスは意識的に抑制され、敵、あるいは見えない何かに隙を見せない態度が事件前にすら「とまり」には感じられていた。それが「とまり」自身の本性であるかのように表現されていた。それは実際にそうだったかもしれない。あのような母親に育てられ、父親と母親の関係を見てきたわけだから、男を敵とみなすような態度が培われていても不思議ではない。
もしかすると、そのような「とまり」という役に「とまり」役の役者が最初の頃はうまくつかむことができていなかった可能性がある。「とまり」は難しい役だ。この劇の中ではもっとも心情がダイナミックであり抑圧的である。
しかし、少なくとも6日目には「とまり」を「とまり」として演じることができるようになったのかもしれない。その功績(?)により、劇全体がまろやかになったような気がした。逆に事件後の「とまり」の方が違和感を感じたほどである。

傍観者と当事者の間にある断絶

「思恵」と「とまり」がケンカのようなことをする場面に特にはっきり出ているが、傍観者と当事者の間にはどこまでも断絶があることを突きつける。
しかし断絶がありながら、彼らは傍観者と当事者の中を揺れ動いている。
とくに「思恵」は不思議な立場で、最も傍観者であり当事者だ。ある意味、そのせいか最も冷酷である。言外にまさに「大人になりなよ」と言いまくっている。
特にこれはひどいな、と思ったのは、「思恵」が「とまり」に向ける表情だ。真剣に言葉を受け取ろうとしたり、笑顔を向けたりしているが、その顔はまるで「患者にむけている看護師」の顔そのものであった。
その顔は依子にすら向けられる。言葉すら患者をいたわる看護師のようだった。
しかしそれは「思恵」が成長する過程で獲得した社会に対する防御態勢であり、「道具」(p2/17行)だったのかもしれない。

静止画と動画

「どの瞬間を見るかで印象は変わる」(p88/3行)
と謎の男(「帽子」)が語るとき、傍観者と当事者の違いは、静止画と動画の違いに近いかもしれないと思った。
傍観者は四六時中傍観しているわけではない。人は他人にそこまで興味がない。ある瞬間瞬間を切り取り、その場面で自分の立場に都合のよいように受け止める。その「瞬間」はまるで静止画のようではないか。
しかし当事者はまさにリアルであり、連続性を持つ。表出されないものもたくさん抱えている。リソースだってたくさん奪われている。それは動画のようではないか。無限にクリアで、重い。

観劇後に思ったこと、多層的

先述の通り、役者の顔がよく見えるようになったことで、存外に戯曲そのものではなく、役そのものや役者の役の向き合い方に焦点をあてるような観方になってしまった。
劇の観方はその意味で多層的だなと思った。いろんな観方がある。
役者の性格と「役」の性格すら主題になることも可能だ。例えば明るい性格の役者を暗い配役にしたり、優しいタイプを残忍な悪役に配役したり、そうすることで役者を鍛えるという側面もあるだろう。
それを観客がどう受け止めるか、というのすら主題としてアリである。

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