追い風

「今日はどこ行く?」

スタスタと歩く彼の後ろ姿に声をかけた。が、何も返事がない。今日は少し不機嫌みたいだ。

今日は、というか彼はここ最近ずっと不機嫌みたいに見える。私のことを徹底的に無視するし、隣を歩こうとしてもどんどん先に行ってしまう。悲しくない、といったらウソになるが、彼が不機嫌なのは私にも原因があることを知っているので、何も言うまい。

子供たちのにぎやかな声で満ちている公園を横目に、日曜日の空気をバッサリと切り裂くようなスピードで彼はどんどん歩いて行く。どこに行くかは教えてくれないが、追い払われないということは、私も同行していいということだろうな、と勝手に解釈して着いていく。

やがて、大通りに出た。いつもの喫茶店に入るようだ。

「やった!ここのクリームソーダおいしいんだよね!」

そう言った私の方をちらりと見て、彼はクリームソーダを2人分注文した。不機嫌でも、無視されていても、ふとした時に優しい彼が私はとても好きだ。

運ばれてきたクリームソーダを見て、その色にしばしうっとりと見とれる。
こんなにも美しい色の飲み物があるなんて、私は未だに信じられない。
透き通った緑の中をゆっくりと登っていく小さな水泡が、目の前で弾ける。パチパチと弾けるソーダの上に乗った真っ白なバニラアイスが、今にもグラスからこぼれ出しそうだ。

私の中を流れる血も、こんな色をしていたらいいのに。そうしたら、怪我をして血が出ても怖くないし、見ている間にパチパチと弾けて消えていくだろうに。たくさん飲めば、いつかはこんな色になるだろうか。何杯くらい飲めば……と、そこまで考えてはっと我に返る。

気づけば目の前に座る彼のグラスはすでに空だった。黙ったまま、溶けかけた私のクリームソーダを見つめている。

「ひとくち、いる?」

そう尋ねると、答える間もなく彼のスプーンが私のバニラアイスを器用に掬った。彼に掬われた部分がへこみ、ぐにゃりと体勢を崩したバニラアイスが、緑色の液体の中へと溶けながら沈んでいく。

やがて、彼は立ち上がって伝票を手にした。どうやらおごってくれるらしい。あまりお金がある方ではないが、彼はこうしていつもお金を払ってくれる。一応、彼女として扱ってくれているようだ。

喫茶店を出ると、彼はまた風を切るように歩き始めた。

「次はどこ行く?」

また3歩後ろから尋ねるが、返事はない。やれやれ、いつになったらこの不機嫌は終わるのだろう。

彼の足取りから予測してはいたが、次に着いたのは図書館だった。彼はとても本が好きで、家の本棚はぎゅうぎゅうに詰まっている。私はそれほど活字が得意ではなく、どっちかと言うとマンガ喫茶の方が嬉しいのだが、彼はそんなことお構いなしのようだ。とはいえ、彼が本に夢中になる姿は、贔屓目に見ても格好いいと思うので、本を選ぶフリをしながらそれを盗み見るのが密かな楽しみだ。

彼が選んで持ってきた本の中から、気になるものを見つけて読むのが私のいつもの過ごし方だ。彼なりに私の好みを考えて、巷で話題の恋愛小説だったり、泣けると評判の歴史小説だったり、時には可愛い動物図鑑だったりと、ラインナップは様々で、必ず1冊はお気に入りが見つかる。

しかし、今日はなぜか惹かれる本がない。彼のセンスが光らない日もあるようだ。が、そんなことを口に出してはますます不機嫌になるので、絶対に言わない。仕方なく、すでに本に入り込んでしまった彼の姿を見つめながら過ごすことにする。

私たちが座る席はだいたいいつも決まっていて、2階の西側、大きな窓のとなりだ。日が沈み始めると、彼の横顔が西日に照らされる。朝のキラキラした光と違って、夕方の光はどこか鈍く、そしてあたたかい。優しく照らされた彼を、このままずっと見つめていたい。そして、このまま彼も私も、大きな光に包まれて、一緒に消えてしまえたら。

ガタリ、と音がして、彼が立ち上がったことに気が付いた。辺りはもうすでに薄暗い。机の上に置いてあった本を全て手に取って、返却棚の方へと歩いていく。今日はこれでおしまいのようだ。

図書館を出て、また彼の後ろ姿に着いていく。もうだいぶ暗くなってきているが、彼の足はまだ家の方向へは向かない。

やがて、大きな坂道へと差し掛かった。少し息を切らしながら登る彼の後ろを着いていくと、そこには同じような大きさの石がたくさん並んでいるのが見えた。

たくさんの石の中から、彼は迷いなくひとつの石の方へと歩いて行く。そして、その石の前で立ち止まり、静かに手を合わせた。

「今年も、会いにきたぞ。」

そうつぶやいた彼の隣で、私は声にならない声で「うん」と返事をした。

少しずつ、足元が軽くなっていくのを感じた。毎年のことだ。慣れている。この日は彼が毎年、私とのデートコースをひとりで回ってくれることも、もうとっくに知っている。2人分のクリームソーダも、私のために選んだ本たちも、全て彼の優しさだと知っている。

「ありがとうね」

彼のことが大好きで、とても大切に思っていた自分が、確かにここに存在していたことを、この日になると思い出す。彼もまた、わたしのことを思い出してくれているのだろう。それが嬉しくて、悲しくて、切ない。だが胸がちぎれそうに痛くても、もう血は出ない。そしてもう、涙も出ない。

「また来るよ」

そう行って坂道を下って行く彼の後ろ姿を見送った。もう、追いかけない。彼には、この先進んでいくべき道がある。わたしが進む道とは違う、広くて穏やかで優しい、愛し愛されるべき世界。だからもう、これで

「さよならだよ」

ぬるい風が、吹き抜けた。

#小説 #短編小説



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