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彼女の理由

母は強し。世間が思う一千万倍。

初めてそう思ったのは、10年付き合った彼女が
妻になり、彼女が家に来て2年後のことだった。

俺の目に映る彼女は、温和でいつもにこにこしていて、滅多なことでは怒らない。身体はいつも細くて背も小さい。
家に来たばかりの頃は、ぎゅっと抱きしめるたびに、このか細い身体を潰してしまわないかと、いつも緊張していた。

俺は小さい頃から周りと比べて力があり、身体測定はいつも平均越え。背の順で並ぶといつも一番後ろで、身体の小さな同級生をおんぶして、校庭を駆け回って遊んでいた。
そんな自分が嫌いではなかったし、自然にこの身体的特徴を活かして生きていきたいと思うようになった。
だから、救急隊員になったことは、間違っていなかったと今でも思っている。

そんな俺に対して彼女の身体は対照的だった。 妊娠したと知った時、嬉しさと同時に、彼女の身体が心配になった。

「大丈夫だよぉ。」

出産のリスクについて徹底的に調べている俺の後ろから、妻がそう声をかけた。

「心配症だねぇ。」

「いや、でも…」

振り返ると、いつもの柔和な笑顔があった。
妻はお腹を撫でながら、にこにこしている。

「楽しみ、早く会いたいねぇ。」

そう呟く妻に、もっと身体の心配を、と訴えるのは気が引けた。俺はどうしても拭えない不安を抱えながら、出産予定日を待つしかなかった。

ついにその日がやってきた。
勤務を終えてスマホを見ると、タクシーで病院に行くね、というメッセージが来ていた。
覚悟はしていたが、やはり実際その日が来ると気が動転し、慌てて着替えてタクシーに飛び乗った。

病院に着き看護師に案内されている間、半ば放心状態だった。
赤ん坊に会えることよりも、彼女が心配で仕方ない。きっと俺が着いたら、医者が深刻な顔をして、赤ん坊か母体どちらを優先するか尋ねてくるに違いない。
どうしよう、母体を優先したいが、目が覚めた彼女の傷つく姿は見たくない。なんとか無事でいてほしい、彼女の身体に何の問題もなく、どうか健康に生まれてきてほしい。

「あれっ、早かったねぇ。」

いつも通りの妻の声。

「えっ、顔真っ青だけど!どうしたの、大丈夫?」

「ナナ、ナナは…」

緊張で立っていることもままならず、フラフラとよろけながら病室に入る、なんともみっともない俺の目に、彼女の姿が飛び込んできた。
暖かい毛布が敷かれた箱の中で、すやすやと眠っている。

「麻酔が効いていますので、少し眠っているところです。赤ん坊はメスでした。とてもかわいらしいですよ。」

いつも通りの姿を見て安心し、視界がぼやけ始めた俺に、看護師が小さな箱を手渡した。
中には、ナナそっくりの小さな子犬が、これまたナナそっくりの姿で眠っていた。

「さっき、初めてのミルクをあげたところなの。起きてると今の倍かわいいよ。」

同じ箱の中を眺めながら、妻が愛おしそうにそう言った。

「ナナは、無事だったんだな…。無事に生まれて、無事に生きてるんだな…。」

「もちろん無事よぉ。チワワだし、帝王切開にはなったけど、先生の腕に間違いはないから大丈夫。」

ぼやけていた視界が限界を迎え、袖で拭っている俺の横で、妻はまた、にこにこしている。

俺は再びナナの元へ行き、その小さな背中を撫でた。
こんな小さな身体で、赤ん坊を育てて、お腹を切って出産して、そしてこれからはお乳をあげて、見守りながら育てていくのか。
俺なんかより、よっぽど肝が据わっているのかもしれない。小さくて可愛い容姿の裏に、計り知れない強さがあるのかもしれない。

一回り大きくなったナナを見て、また視界がぼやけている俺の後ろから、妻が声をかけた。

「ねえ、次は私の番なんだけど、あなた大丈夫かなぁ。」

「え?」

「あらっ、奥様も妊娠されていらっしゃるんですか?」

「そうなんですよぉ。この前分かったんですけどね、この人ナナの出産でいっぱいいっぱいみたいだったから、とりあえず無事に終わるまで待とうと思って。主人って、身体は大きいんですけど、すごく心配性だから、わたしも気を遣うんです。」

「…え?え?」

「まあ、それはおめでとうございます。大丈夫、ナナちゃんも無事に出産しましたし、きっとおふたりにも元気な赤ちゃんが産まれますよ!」

「ありがとうございます。ね、あなた、がんばろうねぇ。」

「ええええええええええ!?」

妻と看護師の会話に、理解が少しずつ追いついた頃、脳内で繰り広げられる新たな心配ごとの嵐によって、動物病院で卒倒し、あやうく救急車を呼ばれそうになったのは、また別の話。


#小説 #短編小説 #Loft黄本

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