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【新宿区】元は老中屋敷。市ヶ谷監獄跡。 

新宿区市谷台町

 かつてこの場所には市ヶ谷監獄がありました。今は道路と住宅地になっています。

新宿区市谷台町
現在地

明治時代

市ヶ谷監獄があったこの西、富久町には鍛治屋橋監獄から移転した東京監獄(市谷刑務所)があり、近くの公園には明治時代に大逆事件で処刑された幸徳秋水らの慰霊碑があるということを調べました。
慰霊碑は戦後に日弁連が建てて祀っています。

市ヶ谷監獄

東京監獄(市谷刑務所)の東、この市谷台町には伝馬町座敷牢から移転した市ヶ谷監獄がありました。同時期に似たような名前の監獄が隣り合っていて紛らわしいですが、今回は市ヶ谷監獄について調べてみます。

明治9~19年 市ヶ谷監獄

市ヶ谷監獄の範囲は現在の市谷台町の全域。南は急な台地になっていることがわかります。

明治期の監獄は台地になっている場所が多いです。現TBSの赤坂監獄、現渋谷区役所の衛戍監獄、現サンシャインの巣鴨プリズン、そしてこの市ヶ谷監獄。当時は高台のほうが管理しやすかったのでしょうか。

ここでは刑の執行もおこなわれていて、大久保利通が暗殺された紀尾井坂の変(明治11年 1878年)での実行犯6人は市ヶ谷監獄で斬刑となっています。

斬刑(打ち首)は(明治12年 1879年)までつづけられます。

有名なところだと 高橋お伝 愛人になれば借金を肩代わりするといった男が翻意したために剃刀で殺害し、強盗殺人で逮捕されこの場で刑が執行されました。

歌舞伎や小説や映画にと、お伝の物語は耳目を集めたようです。
地図で見ると建物の北側がその刑場にあたる造りです。

市ヶ谷監獄の設置期間は明治8~明治43年の35年間。後に中野に豊多摩刑務所として移転。

大正時代

関東大震災前の地図

関東大震災前 大正時代

大正時代にはなくなっています。(西の東京監獄はあります)

現在地である青印の北側、刑場の後に立像の表記があります。市ヶ谷監獄跡が民間に払い下げられた際に建てられた青峰観音があったようです。

高村光雲作の等身大の観音像で、戦時中に金属供出で無くなってしまいました。後は小さな像が建てられています。

高村光雲は上野の西郷隆盛像や皇居外苑の楠木正成像などダイナミックで躍動感がある作品が多いです。

高村光雲と東京美術大学教授らの合作 楠木正成像 今にも動き出しそうな躍動感
大楠公のあまりの迫力にタジタジ


江戸時代



明治期の監獄処刑場という先入観もあり、市谷台町は陰気な雰囲気を感じてしまう場所でもありますが、江戸時代はどうだったのでしょうか。

大江戸今昔巡り 1860年後頃

備中松山藩 板倉周防守勝静

板倉勝静(1823~1889年)

板倉勝静がどんな人だったかというと、寛政の改革で有名な老中松平定信の孫で幕末の老中の首座を務めた人物。

幕末においては新政府軍と戦いを続け、ついには最終戦場となる函館の五稜郭まで転戦するという、非常に骨っぽい男で新政府軍にとってはやっかいな人物だったことが見えてきます。

当時の住宅地は治水、疫病などの理由から谷地や湿地は避けられていました。東には尾張徳川屋敷もあったことも考えるとこの地は江戸時代は住環境の良い場所だったようです。

ちなみに今の首相官邸は江戸時代は老中内藤信親邸、明治維新後は鍋島邸です。

まとめ

現在の市谷台町は監獄跡ということで陰鬱な場所をイメージしてしまいますが、もともとは土地環境良好な場所で、富久町とともに明治維新に翻弄されてしまった土地だということがわかりました。

環状線工事が進まないのも、日弁連が建立した幸徳秋水慰霊碑も、翻弄した政府に対する「国の言いなりになってたまるものか」という思いが土地にあるのかもしれません。という妄想も付け加えておきます。

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