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【渋谷区】千駄ヶ谷 黒澤浩樹、東京体育館、徳川家達

今回は東京体育館編ですが、ご存知の通り東京体育館には徳川邸がありました。今回は空手家 黒澤浩樹選手について熱くなってしまいました。

黒澤浩樹

中学校時代、本屋で立ち読みした空手バカ一代をすべて信じていた私は (だってしょうがないマンガの冒頭にこの物語はすべて真実であるって書いてあるんだもの。)

1991年の中学校卒業間際に、近所のスーパーの外壁に空手の試合のポスターを発見します。

【第5回栃木県大会 全日本王者 黒澤浩樹選手 参加予定】

空手バカ一代では昔の選手の名前は知っていたものの、現代の選手はなにもわかりませんでした。そこに【全日本王者 黒澤浩樹】まず字面からして強そう、そしてかっこいい。

夜になるのを待ってデパートの外壁に貼ってあったポスターを剥がし(汗)自宅の部屋に飾りました。(ここにupしようと思いましたが311の地震で部屋がぐちゃぐちゃになったときに捨ててしまったようです)

そして待ちに待った試合当日、単身バスを乗り継ぎ2時間。宇都宮体育館に行き、試合を観戦。

薄暗い体育館の中、ひときわ身体のイカつい選手が繰り出す、見るからにトルクフルな下段回し蹴り。(スネで相手の太ももを蹴るのを下段回し蹴りといいます)

パーン、パーンという静まり返った会場に響き渡る破裂音とともに相手選手は次々と崩れ落ちていきます。

現実離れした圧倒的な破壊力。あれが黒澤選手なんだ。すごすぎる。(太ももに指のあとがくっきりついていたとか、金的を蹴られた選手はファールカップが割れてしまったとか。)
そしてこの時、これは僕のやるべきものだと確信しました。

身体が弱く筋力が弱く気も弱く、JOJOの奇妙な冒険にでてくる吸血鬼にあこがれていた少年がたどり着いた終着点だったのです。

そうして空手を始め埼玉県に試合で遠征に行き、顔面に打撃をもらって流血して結局は負けた試合がありました。(僕が先に殴ってしまって、その後に殴られたと記憶しています。歯が唇を貫通してしまってしばらくゴハンがまずかったです)

その時、先輩が

「残念だったな。試合中、黒澤選手が頑張れってオマエの事応援してたぞ」

と伝えてきたのです。全く見ず知らずの僕にあの黒澤さんが頑張れと。ますます黒澤選手に対する信仰を強めました。

黒澤は明ではなく浩樹である。

その後、黒澤選手は体重別の全日本ウェイト制大会で七戸康博選手と激闘、回し蹴りをブロックした際に指を開放脱臼、指はブラブラしている状態でしたが、ちらっと指をみただけで、そのまま戦い続けるという荒武者ぶり。

そして黒澤選手は1991年11月に東京体育館で開催される第5回世界大会に出場を決めたのでした。

3日間開催だったので栃木から歌舞伎町にホテルをとって先輩たちと観戦。

1人の先輩が大の黒澤選手ファンで

「黒澤!黒澤!くっろさわ!くっろさわ!くろさわああぁー!」

と毎回大絶叫で応援。激闘の黒澤選手は3位入賞。
優勝は小さな巨人、緑健児選手。

優勝するのは絶対に日本人でなければならないという異様な雰囲気がありました。
いや、僕が思っていただけかもしれません。なんといっても大山総裁が

「第二回大会は日本が負けたらアダシが腹を切る、第三回大会は日本が負けたらキミダチが腹を切れ」

とか過去に言っていたわけですから、それを真に受けてしまってしょうがないですね。社会勉強だと思います。

必ず日本人が勝たなければならないんだ!と狂信的に思うと同時に、前回準優勝、大本命のアンディ・フグ選手は2m超えの外国人選手達との連戦には不公平感はありました。

体育館内でみたアンディ選手は顔が青白でコンディションは良くなかったと思います。そしてフランシスコ・フィリョ戦で衝撃のKO負けとなるのです。

その他で印象的だった試合は、岩崎達也選手とジャン・リビェール選手の試合。後ろ回し蹴りが交錯して、足の長さの差でヒットしたのはリビエール選手の足。崩れ落ちる岩崎選手。

