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何者でもない僕たちが”当事者”を想うとき~「竜とそばかすの姫」の何が消化不良なのか~


※この記事は細田守監督最新作、「竜とそばかすの姫」の重要なネタバレを一部含みます。鑑賞後の閲覧を強く推奨します。




人の弱みは、誰かの生きがいになっている。

こういうと少し残酷ですが、シンプルに需要と供給のお話だったりします。

体の不自由な人を支える人、心に傷を負った人を癒す人。苦手なことを代行してくれるサービス。休日返上でボランティアに赴く人。

一定の需要を満たし、「やりがい・生きがい」に変換する行程。

でも、誰かを助けるはずのこのサイクルは、時として搾取になります。

助けてあげる」―その甘美な響きは、どちらかというと「救う側」のものです。

「竜とそばかすの姫」にはそれをまざまざと見せつけられる1シーンがあります。

救う側の身勝手さ

「竜」のオリジンが恵であることを解き明かし、すずはライブ配信を通して、父からの虐待を受ける恵を助けたいと訴えます。ですが恵はこれまでも同じように「助ける」と言う大人に気持ちを弄ばれてきた過去を明かし、すずの思いを拒絶します。

「助ける助ける助ける助ける…」と恵が連呼するシーンは、印象に強く残っている方も多いのではないでしょうか。

私はここで、「救う側の身勝手さ」が強調されているように感じます。

救う側は、「これが君には必要だから」とずけずけと相手の心に踏み込み、自分の都合で「力は尽くした」と諦めることができる。恵のような人の心は踏みにじられ、放っておかれたままです。

「竜とそばかすの姫」という作品には現在、音楽的な演出やキャラクター造形などを絶賛する肯定的な意見が多数寄せられる一方で、とりあげている社会問題への扱いについて否定的な意見も沢山上がっています

※今回特に参考にさせていただいた”当事者”の方の意見


竜そばをめぐるこの否定的な意見の多くが問題視している社会問題の扱い、ひいては「当事者」と呼ばれる人々の扱いの悪い点は、前述のシーンで恵が訴えていることと通じている、と私は思います。

“舞台装置“としての”当事者”

この作品は、ネットリンチ、虐待の問題について取り上げ、それらの行為が当事者にとってどれほどの精神的負担となるのかを一定描写しています。

ですが、映画の中で説得力を持ってそれらの問題が解決されることはありません。

厳しい言葉になりますが、半ば投げやりに、「報われた感・救われた感」のみを残して作品は幕を閉じます。

個人的にはそれらの問題提起は、

主人公自身が成長したように描写するための(もしくはクライマックスの展開をよりエモーショナルなものにするための)、舞台装置として使われているように思います。

日常を生きていて見聞きすることに対して、何を考えようと、何を思おうと、それは個人の自由だと思います。

ですが、一つの問題の文脈の中で「何者でもない僕ら」が当事者のことを想い、それを表現するとき、もしくは手を差し伸べようとするとき、そこには思いやりと覚悟が必要です

「青ブタ」から学ぶテーマと社会問題の相性

決して私は、当事者でなければ当事者を救うことはできない、と言いたい訳ではありません

僕の知り合いにも、2011年当時は当事者ではなかったけれど、震災復興のために尽力されている方々がいらっしゃいます。

また、自分の専攻が非営利組織論なこともあり、非当事者が課題意識を持ったことから始まったNPOの事例も多く知っています。

活動だけでなく、任意の社会問題について、その現状を周知し問題提起するために作られた作品も多くあります。近年では、「許された子供たち」「SNS-少女たちの10日間-」など、どちらかというとドキュメントに軸足を置いたものではありますが、それぞれが誠実さをもって「現状と解決への糸口」を描写しています。

また、同じくネットリンチ、いじめに向き合った作品としては「”青春ブタ野郎”シリーズ」(以下、”青ブタ”)を挙げることができるでしょう。

主人公の妹かえでは、SNS上でのいじめにあったことにより、誹謗中傷の書き込みを見るたびに体に傷を負ってしまう“思春期症候群”(作中に登場する病気の総称)に陥ってしまいます。

かえでは、「いじめ」を周りの大人に申告しますが、「自傷行為だ」と疑われ取り入ってもらうことができませんでした。この点も今回取り上げている「竜そば」の恵と酷似しているといえるでしょう。

青ブタでは一貫して「自意識と観測される自分」というテーマを描いています。

かえでは、「いじめられた自分」を観測してもらうことができず、「自傷行為をして周囲の大人の目を引こうとする肥大化した自意識を持つ少女」と勘違いをされてしまいます。

恵もまた、「父親から虐待を受け心と体に傷(≒あざ)を負った少年」として観測してもらうことができず、「手当たりしだいに相手に傷を負わせる竜」と見られています。

もっとかみ砕いていうなら、「いじめられっこ」なのに「いじめっ子」として観測されてしまっている状態です。

青ブタでは、かえでが観測されたい自分(学校にいくことができる、兄に迷惑をかけない自分)になるべく、精神的な負担と戦いながらなんとか登校できるようになるまでを描きます。ネタバレになるので避けますが、「観測されたい自分」になったことで主人公にとって残酷なとある結末を迎えます。

僕は青ブタは、「自意識と観測される自分」というテーマと「ネットリンチ・いじめ」の問題、双方を無下にすることなく、物語上のカタルシスも失わせずに描ききった良作だと思っています。

これらを踏まえたうえで今作を振り返れば、恵は文字通りすずに「観測」され、すずの母親のした行為と重ね合わせる形で「「救われる」」(括弧付き)わけですが、恵の家庭環境が結局どうなったのか、そもそもなぜ恵の父親がその場を退いたのか、作中では説明されません。

ここに僕は、「人は誰しも”のっぴきならない事情”を抱えており、それを見たり知ったりしまったら無視することはできない」という作品のテーマと、「虐待」というとりあげた社会問題のミスマッチと消化不良を感じます。

「虐待」という家庭内で起こっている問題な以上、そもそもそれを観測することが難しく、その上第三者が無理やり介入すると、余計に加害者を刺激してしまうことにつながってしまいます。

声なき声に向き合う覚悟とは

それゆえ、「見て見ぬふりはできない」という作品テーマに基づく行動動機と、問題に対する解決策との相性が悪く、結果として消化不良に陥っているのです。

これらの描写は、前述の1シーンのように、”当事者”へ「助ける助けるといって何もしてくれなかった(物語的な救いすらなかった)」という印象を与えてしまっているのではないでしょうか。

確かに取り扱っている社会問題は、一筋縄ではいかないもので、世代を超えた影響という点で「救い」を描写するのは難しいのかもしれません。

ですが、当事者にとって心の負担となるシーンを描いて、そのあとで「難しい問題」と片付けることは、世界中にいる「竜」のアザをまた一つ増やすことと同義だと、私は思います。

君を知りたい
こえにならない
臆病な朝を
たとえ何度迎えようとも
―『U』millennium parade × Belle /(竜とそばかすの姫 主題歌)


当事者の「声なき声」に向き合うということは、途方もない時間をかけることができるぐらいの覚悟と責任が伴うのだということを、一連の作品をめぐる論争の学びとすれば、少しは報われるでしょうか。

鑑賞済みの皆様の感想もお聞かせ願えればと思います。

P.S

誰がなんと言おうとヒロちゃんは最高だった


【本記事とは直接関係のない竜そば考察】

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