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それはまるで家族のような

高校生の頃は、福祉について学ぶ時間が多かった。そういう業種に特化したクラスだったから、介護や保育、手話やカウンセリングの授業もあった。それでも高校生だった私は、自分が働いている姿が全くイメージできずに何だかぼんやりとしていた気がする。
高校を卒業して、そのまま福祉業界に進む生徒も多い中で私は、社会人になるまでにまだ、時間が欲しかった。文系の四年制大学に進んで、自分の好きな科目を好きなように受けた。その時、文章を書く授業に加えて、心理学にも興味を持っていた。

そして、私は現在、介護福祉士になっていた。
結局、就職活動で私を助けたのは高校生の頃に取得した介護の資格だった。そのまま介護業界で、今もずっと働いている。

まだ、働き始めの頃の話。
有料老人ホームで働く私は、日々の業務に追われる中でも利用者さんとの会話を楽しみにしていた。覚えなければならないことが山積みで、少しのミスもしてはならないと気を張り続けていた私に、ある利用者さんはよく声をかけてくれていた。
「ちょっとここに座りなさいよ」とソファーを優しくたたいて、私を呼ぶ。「もし見つかって誰かに怒られたら、私が呼んだって言ってやるから」と笑うその利用者さんは90歳を超えていて、それでも自分の足でしっかりと歩く人だった。
私が働き始めてすぐに入居したその人は、「私とアンタは同期だから。仲良くしようね」と緊張する私に声をかけてくれて、よく気にかけてくれた。お手洗いの介助や、入浴の介助は確かに私がしていたけれど、私の心のケアをしてくれていたのはその人だったように思う。

「アンタは偉いね」と、よく言っていた。部屋へ伺ったとき、食事を運んだとき、何かお手伝いをしたときによく言っていた。
仕事なのだから、業務に組み込まれていることなのだから、当たり前だ。そんな風に私は思って、そう言われるたびに「いやぁ……」と苦笑いで首を傾げていた。そうすると決まってその人は、「若いのに、こんな婆さんの世話なんてしてるんだから。偉いんだよ」と笑うのだった。

自分で歩いていたその人は、一度だけ部屋の中で転んだ。その時に、それまで頑張っていた足の骨はぽっきりと折れて、その人は車椅子がないと、どこへも行けなくなってしまった。
「情けないね」と相変わらず笑って、その人は毎日そう呟いていた。大好きな散歩ができなくなった代わりに、部屋の中でできることを探して、ある日「今まで知らなかったんだけど」と物珍しそうに知恵の輪を見せてくれた。
「これ外れるんだって。どうやったら外れるの?」と、新しく毎日知恵の輪を外す時間ができていた。日記もつけるようにしたらしかった。何度か見せてもらったその日記には、「今日食べたご飯がおいしかった」「今日はあんまり天気が良くないみたいだ」ととりとめのないことが綴られていた。「あんたのことも書いてあげるよ」と、小さいスペースに一生懸命私のことを書き込むこともあった。

「今、アンタは一生懸命私の世話をしてくれてるから。だから、私が生まれ変わったら、今度は私がアンタの世話をしてやるよ」
そう言われたとき、私は驚いた。そんな風に言ってもらえるなんて思わなくて、その頃にはすっかり家族のような心の距離感になっていたものだから、「まだまだ生まれ変わるまで、長いでしょう」と言ったのを覚えている。
そして、出会ってから二年半くらい経った頃に、その人は静かに息を引き取った。

お通夜で、ご家族様に「あ!」と声をかけられた。
「うちのおばあちゃんが、あなたのこと本当に大好きで、よく話を聞いていました」と、涙ぐみながらも笑顔で話してくれて、私は一緒になって泣いた。恥ずかしい気持ちと、うれしい気持ちと、悲しい気持ちが混ざって、そのあと何を話したかは覚えていない。

「あなたに出会えてよかった」なんて、直接伝えるのは恥ずかしいけれど、実は、私は何度かその利用者さんに伝えていたのだ。
「〇〇さんに会えて嬉しい、ずっと一緒にいてほしい」と私が素直な気持ちを伝えるたびに、「私もアンタに会えてよかったよ。こうやって話せるのが楽しいからね」と返してくれた。
伝えたいときに伝えていても、いなくなってしまったその先、もう伝えられないんだと思うとやっぱり寂しい。

あの人以外に、そこまで心を開きっぱなしにしている利用者さんには出会えていない。特別だったんだ、と今になって思う。
あの人は出会ってから二年半しか一緒にいられなかったけれど、本当に、家族のよう存在だった。もう一人、私にはおばあちゃんがいたんだと思う。

私はそのあと、いろいろあって他の施設に転職することになるのだが、今も時々思い出しては、懐かしさに笑って、少し寂しくなるのだった。

 

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