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シニフィエ『ひとえに』観劇メモ

「こまばアゴラ劇場」で行われた劇『ひとえに』の感想です。


2024年1月13日(土)18:00~ 雪

平田オリザ系の作品は突然始まる(?)

主役のひとり「思恵」の合図もなく始まる独白がこの劇の導入である。観客を演劇に没入させる仕掛けは一応あるものの突然感は否めず、意図的に日常と非日常(=劇)の切り替えタイミングを遅らせあるいは連続性を持たせている。以前見た平田オリザの劇と近い。これを描いた小野晃太朗氏のキャリアはわからないが、影響を受けたのか。それとも、この手法はパイオニアたるオリザを越えてありふれたやり方なのか。

これを描いた人は頭がいい

「漠然とした何か」を直接語ることなく、周辺を語ることで輪郭を示そうとするやり方は、頭が悪いとできることではない。
また言葉選びが巧みで(もしかしたら使い古された典型的なフレーズかもしれないが)、
「私だけ水の中にいるみたいです」(p13/23行)
という言葉一つで輪の中にいる自分に対するかすかな違和感、自分の行動のまどろっこしさ、たまにただよう孤立感、なんだかよくわからない息苦しさを的確に表現している。

食い気味の掛け合い

「思恵」と「とまり」という二人の主役が劇中で初めて会話をする場面。異質に感じるほどにテンポが早い。いわゆる「間」が一切なく、食い気味ですらあった。一瞬、関西人じゃあるまいし下手くそかなどと頭をよぎったが、そうではないことはすぐにわかったし、彼女たちのキャリアを考えたら有り得ない。なんでそうなのかはわからないが、そういう演出なのだと思うことにした。
これは劇を見終わった後に思ったことだが、これからの二人の関係を示唆しているのだろうと解釈した。ずれていく関係性。この場面は後に出てくる中心的な事件の後なのか前なのかは明示されていないが、事件の後(そして完全に縁が切れる前)でも成立しえることこそ注意すべきで、内容も別れの話になっている。
ふたりはこの演出によって、会話しているようで会話していないようにすら感じられる。一応会話になっているのだが、自分の中で想定された答えを前提にすることが可能で、つまり「思恵」は自分の中にいる「とまり」と会話し、「とまり」もまた自分の中にいる「思恵」と会話しているということだ。だから異質なほどに、普通の人が会話するよりもものすごく早く会話ができる。
ふたりは徹底的に深く絡み合っていながら、それでいて破滅的にずれている。そして最後に答え合わせして満足するかのように抱き合う。

「感情のことをなんとかしないと、論理を受け止めるのは難しい」(p22/18行)

安住していた名もなき人が外部から衝撃を受けたとき、先鋭化し、言葉が強くなり、人と距離を置き、誰の言葉にも耳を傾けない。
それは「強い人」の虚像に他ならず、自分がそうでありたい、いやそうであったというスタンスであろうとするから、例えば人とは弱い生き物だとか
「意思は、か弱い」(p28/8行)と言う言葉に傷つく。

「気高さって何?」(p34/12行)

人は言語化していないものを、そのままでたくさん持っている。それを素晴らしいもののように言いながら、それについて尋ねられるとすぐにうまく答えることができない。知っているようで、何も知らない。
「思恵」はそれを、愛する人に対してその人を愛する理由が特にこたえられないことだと一緒だ、という。

弱かった自分と自分が求めるもの

弱い人は、目に見える物質よりも目に見えない「心」や「間」といった精神的なことに興味を持ち、そして暗にそこに救いを求める。目に見えないものこそが重要で本来的なもので、そして強さであり、根源的で永久不滅のものであり、真のヒーローであると考えようとする。目に見えるものだけではあまりに残酷だから。

平和とは

平和とは暴力の後に来るもので、決して静かなものではない。
安全なものですらない。すぐに暴力に移行するから。その意味で、暴力の一歩手前ということもできる。だから暴力をふるうものほど平和を語る。

容易に逆転する

力を持つ者たちに対して、弱い人びとは彼らがつくる嵐に防衛する。
しかしある瞬間、例えば理不尽な事件に対し防衛側のほうが先鋭化し、過激になり、正義を振りかざし、カルト化する。嵐の防衛に手一杯で動くことのなかった弱い人びとは、まるで新幹線のように加速し、周りが見えなくなり、思惑を超えて止まらなくなる。
捨てるなと声なき声で訴え守ってきたものを自分が捨てる側になっている。
事件に狂わされていく。

観劇後に思ったこと

いくつものメッセージがとりとめもなく並んでいて、「何か言いたいんだけど結局言わない」という立場にいようとする意志を感じた。
きっと伝わらないことの絶望をいろいろと体験したのかもしれない。あるいはそういうこと自体を戯曲という形で表現したかったのだろうと思った。
劇中で語られる内容の一つ一つはわかりやすくて、ある意味ありふれたテーゼである。しかし問題はそこじゃないんだよ、といって、例えば「結局は」と付け加えて語られた瞬間にチープになるようなものとしては語りたくないのだ。(おそらく)プロ、あるいはプロになると決めた者として。
そういうのはもうすでに語り尽くされているのだから、というスタンスが見え隠れする。

出演者等

<戯曲・演出>
小野晃太朗
<出演>
新田佑梨(青年団)/金定和沙(青年団)/桂川明日哥/池田海人/福原由加里(劇団唐組)
<スタッフ>
戯曲・演出:小野晃太朗
照明:井坂浩
音響:櫻内憧海
舞台技術協力:菅原有紗(株式会社ステージワークURAK)
宣伝美術:トモカネアヤカ
制作:大蔵麻月
いっしょに考える人:松岡大貴


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