私は絶対に負けてほしくないとの思いが強かったため

「立て!立て!立って!」

と絶叫しました。しかし一本負け。

余談ですが、岩崎選手は三菱の岩崎弥太郎の子孫だと当時の機関紙パワー空手に書いてありました。雑誌には自宅玄関の扉は高さ3mくらいあり、庭にもサンドバッグが吊るしてある写真も掲載されていました。三菱創業家の家系なのでしょうか。

「僕は一族じゃハグレ者だから」

というコメントが印象的でした。

地図を追っていてわかったことですが、明治維新後の明治政府側の権力は強大なもので、政商である三菱はとてつもない力をもっていて、財閥解体となっても一般家庭レベルにはならないでしょう。

おそらくは親戚一同は教育にお金を惜しまずに良い所に就職しているのに、一人、空手にのめり込んでしまってレールを外れてしまったという意識があるのかもしれません。

(のちに関係性を否定する記事もあったみたいなので、結局は三菱と岩崎選手の関係はわかりません。あのでかい玄関とか、庭につるしてあるサンドバックとか僕の幻だったのかな・・・)

あれから30年経ちますか。みな若かったですね。

黒澤選手も2017年に亡くなりました。

私はというと、1995年大山総裁が亡くなると同時に極真空手は分裂し、私も上京し世間の波に流されるとともに急速にやる気を失い、空手をすることは無くなりました。一人暮らしで毎日毎日選手を目指して空手を続けて行くことはできませんでしたね。

家族のサポートが必須だったことに気が付いていませんでした。家に帰れば母親がゴハンを作ってくれて道着を洗濯してくれて、ガレージにサンドバッグがつるしてあって、だれに気兼ねすることなく練習できる環境が僕を支えていたのです。

実質的に高校生3年間のみなのに、それでもこれほど覚えているのは、これが我が青春だったからに他なりません。とてつもなく凝縮した時間だったといえると思います。

東京体育館

そんな思い出のある東京体育館。

体育館は現在工事中で敷地内には入れないので、周辺を見晴らせる所で写真を撮りました。奥に千駄ヶ谷の駅があります。

以下は東京体育館からの引用です。

東京体育館の敷地は、もとは徳川家正氏(徳川宗家17代)の所有地でしたが、昭和18年に東京府が戦時中の国民の士気高揚のための錬成道場として使用するために、土地・建物を買収しました。その後、都制施行後の民生局が所管し「葵館」と命名し、錬成道場として使用しました。戦後、昭和20年12月から昭和27年5月まで駐留軍将校宿舎・将校クラブとして使用され、接収解除後は、一時、東京都収用委員会庁舎として使用されました。昭和27年末、体育館建設のため木造建築物を除去、鉄筋コンクリート造りの洋館2棟は位置を移動させたのち、翌年10月に東京体育館建設工事に着工、昭和31年8月に完成しました。そして昭和32年5月には屋内水泳場建設のため洋館も解体され、取得当時の建物はすべて姿を消しました。

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現代の地図

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千駄ヶ谷から歩いて南に2分ほどの場所。この場所の向かいには風船屋さんがあったのですが、パーティーなどが減少したためか、閉店していました。娘が言い出して聞かないので「眠れる森の美女のベル」の風船を買ったんですよね。娘が鳩森神社編でベルの風船をもって映っています。閉店してしまい寂しいです。

明治時代後期の地図

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徳川邸の場所はこちら。仮に旧徳川邸といいましょうか。

この場所には現在でも一軒お屋敷があるのですが安藤研究所とありました。安藤博という天才技術者、日本のエジソン、「放送」の名付け親。大正時代にラジオと無線電話についての著作がありました。戦前から日本のテレビの基礎を築いた技術者の一人だそうです。

大正時代の地図

徳川邸は移転しました。現在の東京体育館に位置します。

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徳川家達(いえさと)

徳川邸の家主は16代徳川宗家 徳川家達 貴族院議長を30年務めています。1940年東京オリンピック組織委員会委員長。1940年6月5日に家達は76歳で亡くなり、1940年の東京オリンピックは日中戦争で返上、幻のオリンピックとなりました。

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65歳時の音声も残っています。

1935年-05月 恩賜財団 済生会の使命について

名流漫画 明治45.7

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大の相撲好きで平民的ではあるけれど家では殿様としてふるまっていたように書かれています。

そのほか結構ユニークなキャラクターでわりと愛されていたようです。それでないと30年も貴族院議長は勤まらないですね。

終わりに

今回は黒澤選手に対する個人的な思いが強すぎました。東京体育館内にはこれっきりしか行っていません。最近は新宿御苑に行くようになり千駄ヶ谷も通るようになり思い出してみました。


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