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彼岸

海が見える。山も見える。果てしなく続くこの景色が、あと数日のうちに消え去ってしまうなんて、誰が想像しただろう。

「やっぱりここにいる」

聞き慣れた声に振り向くと、微笑む女の姿があった。

俺がここにいると、いつも決まって現れる。

「ここばっかりだね、最近」

「落ち着くんだ、ここが」

「もう今日が終わっちゃうよ」

「いいよ、また明日も来るから」

「そういう意味じゃなくて…」

「分かってる、ごめん、もっと時間取れってことだよな」

「時間取れっていうのは違うけど、その、やっぱりもう、考えちゃうから」

「分かってる」

女が、俺のすぐ後ろまで近づいてきた。ごつごつした岩肌を、靴底が叩く音がする。

「あと30時間って、放送あったの、聞いた?」

「聞いてない。ここ、何も聞こえないから」

「またそうやって、わざと聞かないようにしてるでしょう」

「してないよ。ここが好きだから来てるだけ」

「わたしには、逃げてるように思えるよ」

「何から?」

「何からって…」

「逃げようがないものからは逃げないよ」

「じゃあ拒否してる。現実を拒否してるだけ。」

「受け入れてるから、こうやって毎日好きな場所に来て、待ってるんだ」

「そんな待ち方、誰もしてない」

「別にいいだろ、待ち方は人それぞれで」

「みんな、好きなものいっぱい食べたり、いつもはできないようなことしてはしゃいでる。こんな辺鄙なところに一人でいる人なんていない」

徐々に上がっていく女の声量と、固く閉じられた両手に、俺はイライラした。

「だからそれは勝手だし、それならなんでお前はここに来た?」

「心配だからだよ」

「余計なお世話。お前も好きなことしろよ、最期なんだぞ」

「好きなことなんてないし…」

少し、女が言葉に詰まった。

「…じゃあ挨拶周りでも行っとけ。みんなしてるって、この前放送で言ってたぞ」

「うそばっかり。そんな放送なかったし、挨拶って、何よ」

「何って、お別れの挨拶だよ。もう会えないんだし」

はっきりと言い切った俺の言葉に、女の身体がぴっと硬直したのが見えた。

「ほんとに、もう、会えないの?」

「会えないだろうな、みんな一緒に終わりだよ」

「なんでこんな終わり方なのかな」

「なんでって、元からそういう星だろ、ここは」

「知ってて、みんなここに住んでたの?」

「そうだよ。みんな、100年前に移住してきた時から、みんな分かってた」

「なんで、ここに住み続けたの?終わりになる前に逃げられないの?」

「まあ、お偉いさんたちは極秘に逃げてるかもしれないけど、俺たちみたいな一般人は逃げる方法なんてないよ。みんな、その方法を探そうともしなかった」

「違うじゃない。探そうと、してたじゃない」

女の言葉に、顔をしかめた。

「……」

「あなたと、そこにいる彼女は、探そうとしてたじゃない…!」

そこにいる彼女、という言葉に、俺はまたイライラした。

もういないだろ。あいつは、もうこんな灰色の石でしか、その存在を証明できなくなっただろ。

「探してたよ。でもなかった。いつまでも見つからないし、あいつはいなくなっちまうし、もう諦めた」

「あなたが、諦めてなければ…まだ…」

「どうでもいいよ」

「どうして…」

「どうでもいい。彼女を一人でここに置いて逃げたくないし、彼女以外の人間のためになんて、元から考えちゃいなかった。」

「わたしは、あなたに逃げてほしかった」

「なに?」

「ひとりになっても、逃げてほしかった」

「なんで」

「あの子と同じ理由だよ。あの子も、あなたには、一人になっても逃げてほしかったと思う」

「勝手なこと言うな」

「…」

静かに、でも確実に怒りを含ませた低い声に、女はうつむいた。

「…もう、今日は帰るよ。ほら、行こう」

少し強く言い過ぎたかと、申し訳なくなった俺は、うつむく女に近づき、まだ固く握られたままの手をとろうとした。

「じゃあ逆だったら!?」

まさに手に触れるその瞬間、女の言葉に手を止めた。

「逆?」

女の顔は、まるでここから見える夕焼けのように真っ赤で、太陽のように熱を持っている。

「もし、死んだのが、あなただったら!?あなたは、生き残ったあの子に、逃げるな、一緒にここで死ね、こうやって終わりの日まで、ひとりで墓まいりをしてろって言うの!?」

目の前にあるはずの女の顔が、なぜかとても遠くに感じる。それでも、女から発される熱量は、今までにない激しさと怒りに満ちている。

「あなた、ほんとは自分が一人になって寂しいだけなのに、それをあの子のせいにして、生きるのを諦めたの?」

「ちがう、俺は、あいつを一人にするのは…」

「かわいそうだからって?死んじゃったあの子はかわいそうだから、ここに一人にはできないって?」

未だかつて、この女にこんな剣幕で詰め寄られたことがあっただろうか。

驚きとその迫力に、つい黙ってしまった俺に、女は容赦しない。

「かわいそうだよ、あの子。死んじゃったからじゃないよ。かわいそうって、あなたにそう思われてることが、かわいそうだよ。」

「どういう意味だよ」

「言葉通りだよ。あの子、きっとかわいそうなんて思われたくない。そしてそれを理由に、あなたが生きることを諦めたなんて、絶対思いたくない。大切な人に残された人間は、生きなきゃいけないんだよ。辛いとか、死にたいとか、生きてる側しか抱えられない感情を抱いてでも、生きなきゃいけないんだよ。死んだ人間は、もう何も感じてはいない。あなたが感じた後悔も、謝罪も絶望も、もうあの子に伝わりはしない。全部あなた一人で抱えて、それでも生きていくことしか、道はないんだよ。」

相変わらず熱を帯びた女の顔から、細い湯気が立っている。よく見ると、女の涙が頬を伝い、顔の温度との差で生じた水蒸気だった。

「生きていくしか、なかったの」

女の顔が、霞んで見えない。泣いていることしか、分からない。

「諦めたらだめ。絶対に、生きることを諦めてはだめなの。」

背中に、じんわりと熱を感じた。今度は、海に向かって沈む、本物の太陽の熱だった。その熱に振り返ると、彼女を示す石にもまた、赤い光が当たっていた。

何も言わない。彼女はもう、何も言ってくれない。

毎日ここに来ていたのは、彼女の声が聞こえる気がしたからだ。

そして、俺の声もまた、彼女に届く気がしたからだ。

どうして、先に死んでしまったのか。どうして、死なせてしまったのか。

謝ってほしかったし、謝りたかった。

生きる気力がなくなったよ、もう諦めたよ。早く会いたいよ。

そう伝えることで、彼女が迎えに来てくれると思った。

どうせみんな一緒に死ぬのだし、ひとりで頑張る意味などないと思った。

そう思うことを、彼女に許してほしかった。

ここに来れば、彼女も許してくれると思った。

もう一度、その石を見た。石だ。ただの石。

彼女がこの世に存在したことを示すだけの、ただの石。

彼女はもう、何も言わない。



「あと、何時間だっけ?」

霞みの向こうで、女と目が合った気がした。

「さっきは30時間だったけど…今は少し減ってるね。」

「絶対間に合わないと思うけど」

「うん、でも、」

女が鼻をすする音がした。ゆらりと霞みが消え、顔が見えた。

赤い鼻で涙をぬぐう女の向こうに、終わりが迫る今日を見た。


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