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【港区】歴史に揉まれる増上寺

芝公園は広い。

というより徳川家の菩提寺であった増上寺の敷地は広大で、芝公園はその庭の一部に過ぎません。

増上寺の敷地は浜松町駅付近から東京タワー近辺まであったといいます。徳川家がいかに大きな力を持っていたかわかりますね。

現在地は芝公園の一角にある芝丸山古墳の伊能忠敬碑から。

現在地の地図を見るだけでも、東京タワー、芝公園、増上寺などTHE 東京感があります。

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芝公園には銀世界という梅林があります。古墳の南側です。

銀世界は明治期、西新宿の東京ガスのところにありました。

銀世界とはいったい何だろう?と不思議でした。大阪には新世界っていうのがあるけれど、そういうものなのかな。

明治期には西新宿にあったこの梅林は、流れ流れて芝公園にきていたようです。

石碑には「天保三年」とあり、西暦だと1832年。

明治元年が1868年だから、江戸時代と言ってもそれほど大昔というわけでもない。
当時の梅は残っているかな?

見頃は2~3月頃らしい。その時期にまたこよう。(と言っているうちに2020年3月になってしまった・・・再来訪した時にはすでに梅の時期は終わっていました。)

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芝丸山古墳

増上寺近辺は小高い山になっていて、この丸山古墳は前方後円墳だったようですが、方墳の部分は削りとられており円墳の部分が残ります。

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芝生のある広場とは一線を画すこの空間

中腹にはお稲荷様があります。

ちょっとした広場で、座れる石もあるのでここで昼食。人影もまばらな隠れスポットです。

なんとなく寂れ感がある。そういえば上野の擂鉢山古墳も寂れ感がありました。古墳のバイブスなのかもしれません。

都内には結構古墳があったりします。上野の古墳、芝の古墳、大手町の将門塚も古墳があり、新宿にも巨大古墳群があったらしいです。

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芝丸山古墳の頂上付近の一角に虎の石像があります。

何が書かれているかも読み取ることができず、案内の標識もありません。

今の時代はこういったものは割と大切にされる時代だとは思うけれど、薄暗い周辺は草でボウボウ。

忘れさられているという表現がぴったりです。

しかし今はネット社会。調べたら出てくるんですね。

石碑に書かれていたのは

「鐘がなる春のあけぼのヽ増上寺」

と書かれているらしいです。

これは自民党副総裁までなった政治家、大野伴睦が昭和38年6月調理師法施工5周年で寄贈したもののようです。

虎との関係性はネットでも不明でした。

小学生の頃、小学校に虎の剥製がなんの脈絡もなく置いてありましたが、そういった権力を誇示する時代の流行的なものかもしれないですね。

大野伴睦は当時自民党の総裁だった岸信介に次期自民党総裁の密約を反故にされるなど、岸のことは相当恨んでいたとあります。
のちの総理大臣の佐藤栄作とも険悪な仲だったようです。

今は岸信介の孫であり佐藤栄作の甥である安倍晋三の時代。

親類を恨んでいた人物の案内板など立ててやるものかと…いずれにしろあまり手入れがされている感じはしなかったですね。

(後で立ち寄った管理事務所の案内図には大野伴睦の碑がある事は書かれていました。)

政治家が自己顕示欲を表面に出せていた時代の遺物でしょうかね。


丸山古墳の頂上部分には伊能忠敬の碑があります。

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伊能忠敬測地遺功表

明治22年(1889年)に造られたが戦争で撤収された(金属回収政策)ため無くなったが、昭和40年に再建。
旧遺功表は天をつくようなオベリスク的な形でした。たぶんネット検索すれば出てくるはずです。

伊能忠敬は日本地図史における偉人です。

1795年50歳の時、31歳の天文学者 高橋至時に弟子入り
55歳で蝦夷地へ向けて第一次測量出発
その後、16年間 10回に及ぶ測量を繰り返し、74歳で死去。
没後 大日本沿海輿地全図が完成。

なにが彼を突き動かしたのだろうか。物凄い情熱です。
なにかに情熱を持って取り組める事がある人は幸いと言われています。

たしか論語にも飯食ってゴロゴロして何もしないよりも、バクチでも囲碁将棋でもやっているほうがマシだと書かれていますね。

こちらは古墳外観。
一見すると山城のような感じにも見えますね。地図を見ると南側にはぐるっと堀のようなものがあって、城跡みたいに見えます。古墳なんですね。

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芝生のある広場のハイソな雰囲気とは少し違う雰囲気。ここはここで良いと思います。

文明開化時 1876-84(明治9~17年)

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古墳の北西側、いまは小さな水溜りでしかないが、この当時はかなり大きな弁天祠があったように見えます。
池のある所に弁天様あり。弁天様ある所に池あり。

増上寺の北側には海軍省があり、現在は御成門小学校と公園になっています。

現在の公園の向かいにある御成門、これは日比谷通りが通る事で明治25年に移築されたものですが、この時期の地図には移築前の御成門と思われるものがありました!!!!

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海軍省の東側の分署と書かれているところの下、これが大きさ的にも位置的にも御成門だと思いますね。これまじですごい発見しちゃったな

明治初期は増上寺を含めた徳川家霊廟となっています。

東照宮は徳川家康を神として祀っています。

他にも栃木の日光東照宮、静岡の久能山東照宮などが名所として有名ですね。

諸説があるけれど、東海道の終着点であるこの地は江戸時代は有事の際の江戸城への最終防衛拠点と考えられていました。東海道を東上してきた敵を川を挟んだここで迎え撃つ想定だったみたいです。

北の防衛ラインは上野の寛永寺、南の防衛ラインはここ増上寺という感じで。

実際には田町での話し合いによって江戸城は無血開城します。

時代は降って関東大震災前 1917-28(大正6~昭和3年)

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東照宮の東あたりに小菅銅像というのがあります。
小菅 智淵(こすげともひろ)
近代日本測量の祖です。

この人物は興味深いです。

ウィキペディアによると江戸時代末期に現在の新宿区で幕臣の子供として生まれ、お茶の水の昌平坂学問所で学び、戊辰戦争では幕臣として、函館の五稜郭まで新政府に抗戦し、囚われの身となります。

その後は明治政府の陸軍参謀本部の測量課係長になります。

五稜郭での戦い(1869年)から日本陸軍参謀本部測量係長(1879年)までの10年でものすごい人生の変遷です。

私はこの10年何をしていたのだろう。

地震がきて、結婚し、代々木八幡の貧乏一家となり、子供が幼稚園に通うという事程度の変遷でしか無いですね。

小菅のように鉄砲で打ち合っていた敵方で地位につくというのは、もう天地がひっくり返るほどの変遷だろうと思います。

死後(1899年)にここに銅像が建てられたが、戦時中に金属接収で撤去されました。

芝公園には伊能忠敬の碑もあるし、測量にゆかりのある地なのかなと思いますね。

そして地図の下に大隈銅像とあります。

言わずと知れた大隈重信の銅像ですが、これも戦時中には撤収されたようです。公園の管理事務所のおねーさんに聞いてみましたが、

「聞いた事ないですねー」

とのことでした。でもあったんですよ。大隈重信銅像は4体が作成され、生前に作られたのは2体、その2体目が芝公園に設置されたようです。

そして増上寺へ

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増上寺は今見ても広大なスペースですが、先にいいましたように江戸時代はこんなもんじゃないです。そして徳川時代が終わった後も広大な敷地を持っていました。

今の東京プリンスホテルの敷地、なんか無駄に大きな駐車場あるじゃないですか。あれちょっと不自然だと思いませんか。

あそこは全部、徳川霊廟だったのです。

高度成長期前夜 1955-1960(昭和30~35年)

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東京タワー完成前です。

増上寺の門のところに明治後期から記念碑の表記があるのですが、その場所には今はオブジェ的なものがあって、なんの記念碑かわからなかったですね。

もしかしてちょっと南にある万延元年 遣米使節記念碑とペリー提督の像なのかなと。まあそれらは1960年とのことなので違うかな。

増上寺の門の前にある記念碑があった場所にあるオブジェ。なんなのだろうね。明治期からこの場にはなんらかの碑があったはずなんですよ。

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今回は港区の芝公園を2019年10月から2020年3月の二回にわたって行きましたが

とても楽しめました。また芝公園近辺で別な方向へも歩いて行きたいです。
例えば御成門駅をちょっと北上すると愛宕神社というアースダイバー的には聖域もありますしね。



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